a-2.光明
研究発表会の客席に安心して座っていられるのは初めてで、幕も上がらないのに涙腺が緩んでいる。
娘はもう衣装をつけて待っているに違いなかった。トウシューズの調子を確かめているかもしれない。
幼い頃は泣いてばかりで、何度も楽屋へ呼び出された。どうせ崩れるメイクは後回しにされて、最後は私が手を握って舞台袖にたどりつく。ピアノだって似たようなもので、毎回抱え上げて会場に行った。
自分の意思が芽生える頃にはレッスンから逃げるようになった。先生は困った顔をしながらも丁寧に教えてくださった。ほかに道がないことは、大人なら誰でも知っている。
だけど、娘は舞台の上では泣かないし逃げないのだ。レッスンだって、引きずって行けば終わるまで帰ってこない。
才能は外から測れる。私だって制度に与えられた仕事に疑問を持つことはあった。
それでいて制作の喜びは腕が、身体がよく知っていた。色を乗せていくときに弾けるぱちぱちとした感情の粒が私を捉えてやまなかった。
娘もきっと同じ。舞台の上では気難しい顔をしないし、いっそ晴れやかに演目をこなす。素人目にも美しく育った身体は確実に技術を備えつつある。
ひとつの転機が訪れたのだろう。半年ほど前に、娘は初めて私の迎えを待たずにあの明るい部屋から帰った。用途もいまや不明な、忘れ去られた光しかない部屋から。
なぜそこに篭って、何があって戻る気になったかは聞いていない。ただその日を境に娘は変わった。
まずピアノをやめた。本当ならもっと早く選ぶべきだったのをやっと決断してくれた。
先生も、向き合い方が変わったと喜んでくれた。このところ背も伸びて、普段の所作も綺麗になった。
プログラムを眺める。第一部として生徒が主体の『眠れる森の美女』全幕、第二部は生徒全員の小品集、第三部はプロがメインをつとめ上級生だけが参加する『ドン・キホーテ』全幕。
娘が出演するのはまだ第二部まで。それでも小品のポルカでピョコピョコ跳ねていた頃からずいぶん成長した。ぷにぷにと柔らかかった手脚もすらりとしてダンサーらしくなってきた。
開演のアナウンスが掛かる。オーケストラが華やかに序曲を奏で始めた。膝の上に指を組む。やがて緞帳が上がる。照明に満ちた舞台がしだいにあらわになる。
従者らしき男の子に、貴族役の女の子が登場する。ここまでは娘より年下だろう。ゆったりと現れる王と王妃、生まれたばかりのオーロラ姫を抱いた乳母は先生か先輩か、身体つきも風格も大人のものだった。
祝福の場面、幼さはあってもひとつの物語を演じることはもう覚えている。
ここはタイムカプセル。芸術や学問を後世に残すための
薄紫のクラシック・チュチュを身につけた妖精役の少女たちが現れる。滑らかに細かなステップを刻み舞台へ広がった。その中の一人が娘だった。
テクニックに難しさはないけれど、指先まで神経が通っているのがわかる。
少女たちが一斉に
上級生たちは溌剌と、けれど優雅に踊る。高く上がる脚やぶれない回転など表面的なことでしかない。凛とした表情が、わずかなアクセントのつけ方が彼女たちを人ならざるものに見せた。
コール・ド・バレエは舞台装置でもある。絶えずかたちを変える美しい背景。脚の角度や顔の向きまで揃えなくてはならないのだと娘がこぼしたこともある。
握り合った指が痺れてきた。純粋に楽しむには娘の苦闘を知りすぎている。
覗けば覗くほど深くなる深淵を芸術と呼ぶのだ。自分にも覚えがあるだけに私も苦しい。娘はこの半年でかつてなく上達しただろうし、かつてなく悩んだはずだった。
ソロをつとめる六人の妖精が姫にかたちのない贈り物をする。最後にリラが授けようとしたときに悪役のカラボスが登場した。引きずるような黒い衣装で手下を引き連れて。姫の誕生祝いに招待されなかったことに腹を立て、十六の誕生日に紡車の針に指を刺して死ぬという呪いをかける。
善の妖精リラは呪いを和らげ、死ではなく姫は長い眠りにつくだけだと告げた。
二幕はオーロラ十六歳の誕生祝い。大勢でのワルツにはじまり、純真無垢な姫が登場し踊りを披露する。婚約者候補の青年たちと組んで舞うさまは蝶のようでもあった。
宴のさなか、一人の老婆が姫に花束を渡す。正体はカラボスで、花束に紡車の針を仕込んだのだった。
苦しみながら倒れるオーロラ。そこにリラの精が現れて姫は眠っているだけだと説明する。リラは城ごと長い眠りに落として幕が降りる。
二幕では狩りに出ていた王子が幻影の中でリラとオーロラに出会い、城へと導かれる。二人は口付けをして皆が眠りから覚めた。
結婚式の場面が三幕だ。娘も貴族役で立っている。衣装のドレスのせいだけでなく、先ほどとは印象が変わる。腕や首の動きで演技をするのも板についてきたと思う。
たくさんの人が結婚を祝福し、姫と王子のパ・ド・ドゥも華やかに舞台は幕を下ろす。
小品集を眺める間も物語の余韻は残っていて、小さい子の跳ね回る可愛らしさもどこか夢の中のようだった。娘も五人で練習曲を踊った。今の自分には最大限のテクニックを詰めた振付には粗さも残る。これもいつか、先輩たちのようにソロを踊るための経験だろう。
長い休憩の終わり頃に、メイクを落とした娘が客席に来た。黙って私の隣に座る。
底抜けに明るい『ドン・キホーテ』の幕が上がった。舞台にはスペインの街並が広がっている。完成されたダンサーたちの踊りはさすがに無駄のない美しさだった。
娘が私の手を握る。その強さが決意ならばこんなに頼もしいことはなかった。
いつかオーロラのように目覚めるはずの芸術を、私たちは担うのだから。
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