第9話 大家族の女主人(後編)
「まぁまぁ、大奥様! 何と見事な生牡蠣でしょう!」
淑子がキッチンに届いた大量の牡蠣を、目を丸くして見つめている。
「お得意様たちが贈ってきてくれたんだよ。ま、アタシの誕生日プレゼントさね」
今日は須美代の七十七歳の誕生日だ。喜寿のお祝いという事で、贈り物や花が方々から届き、山崎家の人々が右往左往している。
「そういうわけで、ちょっと大変だろうけど、今夜はご馳走を頼むよ。あ、そうそう、これはお福分け。チップ代わりにもらっておくれ」
須美代はポチ袋を淑子に手渡した。中には一万円札が五枚入っている。後で中身を確かめたら腰を抜かすことだろう。こうやって金品を使えば、相手は恩に感じてより一層働いてくれる。だからこれは「生き金」だ。これが須美代の人心掌握術である。こうやって周りの人間を従えてきたのだ。
牡蠣は須美代の好物の一つだ。それを知っている得意先が広島や北海道などからとびきり旨い生牡蠣を送ってくれる。早速調理に取り掛かった淑子は軍手をはめ、いとも簡単に殻をむいている。生牡蠣の殻をむくのはなかなか難しいものだが、さすがはプロの手つきだ。他の女衆も手伝おうとしているが、みな四苦八苦していて、一個むくのに十分もかかっている。そのうち淑子の方が「ここはわたくしがいたしますから」と追い払ってしまった。
「そう、悪いわね淑子さん。それじゃあアタシたち、ダイニングの掃除して、お花を活けてくるわ」
「じゃあ私はケーキ屋さんに注文したケーキを引き取りに行ってくる」
「恐れ入ります。では、そちらはお願いいたしますね」
女衆は少しだけホッとした表情でキッチンから出ていく。こういうところがダメなんだと須美代は思う。そこで手際よくできる術を学ぼうとするなら前向きで向上心があるのだろうが、そこから逃げて楽な方へと行きたがる彼女たちは、しょせんその程度なのだ。
クラッシュアイスにのせた生牡蠣、パン粉とパセリと粉チーズをのせてオーブンで焼いたもの、牡蠣フライ、牡蠣とマッシュルームのアヒージョ、牡蠣の炊き込みご飯と、まさに牡蠣尽くしのメニューが並んだ。どれも旨い、須美代は舌鼓を打ちながら、淑子を見やった。
さっきのポチ袋の中身を見たのだろう。それでなければここまで見事な料理を作るわけがない。いささか年老いてはいるが、これでしばらくはウチに忠義を尽くしてくれることだろう。 この年になると、それなりに人となりを見る目はできている。純粋に誕生日を祝う者、義理でしかたなく列席している者、何かおこぼれがないかとたかる気まんまんな者。この中から跡を継ぐ者たちを選ばなくてはいけないのだ。須美代は牡蠣料理を楽しみながらも、一族の一挙一動にに目を光らせていた。
まだまだ若い連中には負けんと、いささか暴飲暴食が過ぎたようだった。その日の夜遅く、須美代は嘔吐と下痢に悩まされた。牡蠣に当たったのかもしれない。
「おばさま、大丈夫ですか?」
「あ、ああ。吐くもの吐いたらだいぶ楽になったよ。いやだねぇ、みっともなく食べまくったからかねぇ」
さすがに淑子はもう帰ったので、美和を呼び出して手当てしてもらった。深夜だったが、彼女はすぐさま須美代の部屋に駆け付け、背中をさすったり整腸剤を飲ませたりしている。
「ありがとうよ、もう大丈夫だ」
「でもおばさま、明日はちゃんと病院に行ってくださいね」
「なぁに、単なる食あたりだろ。そこまで心配するこたぁないよ」
幼い頃にしてやったように、美和の頭を優しくなでてやる。
「世話をかけさせたね。今日はもういいよ。部屋に戻って休みな」
「はい……」
案の定、朝になれば不調はすっかり消えていた。病院なんて行かなくても大丈夫、それより仕事だ。甥っ子の一人に任せていた不動産事業部の売り上げが低迷しているのが気になる。不況を言い訳に打開策一つ見つけられない。ここはやはり、自分が出向くしかないだろう。場合によっては甥っ子を降格させて、他の人間をあてがうしかない。
掃除をしていた美和の元に、伯父の一人から電話があったのは、あの誕生日から五日後のことだった。いい年をした伯父が、おろおろとして話す内容も要領を得ない。何度も聞き返してようやく分かったのが、須美代が血を吐いて倒れたということだった。
「美和様、ここはわたくしがやっておきます。すぐ病院へ!」
淑子にそう言われ、美和はエプロンを脱ぎ捨てた。
「美和ちゃん、俺も一緒に行くよ。かかりつけの大沢先生には電話しておいたから」
ちょうど休講で家にいた敬介が、ガレージから車を出して美和を乗せる。二人を見送った淑子は、そのままキッチンに戻った。
