a-5.光彩
図書資料室は静かだった。数多の情報をたたえた書架は陰を帯びている。かすかな足音が近づいてくる。歩調からして大人の男と予測はついた。
名を呼ばれる。この一年間を同じ教室で過ごした教師の声だった。先生は僕の肩に軽く触れて、手にした封筒を振ってみせた。
「卒業おめでとう。進路の候補が来ているよ。どれを選んでも向いていないということはないんだから、自分の興味に照らして好きな道を進むといい」
僕がお礼を言い終わるや、先生は背を向けて去っていった。がんばれよ、と言葉を置いて。
封を切る。畳まれた紙には簡単な情報しか載っていない。部門と連絡先、担当者名のみ。数件あるうちのひとつに目が留まる。
「農学?」
僕たちは供給される食べ物の出どころを知らされていなかった。どこからか運ばれてきて食卓に並ぶ。大人は野菜や肉の作られ方について答えてはくれない。訊いても本を調べれば出てくるというばかりで。
植物の生育や動物の分類にはくわしくなったけれど、ではこの狭い
鞄に封筒をしまって足早に図書資料室を出た。
世界は書物の中にしか広さを持たないのだとずっと思っていた。暮らす世界は限りなく灰色で、先人たちが積み上げた知識をただ大切に抱くことしか許されていないとばかり。
読み解く人間がいなければ情報の山もがらくただから。死ねば滅びる脳に刻むあれこれに、次世代へのつなぎ以上の意味はないと諦めていた。知ることは喜びだけど、同時にむなしいとさえ思っていた。
連絡先を呼び出す。
もしもこの小さな箱に、緑あふれる農園があるのだとして。その研究に携われるのだとして。かつて憧れた地上の風景に一歩でも近づくことができるのではないか。
通話はすぐにつながった。名乗る。
「あぁ、君か。興味を持ってくれたのかい」
壮年の男性の、ざらつきを帯びた優しい声。勢い込んで「はい」と答える。
「近いうちに見学はできますか」
「ありがとう。こちらとしても嬉しいよ。都合のいい日を教えてくれ」
「いつでも構いません。卒業して暇なのはご存じでしょう」
「そうだったか。いかんせんわたしにはずいぶん遠い話なものでね。では明日、十三時でどうだろう。昼食を済ませてから」
異論などない。
「手続きはこちらで整えておくから。君は時間ちょうどにフロアFの18扉に来てくれればいい。よろしく頼むよ」
余韻のひとつもなく切れる。むしろ臨場感があって良かった。
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興奮さめやらぬまま待ち合わせの場所に着いた。昼食はろくに喉を通らなかった。
昨日の通話相手であるところの教授は十三時きっかりに指定の扉から現れた。白いものの交じるひげを伸ばし、癖のある頭髪は奔放に跳ねている。服装はよれた作業着で威厳らしきものは感じられない。柔和な雰囲気で笑うところなど、親戚にでも会うような気分にさせられる。
「さぁ、行こうか」
教授は扉を開いて僕を招き入れた。廊下は特段の変わったところもなく、ゆるやかな弧を描いてどこかへ続いている。教授の足取りは迷いなく速く、僕は小走りについていく。
迷路のような道順をたどり、いくつもの扉を抜けた後。教授はふいに立ち止まってにやりとした。右手はIDを扉に近づけながら。僕は唾をのんだ。
眼前に未知の世界が開かれる。明るい、光。眩しさに涙が出る。空気は湿って暖かかった。
手前に水耕の葉菜。レタスだろうか。奥にある畝は土だろう……茶色い粉っぽいものが見える。鮮やかな緑があふれ、強い照明に輝いている。遠く、視界の果てまで植物は広がっていた。
驚いたのは人が多いことだ。大人ばかりだけど。研究者らしき人が記録端末を手に歩いているかと思えば、大きな画板を広げて絵を描いている人もいる。中にはただじっと、触れもせずに野菜を眺めている人も。
「ここって、大人なら誰でも入れるんですか?」
「いや。申請と許可は必要だよ。ただ画家や彫刻家、ほかさまざまな芸術家がモチーフとして自然物を使いたいとき、資料として実物を見ることが可能でね。農園はいつも賑やかだ」
「映像資料ではだめなんですね」
「重さや匂いまで再現している資料はほぼないからね。そして彼らは自分自身が感じているという点を重視するんだ。状況そのものにもインスピレーションを得るのかな」
唐突に思い出す。幼い頃、両親に連れられて見た絵画展。鮮やかに描かれたトマトからあの日の疑問は始まったのだ。
僕らの食べているトマトはあのように実るのか。どこにそんな光景があるやか。父も母も研究者だ。入ったことがあるかはともかく、農園の存在自体は知っていただろう。
「子どもの頃に見てみたかったです。昔から興味があって」
「はは、お子さんには少々刺激が強いね。強い照明を使うから。それ以上に管理が難しくてね。結局は食糧だから触られると困るし。管理のための機械には精密なものも多いし」
「管理上の理由で存在を公にしないんですか」
「残念ながら人手が常に足りないものでね。初等教育にまで時間をさけない」
教授はさらに奥の部屋へ僕をいざなった。
一面の黄金色が広がる。風のそよぐ中に揺れるのは麦の穂だった。広さの割に人影は少なく、細く走る通路はただ風景として機能している。
代わりのように小型機械が飛び回っていた。
「飛んでいるのは何ですか」
「観察用のカメラだよ。わたしたちの代わりに働いてくれる。人の手で直接世話を焼くことはあまりなくてね、異常があれば別だが安定した環境ではそれも多くはない。肥料も水も自動で与えられる」
「では、普段は何をされるんですか」
「研究だよ。先人の残したものを学び、考え、実験する。供給用の畑とは別に研究用の小規模な施設があるんだ。とはいえこまごまとやることは多い。好きなだけ没頭していられるわけではないね」
教授は広大な麦畑をぐるりと見渡す。
「さて、どうかな。少しでも魅力を感じてくれたら嬉しいんだが」
すでに答えは決まっていた。衝撃、光、慣れない匂い。好奇心は今にも胸を破りそうな勢いだ。僕の言葉を待ちながら、教授も僕の返答をすでに察しているに違いない。
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