【 Ⅵ 】海神と咎の青年
■■■
『
不可視ながらも体に触れたと知覚する、風のような呼び声に意識が浮かんだ。
五つの
(――否)
否。左端の上の目が動いていない。二度三度と感覚を繋げてみたが結果は変わらず、完全な闇で閉ざされている。昨日までは相当霞んではいたものの辛うじて見えていたのだが、眠っている間に知らず力尽きたらしい。これで横二列に並ぶ八つの目珠の内、上部四つが完全に潰れてしまった――その現実を無味に受け止め、深く吐いた息と共に排出する。
『主、目が』
『分かっている。……どうでもいい』
『……』
己を起こした狼型の小さな屍獣はへたりと耳を垂らし暫し無言で待機していたが、雷雲色の沈んだ彩の毛を靡かせて数歩移動するとこちらの鼻先ですとんと坐した。短毛に覆われた太い尻尾で力無く弧を描くように振る様が四つに減った目でもまだ正常に見える。
『……お加減は?』
『変わらん。それよりファイレーロはどうした』
『人間共の見張りに。オレは主の様子を見に』
『お前達は真面目だな。いや、神経質になっているのか……もう、いいのだぞ』
『主』
鋭く、しかし湿り気を帯びた咎めに小さく笑い『フルモバート』と話しかける。しかし稲光色の視線を越え、減った目珠で自然と捉えるのは別の物だ。
『私は他の生物が決して喰う事が出来ない、人の子の罪という概念を食い物にしている。何故か? 私は神が墜とした《
元々ここで火など焚かない。目珠を抜きにしても昼も夜も暗く境界というものが不確かというのがこの洞の普通で、それが平常だったというのに、うっすらと砂埃を被る畳まれた毛布付近が酷く暗く感じる。
『だが――あいつらはそれを反故にした』
雷から生まれた臣下は、しかし生まれ方に反して荒々しい激昂もせず黙って下を向くだけだ。己の言動のせいでここ暫くは狼のみならず勝ち気な鳥からも覇気が消え、怒る代わりにただ無言で寄り添ってくる事の方が多かった。……心はとっくに決まっているが、純粋な思慕を蔑ろにするのは罪悪感を覚える。
『なあフルモバート。ファイレーロにも言っているが――』
続きは、焦りと困惑を多分に含む鳥の遠声で掻き消された。
導の道の反対側にある洞窟の奥深くまで届いた既視感を抱く一声の余波に、持ち主がいない寝具の表面が微かに揺れた気がした。
広く平らかな地だった。荒れた岩肌は確かに自然物のはずだが、小石も僅かな隆起もまるで無い、人工めいたのっぺりとした地面は事実手を加えられているのだろう。地平線の遙か彼方を強固に遮る白雲と濃霧で鎖されたここはもう一つの神の庭。裁き切れぬ罪を犯した罰として、全ての人類の罪業まで銜まされる事になった〝咎〟だけが訪れる終着点。自我も心も人間という定義も一切合切失った、〝咎〟という概念が足を踏み入れる虚無の庭園だ。
だというのに。
『――お前、は』
今、己の眼前には青年がいた。色が抜け落ちていると思われる短い白髪。蝋の如く病的な肌を縦横無尽に這い回る呪の紋様はきっと去年の〝咎〟と同じように全身を覆い尽くし、同じように襤褸を纏っているのだろう。全て推測になるのは――その人物が頭から爪先までほぼべっとりと赤黒い血液に塗れて判断しかねるからだ。しかも、こいつは。
「お初にお目にかかります――《
狂気の沙汰を疑う見目で佇みながら、強張り震えながらも真っ直ぐに見据える赤の両目は正しく《
「貴殿の配下に手荒な真似をし、申し訳ございません。何分焦っていたもので」
青年が己の傍で控える狼とその足下に隠れる鳥――突然掴みかかられ脅されたせいで鳥は首回りに血痕が、救援を求めた鳥の呼び声で駆けつけ、同じく脅迫されて青年を山頂まで運んだせいで狼は背中と足を汚していた――に軽く頭を下げたが、両者は睨みつけて警戒し通し、今にも飛びかからんばかりに姿勢を低くしている。
当然だろう。今年の〝咎〟の片割れが、導の道の半ばで神職者達と女の〝咎〟を皆殺しにしたというのだから。
