第3話 文豪の娘(後編)

 毎日少しずつ書き溜めた随筆は、淑子がこの家に来てからおよそ三カ月目に脱稿となった。そして作品の完成を何よりも喜んでくれたのは淑子だった。いつもは夕食の準備を整えたら、そのまま夕方の五時半には帰る淑子が「今日は特別です」と、台所でがんばっている。

「まぁまぁ、淑子さん。今日はごちそうねぇ」

「ええ、先生の原稿が完成したお祝いです」

 テーブルには、ちらし寿司と蛤の吸い物が並んでいた。淑子の手作りらしい。

「先生、長いことお疲れ様でございました。今日はささやかながら打ち上げということで、原稿の完成をお祝いいたしましょう。ささ、ビールもどうぞ」

 注がれたのは、父も大好きだったヱビスビール。口にした吸い物は三つ葉の香りと蛤の旨味がよく出ている。

「まぁ、このちらし寿司……!」

 甘く煮た椎茸と干瓢。海老と筍は生臭さもえぐみもなく旨味が存分に引き出されている味付け。程よい酸味の酢飯の上に散らされた錦糸玉子と桜でんぶも文句なしだ。

「お口に合うなら何よりですわ。先生のエッセイにあったのを読んで、ちょっと甘めに仕上げたのですが……」

「淑子さん、あなた天才だわ! まるで母が作ったみたいよ」

「それはようございました。ささ、どうぞ遠慮なさらず……」

 千鶴子はすすめられるままにビールでのどを潤し、ちらし寿司と吸い物に舌鼓を打った。


「…ああ、おいしかった。それに少し、飲みすぎちゃったかも?」

「先生、後は片付けますからどうぞお休みくださいませ」

「そう? ありがとう。じゃあちょっと失礼するわね」

 台所で洗いものをしているらしい淑子に礼を述べ、自室に戻る。机上の電気スタンドを常夜灯代わりに点けて、ベッドに潜り込んだ。

 書き上げた原稿はどの出版社に持ち込もうか……

 明日、淑子が来たら昔の名刺を整理してもらおうか……

 そんなことを考えているうちに、千鶴子は眠りに落ちていった。


 空襲の夢を見た。

 燃え盛る炎、きな臭い匂い。

 熱い、早く防空壕に逃げなくては。

 熱さは耐えがたいものになっている。しかし、逃げようにも足が動かない。もうもうと迫り来る煙がのどを燻す。


 ――空襲ではなかった。

 目の前が真っ赤に燃えている。

 火事だった。

 悲鳴を上げようとした途端、ものすごい熱気がのどを焼いた。

 煙を吸い込んで、呼吸もままならない……



 喪服に身を包んだ淑子が入っていったのは、街中の小さい雑居ビル内にある事務所だった。ドアには「KKファミリーサービス」と書かれている。

「社長、ただいま戻りました」

「はーい、お疲れ~」

 中にいたのは、小太りの中年男。茶を飲みながら新聞を読みふけっていた。

「早いもんだな、今日で初七日法要か……お清めの塩、いるかい?」

「いえ」

「そうか、お疲れさん」

 男はそう言うと、淑子の前に分厚い茶封筒を手渡した。

「はい、今回の報酬ね。先方もたいそう喜んでいたよ」

 淑子はそれを受け取り、中身を確かめてバッグに押し込んだ。

「じゃ、いただきますね」

 男はさっきまで読んでいた新聞を、黙って淑子の目の前に差し出した。先日の火事の記事が載っている。

「遺体は作家の谷本千鶴子さんと判明」

 見出しにはそうあった。

 ――18日、S区で発生した火事で、現場に残された性別不明の死体は、この家に住んでいた谷本千鶴子さん(86歳)と判明した。警察では出火原因を漏電とみて調査している。谷本さんは「父の金平糖」などで知られる作家で――

「警察や消防署の見解は?」

 淑子は記事を一瞥するとそう尋ねた。

「枕元にあった電気スタンドと見ているよ。非常に古いもので、電気コードがショートしていたっぽい。しかも、コンセント部分に埃が溜まって、トラッキング現象を起こしていたんだろうと」

「……あの部屋はゴミだらけで長年掃除もろくにしていませんでしたし、周囲には本や雑誌など、燃えやすいものが山積みでしたから」

 淑子は事務所の片隅にあるミニキッチンで湯を沸かし、食器棚からマグカップとインスタントコーヒーを取り出した。

「多少は片付けてみましたけど、所詮ゴミ屋敷はゴミ屋敷。ちょっと火がつけばあっという間に燃え広がりますわ」

「いいんだよ、そのために息子さんがあの家に火災保険をかけていたんだし」

「古い家を、邪魔者の老婆ごと処分できたってことですしねぇ」

 コーヒーを一口飲むと、淑子はにっこり笑った。

「あ、そうそう。社長、この本ありがとうございました」

 淑子は手提げから「父の金平糖」を取り出した。

「おう、あの婆さんの本な。神田の古書店街ってのは何でも売っているもんだね。初版本だけど、思ったよりは安く済んだのは、そんなに売れていない作家だったからかな」

「この一冊で機嫌が良くなったんですもの、プレミアがついていても安いもんですわ。それと、こちらも…」

「うん、こっちは何だ? ずいぶん分厚いが……」

「それはご子息にお渡しください。先生の遺品…というと嫌がるかもしれませんが、悪いようにはならないかと」



 谷本千鶴子の息子・伊藤純一から依頼があったのは半年前のこと。

「あの婆さんを、何とか『処分』したいんです」

 彼はそう言い切った。

「――彼女が実の母親と知ったのは、自分がもう三十路を過ぎてからでした。父親がガンで、余命いくばくもないと悟ったので、僕に打ち明けてくれたんです」

 純一に実母である千鶴子の記憶は皆無だ。物心ついた時には既に父の後妻が彼の母親として接していた。父が話してくれなかったら、ずっと継母を実の母だと信じてきたことだろう。

