b-4.微光

 地下へ耳を澄ませば、妙なる調べでも聞こえるんだろうか。


 ありえないな、と自分を嗤う。わたしの手元に送られてくるのは数字ばかりだ。『芸術の繭』の名を持つシェルタは、わたしたちが暮らす『船』からほど近い地中に埋まっている。繭は金属その他で出来ており、船は海も空も渡らない。名前はあまりに詩的で抽象的で夢物語めいて、とても人類存亡の危機にあって考えられたネーミングとは思えなかった。

 シェルタは羽化を待つさなぎを守る繭のように、いずれ地上に翼を広げるだろう文化たちを外界の毒から守る。船は不毛の時代をこえて未来へわたしたちを運ぶ。幻想に希望を託すことは正しかったのか。ただ下手をすれば殺伐としそうな閉鎖空間に、大きな物語の種が転がっているのは悪くない。


 報告は数値の羅列であり、機械が自動的に送ってくるものだ。繭の中の人たちは日頃わたしたちの存在を感じることはないだろう。定期点検が行われていることや各種機器に不具合のないことは、わざわざ手動で知らせるべき事案ではない。そんな時間があるならば一秒でも長く芸術や学問に励み、人類の最盛期に築かれた文化を継ぐべきだ。

 内側で機械工学に携わる人間は、人手不足にあえぐわたしたちよりもさらに少ないとされている。ある種の特権階級である彼らは、生命を維持するシェルタに高度な自動化を施した。日々のメンテナンスは機械自身に任され、異常がなければ触れられることもない。あの繭は芸術の粋であると同時に学問の最後の砦であり、最高の技術を詰め込んだ大層な機械だった。

 わたしたちが各種機器の数値を見守るのは、不測の事態に備えるためでしかなかった。彼らの手に負えない故障が発生したときに外部から力を添えるため。過去長きにわたってそのようなことは起きていない。

 このモニタに命ある人間の言葉が表示される日は来ない方がいい。わたしの仕事はつまらない方がいい。この仕事が光を浴びるときは平和が脅かされたときでしかありえないから。


 強いカフェインを摂取していても目が滑る。見た通りの意味しかない数字の羅列は呪文めいている。退屈だった。交代まではしばらく間がある。椅子を立って身体を伸ばした。深呼吸をする。

 どうせだれもいないのだ。鼻歌は大きくたっていい。数字を音程へ読みかえることを考えたのはたしか数年前だ。高い音、低い音。並んだ数字へ順に当てはめていく。流れていく数字が旋律になる。船に体系だった音楽はない。繭の人々からしたらお笑い種だろう。でもここに暮らすわたしたちに歌が絶えたことはないはずだった。労働やコミュニケーションを助け、気を紛らわす。壁を叩き、床を踏み鳴らし歌えば不安の中でも笑うことができる。

 芸術と名を持つさまざまなものが、どれほど高尚なのかわたしたちには知りようがない。おとぎ話も同然だった。船には歌う人も踊る人も絵を描く人もいる。どんなにひどく焼けた土地からも人が生きる限りそれらはよみがえるはずだった。ではわたしたちがこうも必死に守っているものはいったいなんだろう。


 開かれるまでは中身の見えないタイム・カプセル。ひょっとしたらさなぎはもう息絶えているのかもしれない。届くのは機械の声だけだ。人間の活動が続いていることくらいは数値からわかるけれど、彼らの文化水準がどこまで保たれているかは謎だ。ものすごく堕落していたら嫌だ。おそらくはそれが可能なだけの技術が搭載されているだけに、時々想像してしまうけれど。

 たとえば繭を守る使命を失ったとして、わたしたちは平然と生きていられるものだろうか。

 誰かを守らなければならないという覚悟は人を強くする。自分が先に死んではならず、相手から目を離すことも許されない。常に気を引き締めて前を向き、無用に悩む暇はない。

 船の外は一面の荒野だ。毒に侵され、人間が素肌をさらして生きるすべはない。ただ閉じ込められていつ来るともしれない解毒宣言の日を待つならば、確かに別の目的はあったほうがいいのだろう。


 流れていく数字が頭の中に旋律を置いていく。声は音、音は波。震えるのは喉、空気、それから胸。声は息、息は酸素と二酸化炭素の交換。呼吸は大事だ。頭に酸素がめぐらなくて良いことなんてひとつもない。

 発話によるコミュニケーションが生まれてまもなく、人類は歌を編み出したはずだ。震える胸はなにも物理的な肉体だけではない。心が揺れるのは、歌には情報が多いからかもしれない。旋律、音程、声色、詩。わたしは歌うのが好きだ。わたしはその理由を考えるのが好きだ。

 繭から発せられるわずかな信号。読んで、異常がないかを確かめるだけの仕事。誰かに感謝されることも派手な活躍も無縁ではあるけれど。モニタごしに触れる、もうひとつの世界のわずかな光は嫌いじゃない。誰かがそこに生き、歌い、再び地上に出る日を待っている。


 次の時間の職員が交代を告げに来た。乾いた目をしばたいて廊下へ出る。船外で働く夫もちょうど帰ってくる頃だろう。身を守るための分厚い防護服をまとって動き回る彼は、一歩も外に出ないわたしからすれば別の人種のように力強い。いつか子どもを授かるとして、あの強さを継いでくれたらどんなにすばらしいだろう。わたしの作った数字の歌をかわいらしい声で歌ってくれたらどんなに素敵だろう。

 そういえば夫の友人に娘が生まれたらしい。奥さんはわたしも見かけたことがある。同じ観測系の部署だから。理知的な美人だ。彼女に似ればきっと美しい女の子になる。

 夫は「ダンス狂でちゃらんぽらんで噂好きのうるさいあいつがパパとはね」と茶化しながらも、すっかり子煩悩だと嬉しそうにしていた。自分も、という想いはきっとあるだろう。

 まずは強すぎるカフェインをやめないと。仕事の負担を減らしてもらえるかも聞いて。わたしの命が身近なひとに必要とされていること、わたしの血が未来へと続いていく可能性を前に頬がゆるむ。


 この船は動力をもたない。進むのはわたしたち。わたしたちの命。はるか未来に霞む新天地を目指して、血を、記憶を、歌をつないでいく。

 どうか切れずに、遠いわたしたちの子孫がわたしたちも知らない美しい大地を踏めますように。

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