『……五月蠅かったんだよ? それが入ってた檻』
普段の軽快さをすっかり潜めた鳥が口を開いた。
『五月蠅くて、意味がある言葉を喋ってなくて、いつも通りの〝咎〟で。だからいつも通り神官が食事させようとあの檻に手を突っ込んだら――体が弾けて、そしたらそれが出てきた。そこからはあっという間に血の海さ』
「すみません、過激なところを見せてしまって。……狂人のフリをし続けるのに疲れまして。それにここに着いたら即座に食べられると思っていたので、その前にあいつら全員殺しておきたかったんです」
困り顔で小首を傾げる。その部分だけなら如何にも好青年然としているが、引っ被った夥しい返り血姿と紡がれる内容が却って当人の奇怪さを倍増させるだけで無意味極まりない。否、語調に元から他意など無い。温かくはあるが掴み所が無い話し方がこの者の特徴なのだと知っている。ずっと聴いていたから、知っている。
「それにしても〝咎〟になると貴殿と屍獣の言葉が分かるなんて、そんなまさかな事、想像もしなかったです。本当にびっくりしました。以前の俺なら前代未聞の大発見だと騒いだだろうになあ――」
『だろうな。言語の学道を歩む
淡泊な肯定はこの場を囲い込む壁雲よりも儚かったが効果は覿面だった。今し方までの己のように目を見開き二の句が継げない様子の青年に、面白くも何ともない声でくくと嗤う。
『それとも今から降りるか? 私は構わん、むしろ出ていけ。お前が投げ込まれるのは人間の法に基づかれた牢獄か、もしくは処刑台だ。神職者の殺害は大罪だが、それでもお前がこの山を登るには値しない。お前の〝咎〟を差し引いてもだ』
「……何を、仰いますやら。俺は」
『知らぬだろうから言うが、〝咎〟の青年。私は今まで喰ってきた数百人の〝咎〟の生涯の記憶を有している。もっともそれらは無数に破れた紙切れ同然に纏まりが無いのだが――それはこの者達に例外無く〝咎〟と化させるための呪がかかっているからに他ならない』
ああ、
『お前に刻まれているのは紛れもなく呪の刻印だ。取り込めば一瞬で精神を崩壊させ骨の髄まで狂気に冒された末、人間という皮を被った肉塊と化す呪を刻まれている事実は変わらない』
目眩がする。視界がぶれて、その都度現れる青年の面影と似た残像が、腹の底に詰めていた激情が、枯れ果てたと思っていた泥濘の泉が『だがな』湧き立って、
『にも拘らず〝咎〟の青年。お前は狂っていない。〝咎〟の呪を刻まれてなお正気を維持しているのは、お前が骨の髄まで〝咎〟と化していないからだ。――実の兄を愛したという冤罪で私に喰われた娘のように』
湧き立ち、溢れ、
『――何故あの娘を巻き込んだ!』
溢れた汚泥は咆哮と化した。
『伯父から妹を守る、それだけで良かっただろう! 愛を抱いたとして何故それをお前の身の内に留めなかったっ? 何故同じ轍を踏んだ、何故娘に告白した!?』
娘を引き取り家族になった伯母と兄は優しかった。しかし、伯父は。妻がいる身でありながら美しく育っていく娘を徐々に汚い欲に満ちた目で見るようになり、時には娘の盲目をも卑劣に利用した。病気で伯母が亡くなってからは更に顕著になり――身の危険に怯える娘を守っていたのが兄であるこの青年だったのに。
自立の目処がついたと青年が娘と共に家を出た時、娘は心から安心し、昔から敬愛し慕う兄にこれまでの恩を返そう、役に立とうと意気込んでいたのに――その兄から、異性として愛していると告げられた。
『娘はお前を尊敬していた。実の兄として大切に思っていた! なのに何故それを裏切った!?……あの娘は正常だった。血が繋がった兄に向けられる恋情が正しくない事を理解し、けれどお前への恩と親愛故に悩み果て、己の心を偽って!――お前を男として愛している事を証明するために、あいつは私に喰われる事を望んだんだぞ!!』