「母親らしいことを何一つしなかったくせに、今さらになってノコノコと出てきやがって…」

 純一が千鶴子と再会したときは、ちょうど谷本燕雀の没後から五十年が過ぎ、著作権が切れて印税収入が途切れた頃だった。重ねて当時のバブル景気が災いして地価が高騰し、自宅の固定資産税が支払えなくなるなど、千鶴子にとっては金銭的にかなり苦しい状況だったようだ。弁護士が純一を訪ねたのも、そんな状況を鑑みてのことだったらしい。

「――結局、彼女は親の七光りに過ぎなかったんですよ。書いた本は、デビュー直後こそ売れたものの、それ以外は泣かず飛ばず。親の遺産を食いつぶして贅沢暮らしのあげくに、捨てた息子を頼ってくるなんて…」

 純一が生まれ育った細川家はそれなりに裕福な家だったが、いきなり三十数年ぶりに現れた「母親」を引き取って受け入れることなど、到底容認できることではなかった。

 気のよい継母や純一の妻らが「せっかく実のお母さんに会えたのだから…」ととりなしてくれたことで、つい仏心を出して援助してやろうと思ったのが失敗だった。

「僕の嫁の実家が古い一軒家を所有していたんで、そこに住まわせたんです。そうしたら…あっという間にゴミ屋敷ですよ」

 生活能力が皆無の千鶴子は、家の手入れも掃除もまったくできなかった。ゴミ出しのルールも何度言っても覚えようとせず、ご近所トラブルになったこともしばしば。気位の高い千鶴子は頭一つ下げることなく、尻拭いは全て息子の純一に回ってきた。

「しかも、家のことができないからと家政婦を派遣しても、何かと文句をつけては追い出すばかり…心底うんざりしてしまいました。自分ももういい年ですし、この先、妻や子どもたちに迷惑を掛けるわけにもいきません…」

 社長の小林は、純一の説明を聞きながら、地図を眺めていた。淑子はぬるくなった茶を下げ、二杯目を差し出した。

「細川さん、谷本千鶴子さんのお家のある一帯は、東京五輪の影響でかなり地価が上昇していますね」

 小林は地図から目を離すことなく、そう問うた。

「え? ああ、はい。実はこれまでトラブルになったご近所の方々も高齢化が進んだせいもあってか、どんどん家を売り払って引っ越しているんです」

「ほほう、ではだいぶ空き家が多いと……」

「……そうですね、言われてみれば」

「もう一つお聞きします。あの家に保険は掛けていますか?」

「もちろんです。ごみ屋敷だから、万が一にも火事になんぞなったら……」

「分かりました。少々お時間を掛けますが、満足のいくようにプランを立ててお見積もりを出しましょう」

「ありがたい、よろしくお願いします」


 漏電が原因の火事で老婦人が焼死。もちろん仕掛けは丁寧に行った。気位の高い老婦人のプライドをくすぐり、彼女の家に上がり込み、信頼を得たうえでことに及んだ。

 漏電の原因となった古い電気スタンドは、ほんの少し中の銅線をむき出しにして塩水を垂らして湿らせた。コンセント部分は綿埃を固めたもので覆いかぶせ、ここにも塩水を数滴たらしておいた。家電のショートの理由に、ネズミや猫の尿が原因となることがある。塩水は十分効果的だったようだ

 さらに、その周囲には古い雑誌や新聞を積み重ねた。これで火が付いたら一気に燃え上がる。千鶴子に飲ませたビールには、ウォッカをお猪口一杯ほど混ぜていたから、酔いが回るのも早かった。

 それに何しろ、高齢なので足腰も弱っている。火事に気付いたとしても素早く逃げ出すこともかなわない。


 火災事故から二カ月後、書店に谷本千鶴子の新刊が並んだ。

 タイトルは「続・父の金平糖~最後の思い出」。

 世の中から忘れかけられていた作家の遺作。

 しかも非業の死を遂げる前に偶然書き上げられていた作品。

 そして、文豪・谷本燕雀の娘による父親の素顔を描いた随筆集。

 話題性もあって、一時は文芸書ランキングの上位にも入ったという。


「おう、淑子さん。こないだはどーも。ほら、これもらったよ」

 久々に呼び出されて事務所に顔を出した淑子に、小林は菓子折りの箱を差し出した。

「あの婆さんの本、重版が決まったんだとよ。邪魔な婆さんを処分できただけでもありがたいのに、まさか遺作が届いて、印税収入でプチバブル状態だってぇんだからな。あちらさんも、アフターサービスが良すぎるって、すげぇ喜んでいたよ」

「え…ちょっと社長。これ…風来堂の栗饅頭?」

「ん? 嫌いか?」

「谷本燕雀の好物です……」

「うっ……まぁいいや、次! 次行こう! 依頼が来ているんだよ」

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