第4話 ミュージシャンの男(前編)
「うぃーっす」
「ああ、ちょうどよかったわ。淑子さん、これ、うちの息子の隆一」
母親の久恵が、見知らぬ女に話しかける。
「おはようございます、坊ちゃま」
初老の女がにこやかに声をかけ、丁寧にお辞儀をした。
「KKファミリーサービスより参りました、佐々木淑子と申します。本日よりこちらでお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
「あ、ああ、新しいお手伝いさんね。どーも」
動きやすそうな濃紺のポロシャツにグレーのスラックス。その上からシンプルな生成り色のエプロンをしている。年のころは60代くらいか。白髪交じりの髪を後ろで束ねた、地味な婆さんだ。
「じゃあ、あたくしは出かけますね。淑子さん、よろしくお願いいたしますよ」
「かしこまりました、奥様」
「なに、オフクロもう出かけるのー?」
「ええ、仕事よ、仕事。ああそうだ、淑子さん。あたくしと主人は、夜は商工会の会合に出席するので、夕ご飯は結構ですよ。あと、主人のスーツのクリーニングをお願いしますわね。お店には、来週の出張に間に合うようにって伝えておいてくださいな」
「かしこまりました、奥様。お気を付けていってらっしゃいませ」
スーツ姿でせかせかと出ていく久恵を見送りながら、隆一は大きくあくびをした。昨夜は遅くまで好きなギタリストの動画を見たりゲームをしたりで、眠ったのは明け方近くだ。
「ささ、坊ちゃま『おめざ』でございます」
淑子と名乗ったその家政婦は、マグカップにたっぷり注いだカフェオレと、いい焼き色のついたフレンチトースト、そしてカットしたフルーツを隆一の前に出す。
「お、いいね」
こんな婆さんなら、朝はご飯に味噌汁、鯵の干物や納豆でも出すかと思いきや、意外にもハイカラな趣味をしているようだ。
「ありがとうございます、坊ちゃま」
「いやいや、そんな。それより、坊ちゃまってさぁ、俺もいい年なんだから、そんな風に呼ばれるの、照れくさいよー」
「さようでございますか? でも、わたくしからすれば、やはり坊ちゃまなんですがねぇ」
淑子はにっこりと笑って頭を下げる。おっとりとして人のよさそうな笑顔と、おいしいフレンチトースト。隆一は、この初老の家政婦に何となく好感を覚えた。
本庄家は父の修一と母の久恵との三人暮らしだ。前は姉と祖父母がいたが、姉はだいぶ前に嫁ぎ、祖父母は既に鬼籍に入った。
父も母もとにかく仕事人間だ。もともとは夫婦で小さい食品工場を営んでいた。いわゆる家族経営の中小企業だったが、商才に長けていたのか、気が付けば地元では名の知れた会社になっていた。
今なお現役バリバリで働く両親に反発したわけではないが、隆一は父の会社を継ぐことを拒み、音楽の道に進むことにした。以前は何度も就職しろとうるさく、親子喧嘩になったこともしばしばだ。
さすがに最近は何も言わなくなったが、彼らはまだ隆一のことを認めているわけではない。隆一もそれは分かっている。ちゃんとプロデビューすれば、両親も分かってくれるはずだ。だから今日もギターを練習しなくては。
「ごちそうさん。じゃあ、俺はしばらくスタジオにいるから」
「かしこまりました、お昼ご飯はいかがなさいますか?」
「あー、んー、そうだなー。食べたくなったら電話する。そこの内線電話に電話するよ」
「かしこまりました。リクエストはございますか?」
「何でもいいよー。俺、好き嫌いないもん」
「まぁ、えらいことですわね」
まるでこれじゃ幼稚園児だ。隆一は苦笑しながら離れのスタジオに向かった。
彼がおぼろげに覚えている幼い頃の実家は、一階が工場、二階が事務所、そして三階の3LDKが隆一たちの住まいだった。いかにも町工場という感じだったことを思い出す。
その後、工場はより大規模にするために少し離れた場所に移転、家も丸ごと建て直したのだ。家は家業が繁盛するたびにグレードアップしていった。何度か増改築を繰り返し、今ではちょっとした邸宅になっている。その一角に作った離れは、隆一の音楽スタジオだ。何しろ部屋でギターを弾いていると「うるさい」と叱られる。そこで親に頼み込み、来客用に作った離れを自分用に使わせてもらう事にしたのだ。
隆一はスタジオのドアを開ける。六畳くらいの室内には、機材やギターが色々並んでいる。音楽に没頭するため、防音処置を施したり、ラックに色々な機材を積み上げたりと、あれこれカスタマイズもした。自分の好きなものだけが並ぶここは彼の城であり、聖域だ。
「さぁて、そんじゃまずは…」
タブレット端末を取り出した隆一は、ギターを手にしながら動画サイトを閲覧する。好きなギタリストのプレイをコピーするためだ。ギターで指の動きを確認していると、気になるフレーズが出てきた。
――これって、エアロの曲のアレに似ているんじゃないか?
そう思って、今度はエアロスミスの動画をチェックする。
――やっぱりそうだ。じゃあ、ジョー・ペリーのソロ作品ってどうだったっけ?
一つ気になると次から次へと気になるところが出てくる。どんどん見ていくうちに、手はすっかりおろそかになり、ギターは全く弾かれないままだった。
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