親族から迫られる恐怖を体験した娘にとって実兄の告白は裏切りだ。しかし娘は裏切りは裏切りでも、離ればなれだったろくに顔も知らない不自由な身の妹を甲斐甲斐しく世話し、いつ何時でもたくさんの無償の――兄妹愛だと信じていた愛を注いでくれた兄の想いに応えられない己こそが最低なのではと苦悩した。悩み、苦しみ、悲しんで……応じるために、自分も兄を愛しているのだと思い込んだのに。ある日拘引されるやその近親との情愛が〝咎〟だと認定されるなど。
『何故無実の娘が犠牲にならなければならない! 何故〝咎〟でない娘が私に供されねばならない!?……何故』
――偽りの〝咎〟であったにも拘らず。自分は、抗えぬまま喰ってしまったのだろう。
吐き出すだけ吐き出した後に場を支配したのはどうしようもない虚しさだった。風も吹かない灰色の舞台で、重苦しい沈黙だけが循環も出来ずただ堆積していく。
(……愚かだ)
逆恨みした地位ある伯父の策略にまんまと嵌まった神職者達が。近親の情愛という暴力を振るった伯父と兄が。兄への愛を示すため、そして異常を察知して密かに岩山を上ってきていた神職者達を遠ざけるために動いた娘を喰った己が。引っ被らされた泥に惑わされ、その名に相応しい透徹を見抜けなかった自分が――誰よりも、愚かだ。
『ここから出ていけ、〝咎〟の青年。ここに居座っても私はお前を喰う気は無い。私は今年の大晦に死ぬのだからな』
「……まさか、その体は」
『娘を喰った対価だ。だがこの身が果てる事に何の後悔もしていない。むしろ娘を長くこの地に留めさせずに済むと安堵している』
娘を喰らったあの日から己の体は目に見えて衰えていった。蝕む苦痛はそれまでの比ではなくなり、鱗は所々剥がれ始めて肉が露出し翼は完全に腐り落ちた。八つの鉱石の目珠の内四つは狼達曰く真黒に染まり亀裂が走っているという。見かねた神は己の責務の解放を認め神殿には神託を下したとの事だが、結局間を置かずに同じ愚行を犯すとは。嗤えもしない。
『私は娘がくれた名と思い出と共に、娘の魂を神の御園に連れていく。娘に再会したければ然るべき死に方をして自力で辿り着け。……誰が、お前など喰ってやるものか』
自身が真の〝咎〟ではないことを隠し、兄への愛が本物であると信じたいがために身を差し出した娘の行為は自分本位と言えるかもしれない。だが喰らってしまった今なら分かる。死を怖がり〝咎〟と化したのに狂っていない理由の肯定を恐れる一方で、初日の湯浴み中に屍獣と屍鳥からこちらの不調を聞かされて以降、娘は確かに己を心配していた。兄への思いと同等に、陰で飢餓に喘ぐ己の糧になればいいと心の底から願っていた。だから当人を責める気は全く無い――どのみち無実の娘が供された時点で、飢えに負けて娘はおろか屍獣達をも喰い殺すか、本能に打ち勝った末に己が餓死するか、〝咎〟となったせいで人の理から外れ、結果衰弱を余儀なくされた娘が為す術無く命を落とす未来しか残されていなかったのだから。
地に伏して視界を閉ざす。久しぶりの長い会話で疲労が濃くなり移動するのも億劫だ。元から喰う気も無いが〝咎〟もいないならいっそここで微睡んでいよう。吹き曝しなど些末な事。臣下達には悪いが残り数日、あの頃の娘との他愛ないやり取りと、名付けてくれた景色に思いを馳せよう――。
「俺は、クリスターロを愛しています。初めて逢った時から、ずっと」
呟きが聞こえた。
「最初から実の妹として見られなかった。伯父の魔の手から守っていたのも男として譲れないという考えからでした。家を出たのも、俺がクリスターロを独占したかった気持ちが大きい。……まあ一切手は出しませんでしたけど。口づけも交わしてない。下手な男女交際より清かったですよ」
『詭弁だな。打ち明けた時点で清くも何ともない』
「はは、手厳しい。ですが仰る通りだ。……おかげで、目を背けていた感情とやっと向き合えました。ついでにもう一つ、お聞かせいただいてもよろしいですか」
妹は――貴殿達といる間、心穏やかに生きていましたか?
