地中の繭と荒野の船

夏野けい/笹原千波

a-1.光庭

 まんなかのほうが安心だとか、人がたくさんいるほうが落ち着くというのは信じられない。だれかがくれる役割のままに生きてなんの疑問も持たないことも。

 資料室で読んだ古い本のなかでは、子どもたちが自由になりたいと言って大人に憧れていた。私は大人になんてなりたくない。決められた将来に自由なんてないのだから。こんなことを考える私こそ恥ずかしい人間なんだってことはわかっている。ゆらがない光を、機械で切り替えられる昼と夜を当たり前に思うことがきっとうまく生きるってことなんだろう。


 今日はとても明るく、白いタイルに寝転べば目を閉じていてもすこしまぶしい。かげることもほとんどないから『天気が良い』と呼べる日だろう。自然光というのは面白くて、当たると肌が熱くなる。そのぶん背中のつめたさが気持ちよかった。

 二重の気密扉をいくつも抜けないとたどり着けないこの部屋には、おおきなガラスの柱しかない。柱といっても建物を支えるものではなかった。中は空間になっていて上面が外へひらいている。精いっぱい寄っても外は見えないけれど、日によって光の強さが違う。雨だって降ってくる。あたりまえのようにガラスは汚れていくしゴミだって溜まっていくのだけど、気づくとまたきれいになっている。清掃ロボットも見かけないのにふしぎだった。

 むすんでいた髪をほどいて顔にかかるようにする。ついでに親指を軽く噛む。これは私の悪いくせらしい。叱られるたびにやめようと思うのに、手に入れやすい満足には勝てないままだ。


「またこんなところにいたの」

 私をこんなところまで追いかけてくるのは一人しかいない。

「おかあさん」

「赤ん坊みたいな格好をして。お稽古の時間ですよ。戻りましょう」

「嫌。バレエもピアノもやりたくない」

「なに言ってるの。名誉なことじゃない。どちらの先生もほめてくださってるのだし。そろそろひとつを選ばないとね。芸術をおさめるにはどっちつかずじゃ無理だから」

「私はどっちもきらい」

「そうかな。お母さんには一生懸命やっているようにみえるけど」

「そうだよ。社会に逆らえないからやってるだけ」

 母は私の腕をつかんで立たせた。引きずられるように部屋を出る。一瞬だけ、目のはしになにか動くものが見えた。あわてて振り向いたときにはいつものままに光の部屋があるだけだった。気密扉は重たく閉まり、私を現実に戻らせる。

「私、学者になりたいな」

「大人になってからでも出来るじゃない。お勉強もしっかりしていれば。身体は成長しきってからじゃ変えられないから。今は、ね? わかるでしょう?」

 無理だ。学問に才能があるとされた子はもう専門の教育を受けている。未来の私に入るすき間なんてないと母も知っているはずで、だからこれは気休めだった。


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 鏡張りのスタジオには同じ年頃の子たちが並ぶ。レオタード姿の女の子はハーフパンツにTシャツの男の子よりもやや人数が多い。レッスンピアニストは思いきり知り合いで、気まずさを我慢しながら壁に取り付けられたバーにつく。


『わたしたちの使命は学問と芸術を未来へ引き継ぎ、その価値を貶めることなく伝えてゆくこと』


 学校で飽きるほど読まされた文章。だからわかっている。私がなにをしなくてはならないのか、なんてことは。遺伝子、骨格、毎年のように行われる適性検査。この狭い世界シェルターでは見込みのない人間に教えるような余裕はない。好きこそものの上手なれ、なんて完璧な死語だ。この言葉は私が古書好きだということに感謝してほしい。言語学者になるわけでもないのに知っている方が珍しいはずだから。

 ピアノはゆったりとした曲を鳴らしはじめる。無意識にでも、私の身体はするりとポジションに入る。

 踊るのも弾くのも好きではない。でも強制されているということを除けばどれほど本当に嫌いなのだろう。あらゆる角度から適性があると評価されているこの身体はたしかに、しなやかに踊ることができるのに。


 ゆったりとした動きから大きい、速い動きへ。バーからフロアへ。大昔から決められた構成のレッスンをこなしていく。

 大きな跳躍グラン・ジュテは『ドン・キホーテ』二幕、夢の場のアレンジだった。準備プレパレーション、軽やかに滑りだすステップ。大きく跳んで前後開脚のかたちにふわりと浮き上がる。鏡の中の自分と目が合う。

 はけた後、思わず自分の唇を触った。笑っているなんて。


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 それでも私の帰るべき場所はこの光の部屋に違いなかった。


 今日は雨だ。耳を押し当てればガラスを打つ水滴は風によってまだらなリズムを作る。どこか意図的な感じもする不規則さは眠気をさそう。

 寄りかかったままうとうとしていると、急に硬い音がした。何かを打ち付けるような。開いた目に入ってきたのは、埃色の毛糸のようなものが先端にもじゃもじゃとついた棒だった。それがガラスに押し当てられて、こすられる。掃除をしているらしい。たまに硬い部分がぶつかるようで、さっきの音はそれだった。

 ぜんぜん効率的な動きじゃない。つまり、人間が動かしているんだろう。外に人がいると想像したことがないと言ったら嘘だ。私たちに与えられた職業はあまりに偏りすぎている。


「誰……?」

 手のひらを押し当てたガラスが冷たい。これでは聞こえないだろう。拳で思い切り叩く。響いている感じはしない。手が痛くなるだけ。


 だけど願いは届いたみたいだ。それぞれ二本の足と手をもつ相手が、私の前に降り立つ。分厚い鈍色の衣服を身につけている。外はどれだけ過酷な環境なのだろうか。

 手探りで鞄を引き寄せる。学習用端末の電源を入れた。短く文章を表示させる。


『あなたは、誰?』


 その人は板状のものの上に手を滑らせて何かを描く。


『第十八隊所属 ――読めない文字だ

『私は、ライカ。ここは息がつまるの。できたら助けてほしいな……』

『シェルターの強度 防護服なしに生存可能な状況からして救出の必要は無いと判断する』


 情緒的な部分が通じないのは、かれらの生活に余裕がないのか、言葉が違う方向に変化して意味が取れないのか。まさか相手は人間じゃないとでも?


『でも、私あなたに会えて嬉しいんです。外の人』

『自分も。――――守られた人、と読めた


 雨はまだ降り止まない。だけど、あぁ。世界はなんて明るかったのだろう。

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