encore/光の靴

 円熟期を迎えたバレリーナ。厚い皮膚を持つ美しい足がわたしの作ったトウシューズに差し込まれる。真新しい薄紅色のサテンはフィッティングエリアのリノリウムの上で初々しく光る。

 鍛え上げられた脚のラインは見惚れるほどだが、口許の肌のかすかな翳りで決して若くないと知れる。


 かつてバレリーナは靴を加工して足に合わせていたのだという。商品ごとに決められた木型と素材。個々人に完璧に合うことはない。それを美しく身体に沿わせるために、破壊と呼んでもいいような手の掛け方をした。

 今でも行われている、つま先プラットフォームのサテンを切ってかがったり揉んで柔らかくするなどの生易しいものではない。中敷きインソールを切る、余っている部分を縫ってつめる、踏む、叩きつける、水につける。そういった調整は踊らない時間のほとんどを費やすほどであったそうだ。


 職人もダンサーも一定の人数しか存在しないなら個人に合わせて型を作った方が効率が良い。資源が限られていること、何度でも溶かして再利用できる樹脂製の足型が開発されたことも理由のひとつだ。

 靴も素材も、ダンサーの足も無駄にはできない。少女たちは手練れの職人が完璧に合わせた靴でつま先立ちの動きポアントワークを学ぶ。痛みや靴擦れは過去のものとされていた。

 わたしのような見習い職人はトウシューズを百も二百も履き潰したようなキャリアあるバレリーナに意見をもらいながら作る。名だたる主役級ダンサープリンシパルの彼女を担当すると決まった時は手が震えた。彼女は至って穏やかで、理知的だった。少し合わないくらいなら手でほぐしたり、かがって使えると言ってくれた。正真正銘、わたしは彼女に育てられたのだ。


 彼女がつま先立つと、足首から指先にかけてぐっとしなってアーチをつくる。サテンに皺がないことと、足裏にソールが吸い付くように弧を描くことを見て安心した。最低ラインはクリアしている。


「ライカさん、どうですか」

「えぇ、いいですね。しっかり乗れますし柔らかすぎもしません。これなら次の公演も気持ちよく踊れます。あといくつ作ってくださっているんでしたっけ」

「ほかに五足あります。ご要望通り、すべて硬めで作っています」

「柔らかいのは前に頂いたのがあるから大丈夫よ。念のため、全部履かせてくださいね」


 彼女はひとつひとつ、丹念に靴を確かめてゆく。手で曲げて。足を入れて。つま先立って。ときには組み合わせを変えたり左右を入れ替えたりする。

 最後には深くうなずいてわたしを見た。


「ありがとう。私、あなたの作るシューズが好きよ。真摯な感じがして」

「それはライカさんが、わたしのひよっこだった頃を知ってるからでしょう。師匠はまだまだだって言います」

「そうかもしれない。お世辞ではないけれどね」


 彼女は苦笑する。


「最近ね、教えをするようになって。今までもアシスタントとしてクラスに立つことはあったの。ただ、自分がこの子たちの将来を左右しかねないというのは、ね。子どもたちがひたむきなら、なおさら。ソナタさんはもう子どもたちの靴は作られるんですか?」


「いえ、わたしはまだ……でも若いダンサーさんの担当も任されるようになってきたので、もうすぐかもしれません。責任重大で、どうしましょう」


 つややかなサテンを愛おしげに撫でて、彼女は呟く。

「思えば私たちは靴と職人さんにも育ててもらったのよね。私なんてすごく不真面目な子どもで、これは危ないんだからちゃんとやらなきゃだめだって、先生にもあなたの師匠にも散々言われたものです。あれでも怪我なく今まで来られたのはぴったりの靴シンデレラ・シューズと幸運のおかげ」


 だからといって怖がることなんてないと思うんですよ、と彼女は続けた。


「私たちみんな、こんな狭い世界シェルターに閉じ込められて嵐が去るのを待っているでしょう。芸術を標榜しながら観客なんて誰もいないのに、継承のためだけに技を競うの。ただの歯車だってわかっていて、ただ止まらないで未来へ続いていくことだけを期待されているばかりで。でもみんな、ちゃんと自分の仕事に向き合っているでしょう。それってすごく美しいわ」


 彼女が作業台に置かれた使い古しのトウシューズを手に取る。もうつぶれてしまって十分に体重を支えられないものだ。


「私ね、子どもの頃は定められた進路が嫌だった。何度も逃げて、何度も怒られて、でも運良くここまで来られた。幼いころからきちんと向き合ってきた子たちからしたら、腹の立つことでしょうね」


 言って、薄いパッドをつま先に付け足を靴におさめ、リボンを素早く結ぶ。

 彼女の受けている評価はよく知っている。希代のプリンシパル。踊りを知らない人間にも涙を流させるような厚みのある表現力と、高度なテクニックを併せ持つ。ストイックな練習のみならず、解剖学的知識をも身につけた恐ろしいばかりの向上心。


 彼女に不真面目な少女時代があったなんて信じられず、言葉の綾にちがいないと思う。ただ夢見るように過去を語る顔のやわらかさに意外さを覚えた。いつも芯のある気高い微笑みしか見せてくれないから。


 いちどつま先立ちポアントすると、ソールはかなり急な曲がり方をして折れんばかりだ。ふらつきもしないのはさすがだった。体幹の鍛えられかたが違う。服を着ていてさえ、自身の筋肉が骨格を引き上げて体重を殺しているのがわかる。だから彼女たちバレリーナは人ならざるものとして踊ることができるのだ。


 ふわり、と降りたかと思えば軽やかに両足での回転ストゥニュを決めてみせる。甘やかに風が香った。


「あなたの靴が私をこんなふうに踊らせるの。ねぇ、もしお時間があったら、今度の公演はぜひ見に来ていただきたいんです。最後かもしれないんですもの。こんなに激しい役を務めるのは」


 人の身体は常に変化している。生を受け、育ち、盛りを迎え、やがて衰えていく。踊りこんで年月を経れば表現には磨きがかかる。かわりに肉体は老いにとらえられる。彼女はその交点に立っているのかもしれない。外からはまだ察せないだろう些細な傷は、やがてわたしたちにも見えるようになる。


「行きます、かならず。師匠はわかってくれますから。ライカさんの担当になれたのはわたしの誇りですから」


 師匠だってこうやって、何度もダンサーの盛衰を見送ってきたのだろうから。

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