a-3.光芒

 調子が良いときほど危ない。どこかで聞いたジンクスが頭をかすめた。へたりこんだままとっさに押さえた足首が痛みとともに熱をもつのがわかる。スタジオ中の視線が集まっている。

 誰か、氷。はやく。

 ざわめきが遠い。冷たい汗が背をつたう。ポアントのリボンがきつい。先生が氷の入った袋をあてがってくれる。脚を動かさないように隅へ。わたしもう生きていけないかもしれないな。お医者さんに連れられてスタジオを出ても、予感は胸の底に根をはって消えなかった。


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 保存的療法をとりますが、元のような精度で動かせない可能性は覚えておいてください。深刻そうに言われれば、固定された足を前に何ができるというのだろう。踊ることに疑問なんて持ったことはなかった。わたしの生きる意味。仕事。存在意義は舞台の上にしかなかった。

 無音の通路を帰る。母の付き添いは断った。自分のレッスンより優先する必要はないはずだ。耳より深いところを音楽が流れる。骨の髄まで染み込んだローズ・アダージオ。本番はもう終わってしまったのに。十六歳の、健やかで翳りを知らないオーロラ姫の踊り。四人の婚約者たちとかわるがわる組んでいたときの感触も忘れていない。あれが最後の舞台になるかもしれないと思えば未練は胸に痛かった。きっちりと固定された足よりも、もしかしたら強く。


 誰も待つ人のない家にまっすぐ戻るのは悲しくて、図書資料室に立ち寄った。解剖学の棚は勉強のためによく見ていたからすぐにわかる。片脚でもバランスの取れる強い体幹。意外なところで役に立つ。なんて、無駄。コーヒーを飲もうとして大鍋を持ってくるみたいな。

 読書用の机には先客がいた。スタジオの問題児。歳は離れていて同じクラスを受けたことはないのに、その存在はよく知っている。リハの時にも本番の時にも逃げたり泣いたり。最近はようやく、身が入ってきたみたいだけど。広げた本は分厚くて、文字が好きな子なのだと思う。それで踊ることしか求められない空間に馴染めなかったのだろうか。

 彼女が顔を上げた。視線がぱちっとぶつかる。

「先輩」

 顔から下へなぞる瞳が、見開かれたまぶたのなかで光った。眉が曇る。

「あ……」

「うん。ちょっと、ね」

「しばらくは踊れないんですか」

 声に残念そうな色がみえたから。ついへらっと口にしてしまう。

「もしかしたら、ずっとかも」

 えっ、と言葉を失って彼女は目を伏せる。後輩を困らせて、わたしは本当にひどい人間だと思う。

「ちょっと、ちょっとだけ待っててください」

 彼女は走ってどこかへ消えてしまった。本は置いたまま。意識せずに開いた資料は皮肉にも足首の靭帯を図にあらわしている。


 しばらくして戻った彼女は男の子を連れていた。いかにも頭が良さそうで、健康に必要な程度の運動しかしないだろう身体は子供らしい貧弱さが目立つ。

「先輩。私の友達を紹介させてください。なんでも知ってて、話も面白いから。口も堅いです」

「子供にそんな、相談役を押し付けるような真似できないよ」

「違います。ただ、治るまではバレエ関係ない友達が必要だと思うんです。先輩真面目だから、私と違って……だからそういう知り合い、少ないんじゃないかって。焦らないで、ただ話すだけの人、いますか?」

 彼女の指摘は間違いなく図星だった。わたしにはただの友達がいない。標準教育学校はもう卒業したし、通っているあいだだってわざわざ学外で話すようなことはなかった。

 わたしたちには時間がない。この身体の許す限りの芸術や学問を蓄え、あらわし、伝えなくてはならないから。いつか地上に文化を花開かせるための種子シェルター。それがわたしたち。

「先輩、私行きますから。ちゃんと治って、また先輩の踊り見られるって信じてますから」

 彼女のレッスン時間が迫っている。学生たちにはわたしたちより遅く、放課後のクラスが設けられている。駆けていく背中をただ見送った。人は変わるものだ。あの子に励まされる日が来るなんて思ってもみなかった。


「ダンサーなんですね」

 取り残された少年がわたしを見上げた。

「今日までは。明日からは、わかんない」

「治らないと言われたんですか」

「今まで通りにはならないかもってだけ」

「なら希望は十分にありますよ」

「わかってる。ただ考えずにはいられないだけ。ダメだったときに辛くないように予防線はってるのかな」

「すごく上手いんだって、さっき聞きました」

「わたしのこと? もう意味ないかもしれないのに」

「できないことが増えたくらいで、あなたの価値は貶められませんよ。踊り手だけがバレエではないでしょう? 教えることだってできる。僕らの本意は守り伝えることなんですから、何を恐れることがありますか。求められているのは稀代の天才じゃありません」

「だったらわたしがわたしでいる意味はなに? きみは?」

「僕は切り拓くよりも誰かから受け取ったものを大切にするほうが性に合っているみたいなので。お姉さんの葛藤については実感しづらいんですよ。申し訳ないけれど。もっともそういう闘争心があれば誰も僕を学問の中に閉じ込めておきはしないでしょう」

 言葉の中にコンプレックスを感じて、急に冷静になる。こんな子供にという台詞を吐いたのは自分なのに。

「ごめんね。ちょっと取り乱して」

「いいんです。誰だって身内にぶつけにくいことはありますよ」

「ありがとう……きみってなんというか、大人だね」

「そう見えるだけです。理屈をこねるのは得意ですから」

 少年は肩をすくめた。その年寄り臭さに笑ってしまう。

「本当ならね、そろそろ教室は卒業するはずだったの。プロとして認められるための条件はほとんど揃えてたから」

「主役を張ったそうですね」

「お喋りね、あの子も」

「あなたに憧れているんでしょう」

 無表情に言ったあと、少年は思い出したように付け加えた。

「オーロラは曙の女神ですよね。再起を想像させるにはぴったりじゃないですか」

 この子は優しい。知識の山ほど詰まった頭から、わたしを慰める言葉を探してくれたのだ。少年の声はわたしの中にひとすじの光を投げかける。

「ありがとう」

 一度きりでは足りなくて何度も、何度も繰り返す。少年は静かに席を離れた。涙に濡れた頬が熱い。

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