海神と咎の娘
實鈴和美
【 Ⅰ 】異常事態
『
不可視ながらも体に触れたと知覚する、風のような呼び声に意識が浮かんだ。
八つの
(――否)
否。常の己ならばたとえ黒雲で覆い尽くされた夜闇の中を這う小さな虫すら容易く見つけられる自信があるし、実際可能だった。真の光の無さに比べたらこの程度の翳り、夏至の太陽が照り映えるのとほぼ同然のはずだ、と、微光が射し込む穴の先を漫然と眺め――……認識と現状との齟齬の理由に思い至って細く息を吐く。僅かに擡げた首を、分厚く冷たい鱗で覆われた前
『主』
『よい、聞こえておる。……今日か』
『はい』
己を起こした狼型の小さな
『到着は』
『まだかかるかと。何やら揉めているようです』
『揉める? 〝咎〟が暴れてでもいるのか? いつもの事だろうに』
鼻で思い切り空気を吸って絞り出すように噴き出す。狼は踏ん張り切れずころころと転がっていったが、長息が終わったと察すると何事も無かった体でまた戻ってきた。自身の身の丈の倍はあるこちらを見上げる稲光の眼は爛々とし、次の指令を待ち侘びているようにも見える。基の動物の習性だろうか。特に何かした覚えは無いが気付けば忠臣になっていたこの獣、時に呆れるほど従順である。鼻息で吹き飛ばされても文句一つ口にしない。
『天候は』
『雲と霧が少々溜まっております。それ以外は変わりなく』
『鳥は』
『人間共の見張りに。オレは一足先に主の下に』
『そうか』
『……お加減は』
『怠い』
『催促してきましょうか』
『お前が出ても悪化するだけだ。不調もこの時期ではいつもの事』
もう一度目を閉じ――といっても瞼など無く感覚的なものなのだが――闇と化した世界で耳を澄ませる。
静かだった。外で舞い遊ぶ高低ある
『出る』
『は』
視界を切り替え鈍重な体を持ち上げて。ただ広いだけの
右を見れば膚に触れるか触れないかの際に鈍色の岩壁がそそり立ち、左を見れば純白の雲が一切を遮り視界を一色に塗り潰す。そこから目線を落とせば一歩分にも満たない道幅の先で垂直に落ち込む崖。人間であれば優に二十人は横並びになっても問題無い大路でも自分の場合だと途端に手狭になり、下手をすれば踏み外してしまいそうだ。既に何百回も往復している身で今更そんなヘマなどしないが。……それにしても。
(遅い)
よく鼻息で転がされる獣は不在だ。揉め事とやらでただでさえ気もそぞろな待ち時間を引き延ばされたくないと、遅々とした足取りで専用の山道を進んでいた時は共にいた。しかし突如岩山一帯に響き渡った鳥の声に呼び出され、激怒しながら近くの抜け道を走っていったのだ。あれから時間が経ったが忠臣はまだ戻ってきていない。同伴自体は無くても構わないのだが、肝心の〝咎〟が頂に据えられた気配も無いため登り切る事も出来ず立ち往生していた。
(何があった?)
年がら年中囀っている鳥だが、あのような切羽詰まった叫びを聞いたのは彼女の伴侶が息絶えた時以来だ。主君の取り残しを渋る獣を送り出したのも、偏にあの一声が咄嗟に言葉を作る事すら忘れたものだと判断したが故。
――思い当たる節は一つしかない。だから狼自身も躊躇う素振りこそしても結局全速力で向かったのだ。先程まで現場を見張っていたなら洞に籠もりっぱなしの己よりもただ事ではないと分かっている。
『身が優れないかい、亡友の仔』
大きな羽ばたきの音、そして背のみすぼらしい羽毛がそよぐ感覚に閉じていた目珠を機能させ上向けば、今正に思考を占めていた
胸中で心ばかり目を眇めていると鳥は悠々と尾羽を靡かせ、一度旋回すると軽やかに眼前の地へと降り立った。彼女の体に最も近い鼻先が、彼女が発する熱でほんのりと温もりを帯びる。
『戻ったのか』
『ああ。それより具合はどうだい、亡友の仔。一応聞いておかないとあの四つ足が五月蠅いんだよ』
『いつもと変わらん。それより無事か? 何があった? あいつはどうした』
『まあまあお待ち。喋るのも億劫だろうに無理しなさんな。四つ足は心配無いよ。今回はあたしが先導役なんだ』
落ち着けと双翼を広げる姿にいったん黙するも、もし己が人間であればこれ以上無いほど眉間に皺を寄せているに違いない。相手も承知しているのか楽しげにホロホロと笑っていたが、ふ、と振り仰ぐと声を潜め。
『実際に見て、それから説明した方が早いよ。――今年の〝咎〟は、問題だ』
つられて目線を上げれば鳥が遠く見つめる先――目的地である頂上が、上空に溜まる霧と千切れ雲越しに垣間見えた。むやみにこの巨躯を人目に晒さぬよう、終点まではまだ高低差も距離も充分ある。
疑念が生まれた。
(――何故だ?)
