a-4.光来

 十六歳に何の意味があるのだろう。大人と子どもの境目。標準教育からの卒業。結婚。エトセトラ。


 婚姻通知書の封筒を前にして、吐くため息は何度目か。開く勇気はまだない。だいたい、紙でわざわざ送ってくるのが威圧的なのだ。普段は貴重な資源だと言ってろくに触れさせもしないくせに。思えば合格をもらえず、予定より長く練習し続けているヴァリエーションがオーロラ姫なのも皮肉だった。親が考えた相手でも、何人かの中から選べるなんてものすごい贅沢な話だ。お姫様なのだから特別ではあろうけど。

 生涯をともにするはずの伴侶に対して期待が持てないのは仕方ない。血筋やその人の特性をベースに機械がはじき出す組み合わせにすぎないのだから。私の母は画家、父はダンサー。いわゆる、血を薄めるためのカップルだった。たぶん私の代では近いところから相手が選ばれる。顔見知りの可能性は高かった。下手をすれば毎日一緒にレッスンを受けている。

 開いて名前を確認して、がっかりするのは嫌だった。見ないわけにはいかないけれど。何をもってして最適というのだろう。人間ってそこまで簡単に分析できるものなのだろうか。


 私たちの役割はたったひとつ。文化の火を絶やさず、遠い未来の地上へ伝えること。学問であれ芸術であれ、細くとも確かに続けることが必要だった。ならば次の世代に期待されるのは一定の人数と各専門に適した特性だろう。

 理解はできる。では納得しているのかと問われればやっぱり否、なのだ。かつては物語の主人公みたいな運命の出会いを夢想したりもした。ありえないとわかっていたのに。

 大人になるにつれて色々な部分で諦めはついてきたけれど、どこか割り切れない気持ちはずっとあった。

 バレエは物語なのよ、と先生は言う。役になりきることも大切だと。恋を知らず貧しさも身分の差も知らず、どうやって演じろというのだろう。私は書物が好きだった。図書資料室に籠って古い小説を読み漁ったりもした。たしかにお話は私の感情を揺らす。それは本物と同じなのだろうか。

 先生だってこの狭い世界シェルターで生まれ育って、本当の恋もドラマチックな人生も知らないはずなのに。過去の誰かの受け売りの受け売り。私たちが大事に抱えているこれは、変質してしまってはいないのだろうか。


 わからない。けれど制度から外れて生きることは不可能だ。世界はあまりに小さく余裕がない。毒の海を漂い続ける瓶。死以外の方法で抜け出すことはできず、自然死以外は許されない。


 だから考えていたって無駄だ。手元にあるのは決められた未来を通知する書類でしかない。私に選択権はない。見ないまま明日を迎えて、先に私を妻になる者と知っている相手と顔を合わせるなんて御免だ。

 大きく息を吐いて封を切った。紙を裂く感触だけは好きだ。神経の深い所が震える気がする。


 案の定、と言おうか。記されていたのは見知った名前だった。顔も思い浮かぶ。ツァイス。同じクラスの生徒だ。胸のすくようなジャンプをする子。まだ荒っぽいし身体も子どもから抜けきっていないけれど、瑞々しく伸びやかだった。

 レッスンは毎日ある。容赦なく。つまり明日も会うのだ。今まで大して言葉を交わしたこともない。どんな顔をしていればいいのだろう。目が合ってしまったら。帰りに鉢合わせしたら。それより、向こうから声をかけてきたら。周りの子たちに冷やかされたりはしないだろうか。いや、明日は我が身なんだ。そんなことは誰もしないはず。そもそもほかのみんなはどうしているのだろう。私が最初ってこともないと思うのだけど。私が鈍いだけ?


 寝台に身を投げる。もう無理だった。考えることは無限に湧いて、これだったらお姫様の心情の解釈を悩んでいるほうがまだ良い。もう知らない。寝る。明日起きたらちょっとは冷静になっているかもしれないし。

 手をかかげて照明を消した。自室は真の闇に閉ざされて、起床時間までの人工的な夜が始まる。


x


 結局あまり眠れなかった。次々に浮上する思考が邪魔をして、心臓がしずまらなかった。ややだるい身体をほぐしながら部屋を出る。家族の共有スペースにはもう母が朝食を用意して待っていた。サラダ菜と目玉焼き、それからパン。朝のエネルギーとして過不足のない量。料理をするのは母だけど、献立は私の代謝や活動から計算して提案されるものだ。家庭料理というカテゴリもひっそりと継承を押し付けられている。制度で定められたところにより、父も私も不器用ながら持ち回りで料理をしていた。

 母は器用だ。絵筆を扱うところを見ても、私には過程の想像がつかないところが多い。才能は測れるものなのだろう。ゆえに幼いうちから道を定める。効率よく、しかし自由はない。疑問を持たないでいられたらきっと楽だった。無邪気に踊っているように見える周りの生徒たちには、私と同じ割り切れなさがあるだろうか。

 他人の内心は覗けない。だから自分だけが苦しいなんていうのはおこがましい考えで、ひどく子どもっぽい。


「ごちそうさまでした」

「気を付けていってらっしゃい」

 母は穏やかに手を振ってくれる。小さい頃はわがままばかりで苦労させてしまったから。これからは安心して過ごさせてあげたい。画家の息は長い。私が独り立ちしてからもずっと描けるはずだ。心置きなく本分に力をさけるように。

「行ってきます」

 勢いをつけて廊下へ。いつか身体が限界を迎える前に、私の手の届くかぎりの技と心を得なければならない。私たちバレリーナの命はそう長くないのだから。


x


 更衣室にはまだ荷物がなく、一番乗りだとわかる。けれど着替えを済ませてスタジオの扉を開けるとすでに男の子の背中があった。それも私を睡眠不足に陥らせた原因の。

 いつものレッスン曲。アップは始まったばかりのようで、バーを片手に確かめるようにゆるやかな動きをなぞっている。ターンして、彼がこちらを向く。

 目が合った。微笑。あぁこれはもう知っている。彼もあの紙に私の名を見たのだ。どうしていいかわからない。レッスンのあとみたいに顔に血が上っている。心臓がうるさい。

 キスなんてしなくたって、目ならとっくに覚めている。にせものだっていい。私はきっとこの人を好きになるのだ。

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