「社長、ただいま戻りました」
「おう、アンタ宛にアメリカからハガキが来てるぞ」
事務所に戻った淑子に、社長の小林が一枚のハガキを差し出す。
ハガキには若い男女が笑顔で写っている写真が印刷されている。美和と敬介だ。
「早いもんだ、あれから二年か。そういえば、山崎商事は会社更生法適用になったってな」
「そりゃそうでしょ、みんな会社のことそっちのけで遺産相続争いしているんですから。カリスマ経営者に任せっきりで後継者が役立たずなんて話、ざらにあると言えばそれまでなんですけどねぇ」
二年前、事務所を訪れたのは美和と敬介だった。
「あの一族から離れるためにも、須美代おばさんを『片付け』たいのです」
敬介ははっきりそう言った。
金と血縁というしがらみで、一族の人間を支配下におさめ、いいように駒にしている女傑。素直に従うならいいが、少しでも歯向かおうものなら、あらゆる手段で相手を叩き潰す彼女のやり口は、幼いころから目の当たりにしてきた。
「僕も、美和も、あの家に縛られるのはうんざりです。でも、祖父の代から金の力でいいようにされて、祖父母も両親も、あの人に逆らう気持ちなんてこれっぽっちもない」
「本当は私、英語の勉強をして海外で働きたいんです。でもおばさまはあたしのこと、一生手元に置いて召使にしたがっている。あたしの人生は、あたしが自由に決めたいんです!」
須美代の誕生日の食卓に出した牡蠣はごく普通のもので生食でも問題がない。淑子が仕込んだのはアヒージョだ。
「マッシュルームと見せかけて、ドクツルタケを入れたんですよ」
ドクツルタケは「死の天使」の別名を持つ猛毒のキノコだ。食後しばらくたつと下痢や嘔吐を引き起こすが、その後はいったん症状が収まる。しかし徐々に内臓を蝕み、数日後には多量の吐血と肝機能障害を引き起こして死に至る。
牡蠣に当たったと思い込んだ須美代がそのまま病院にもいかなかったのは想定済みだ。仕事人間の彼女は、病院には行かず、不動産事業部を担当している甥の元を訪れたのだ。帳簿を調べると、売上低迷どころか不正な金の流れが分かった。甥にどういうことだと詰問し、怒鳴り散らしているうちに猛烈な吐き気がして、トイレに駆け込んだ。そのまま大量に吐血し、驚いた甥はうろたえるばかり。救急車を呼ぶことすらできなかったようだ。
「あの敬介さんも、なかなかに頭が切れるお方でしたね」
「不動産事業部の不正経理は彼がやったもので、その金は彼の懐に収まっている。その金で俺らに依頼してきたんだ」
「その上で、彼は大奥様に『伯父が不正経理をしているっぽい』と吹き込みました。可愛がっている後継ぎ候補の言い分を信じた大奥様は、怒り狂って怒鳴り込む」
敬介が救急病院ではなくかかりつけ医に搬送するよう指示したのも作戦だった。
「古くからの馴染みというだけの個人病院では、救急処置も難しい。おかげですぐになくなったし、死因は劇症肝炎ということで収まりましたよ」
小林は地元の情報誌を取り出した。
「山崎一族、カリスマ亡き後の骨肉の争い」「女帝の死後、分裂しあう一族」「遺産を巡る一族の憎悪」……おどろおどろしい見出しが並ぶのも無理はない。
須美代亡き後の遺産相続や後継者を巡り、一族は揉めに揉めた。須美代が遺言を残していなかったのもその一因だ。直系の子孫がいないため、遺産をどう配分するか、みな血眼になっていた。
「葬儀の席で早くも口論していましたからねぇ……本当、あさましい」
そんな折、敬介が弁護士に相続放棄を申し出た。後継者にはならない、須美代の遺産もすへて放棄すると言い、家を飛び出したのだ。そして美和も、書置きを残して失踪した。「須美代おばさまが亡くなったのは『病院に行こう』と言わなかった私のせいです。だから一切の遺産も受け取りません」とこちらも相続放棄の形をとった。だがこの二人がいなくなったことなど、一族にとってどうでもよかった。彼らの一番の関心といえば、いかに多くの遺産をもらうかだったのだから。
今二人はアメリカに留学している。敬介は長年の夢だった音楽を学び、美和もMBA取得を目指して勉強しているという。どちらも須美代が生きていたならなしえなかったものだろう。
「美和さん、今論文を書いているそうですよ」
ハガキを見ながら淑子が言った。
「へぇー、テーマは?」
「家族経営のメリットとデメリットだそうです」
「……なるほどねぇ」
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