高低差も距離も充分あるが本調子でなくとも最低限の聴覚は働く。目視出来る場所まで近付けば尚更だ。にも拘らず、聞こえない。前方を飛ぶ大鳥と共に歩を進めても、己の
倦怠感と慎重で鈍足になっていたが、歩いていればいずれ必ず辿り着く。時間をかけてようやっと入口に到着し、斜面の道から唯一の平地へと全身を引っ張り出せばあっさりと全貌が現れる。
初めて目にした時から不自然に、だが当たり前と言わんばかりにこの岩山の頂上は整っていた。もし自分があと十匹以上横たわっても十二分に余裕がある円形の地。その地平線は遠い上、通ってきた山道同様、緞帳を想起させる雲霧が空間を厚く取り巻いているせいでやはり景色らしい景色を望めず、また屋蓋さながらの層雲で空も暗い銀白色で塗り付けられている。ここはいつもそうだ。某かの存在が常に手を入れて整えているかの如き灰色の舞台は、己ともう一つの存在以外を許さないとばかりに何もかもを断絶していた。そのはずが。
狼がいた。鳥と同様絶対にこの場に踏み入らないはずの臣下が控えていた事にも瞠目したが、動揺の原因はそちらではない。
八本の肢を駆使して緩慢に近寄ると、四つ足で所在無さげに佇んでいた屍獣が目が合った瞬間困惑と申し訳無さでへたりと耳を垂らし、次いでちらと狼自身の背を見やって。
『来られた。しゃがむぞ』
「は、はい」
見ているしかなかった。背負っていたものに狼が言葉をかける様を、伏せた獣からその荷がおっかなびっくりとした手つきで鈍色の地表を撫で、距離感を測りかねながら四つん這いで身を下ろす様を。そうしてぺたりと地面に座り込み、胸元で堅く拳を作って俯く人間の姿を――驚愕を隠せぬまま食い入るように凝視するしかなかった。
『……主。今年の〝咎〟を、連れてきました』
人間の肩が跳ねた。幾ばくかの間を置いて、無残にも肩口でざんばらに切られた白髪の主が恐る恐る顔を上げる。
髪色にほぼ近しい肌色は病的と言うより蝋人形に近いが、顔面から首、襤褸の服から覗く首筋まで這い回って発光する醜い紋様が無機物よりも更に異質な存在たらしめている。只人が目にしたら本能的な恐怖で即座に顔を背けるのだろうが、どうしても目を離す事が出来なかった。
人間は――娘は、それでも美しかった。全身に醜悪な刻印を蔓延らせてなお分かる端麗な細面と鼻梁、薄い唇の愛らしい容姿も。触れるだけで折れてしまいそうな、己の体高の半分にも満たない華奢な体躯も。何より知らなかった。狂気に犯されていない人間が、息を呑むほど見入る存在である事を。
娘が瞼を開ける。両の瞳は透き通った血液の、罪と罰しか投じられない死に山には相応しくない生の色。ただその双眸はこちらを窺うように覗き込んでいるにも拘らず肝心の焦点が合っていない。
娘が両腕を上げる。長い袖が腕を伝って垂れ落ち、切れた鎖がくっ付く手枷と肌を舐める怪図が露わになる。そして眼前に佇立する己を確かめるよう中空に手を彷徨わせ――。
「そこに、いらっしゃるのですか――《
盲目の娘のか細い問いに、答える事は出来なかった。
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