『……ああ』
「……そうですか」
申し訳ございません。ありがとうございます――深く腰を折った青年からは自暴自棄が消えていた。しっかりと芯が生まれた謝辞に『頭を上げろ』と鼻を鳴らす。
『お前の言い訳も懺悔も興味無い。分かったならとっとと失せろ』
「そうですね、恩ある貴殿達を煩わせたくはないですし……そうだ。降りる前に俺に何かやってほしい事などありますか?」
『何?』
思わず怪訝な声を出すと「赦してほしいという意味ではないですよ。さすがに厚かましいです」と血糊が貼り付いた、しかし先よりも毒気が抜けた顔で返される。
「貴殿と、それに貴殿の従者の方々への恩を少しでも返せるならと。無いなら無いで構わないんですけど」
『……突然、言われてもな……』
絆された訳ではないが予想外の提案に純粋に当惑する。返答に倦ね、咄嗟に自分と青年を見守っていた気配に意識を向けるが『離れませんよ』『言ったらつつくよ』……強いて言えばの憂いの種を任せるのは不可能そうだ。
『思いつかん。お前達はあるか』
『オレもすぐには』
『願い、なんてねえ。ずっとここにいたら欲も何もあったもんじゃないし』
「それもそうですね……。……俺の専攻が言語学の中でも古語を扱っていたのはご存じなんですよね? 俺、その一環で魔術に使う古語も学んでいたので、例えば貴殿達を小さくして行きたい所に連れていくとか」
『おい待て。学ぶだけならまだしも古語を用いる魔術は滅んだはずだぞ』
「俺がクリスターロと共にここに運ばれなかった理由、俺にそちらの才があったからなんですよ。……俺が生涯搾取される代わりに、クリスターロを解放する約束だったんです。結局破棄されましたけど、神殿で任せられた古語解析の知識と技術は蓄えてますから使うのは問題ありません。ただ俺は妹と違って〝咎〟に定められた内容は嘘ではないので実はたまに発狂してて。なので時間制限はありますが」
さらりと暴露された青年の現況に唖然とするが、「〝咎〟はそこまで飲み食いする必要無いようなので、人目がある場所以外なら突っ切って行けますよ?」と平然と進められるとそれ以上の深追いも躊躇う。――何より、心が揺れた。
『……行きたい、場所』
蘇る。ぱちぱちと踊る火の粉。黒く伸びる影。眩い焚き火。照らされる娘の笑顔は水晶の名に相応しい透明度と屈託の無さで、その声は人類の罪を喰う己を浄化出来ると思うほど澄んでいた。
――私の好きな生まれ故郷から頂きました。
――貴方の体は黒が混ざった青色、もしくはとても深い青なんですよね。……一度、本物を見てみてほしいです。きっと色も、それに本質も似てると思うので。本来私達人間が犯した罪を、一生かけて償わなければならない咎を身の内に含んで、私達の代わりに清めてくれる。広くて、大きくて、静かに何もかもを等しく、受け入れてくれるのが――。
『海に、行きたい』
もし、叶うなら。盲目の娘が好きだと言った青を見てみたい。
■■■
大晦が迫り始めたある夜更け。世界一高い岩山を巡る防壁付近で複数の影が目撃された。
しかしその行方は掴めず仕舞いで、暫くの後、調査は打ち切られた。
海神と咎の娘 實鈴和美 @SNSZwm
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます