【 Ⅴ 】怪物と咎の娘

          ■■■


 水底に沈む塊が鉤針で釣り上げられるのに似た浮遊感。塊、即ち意識が日に日に重さを増し浮上に時間がかかっているのは自覚していたが放置していた。どうせ治らないのだから仕方ない。故に最近は気合いで起き上がるのが日課になっており、今日――は、違っていた。

 すうと意識が浮かんでいく。ああ目覚め始めているな、朝か、今日は少しだけ明るい。自分はとうに慣れているが鬱々しい曇天よりは陽射しがあった方が娘もきっと快いだろう。そう思考の断片を俯瞰的に眺めつつ緩慢に感覚を広げていき――

 娘の気配が消えている事に気付き飛び起きた。

『っ……』

 が、冷えた肝とは裏腹に全身に引き攣った痛みが走り、首を上げたもののすぐ逆戻りしてしまう。

『起きたのかい、亡友の仔』

 左の目珠を動かすと娘の寝床、敷物の頭側に朱炎の屍鳥が坐していた。共に娘と暮らす内にすっかりそこが定位置になった鳥に違和感は無い。しかし敷布の上には白髪の娘が、それに雷雲の狼もいない。

『……娘は』

『自分の事よりまずあのの事かい?……無理はさせたくないが動けるなら行くよ。ずっとで待ちぼうけさせる訳にもいかないだろう?』

 血の気が引く、とは正にこの事を言うのだろう。元々体温などあって無いようなものだが、それでも温度と呼べるものが一瞬で消え去った感覚に吐きそうになる。

『仔?』

『嫌だ』

 首を横に振る。すぐにでも身を反転させて洞の奥深くに逃げ込みたいのに、八本もある肢はぴくりとも動かせない。ねじ伏せていた本能が意思を遙かに上回るせいで。

『ねえ、亡友の仔』

 羽ばたきの音がし、己の横、ただ頭を捻っただけでは届かない位置に鳥が降り立つ。

『あの娘は自分で言ったんだ、頂上に行きたいって。……それにもう一つ言ってたよ。あんたと話がしたいって。あんたとだけで、って』

 頼むから。そう告げた鳥の声は、震えていた。




 初めて目にした時から不自然に、だが当たり前と言わんばかりにこの岩山の頂上は整っていた。もし自分があと十匹以上横たわっても十二分に余裕がある円形の地。その地平線は遠い上、通ってきた山道同様、緞帳を想起させる雲霧が空間を厚く取り巻いているせいでやはり景色らしい景色を望めず、また屋蓋さながらの層雲で空も暗い銀白色で塗り付けられている。ここはいつもそうだ。某かの存在が常に手を入れて整えているかの如き灰色の舞台は、己ともう一つの存在以外を許さないとばかりに何もかもを断絶していた。

「マーロ様」

 娘がいた。初めて出逢った時とほぼ変わらない場所で静かに座っていた。己以外で唯一この舞台に存在する事を許される娘だけが、当たり前に。

「お待ちしていました、マーロ様。おか」『降りろ』

 端的に一言。それだけなのに目眩がした。ぐわりと思考が波打つ。

『強要されたのだろう。ここに来るのを、あいつらに。お前は嫌々ここに来たんだ』

 肢が震える。これ以上前に進まないよう押し留める意思をもう一人の己が嘲笑っている。

『狼と鳥を供につける。山を降りろ。あいつらがお前の補助をする。だから』

「私、怖かったんです」

 ――娘の声は、透き通っていた。

「〝咎〟に選ばれた時よりもなった後の方が怖かった。対だろう男の〝咎〟の人が、言葉になってない大声で叫び散らしているのが怖かった。ひたすら喚いて騒いで、でもそれだけで、ああもう本当におかしくなってるんだって気付いた瞬間怖かった。神職者の方々が話す私達のその後を理解出来る事、〝咎〟になった私が男の〝咎〟の人の状態になってないと知られたらどうなるか、理性も心も痛覚も残ってるこの体で《救済の怪物》様に食べられるのかと思うと怖かった。……何で私は、私のままなのか。私は――、……一度考えてしまうともう、何もかもが凄く、凄く……それこそ、狂いたいほど恐ろしかった」

 でも、と娘が微笑んだ。あの水晶の花開いたような、美しく、透明で。籠められた感情が本当に混じり気無い幸福のみだと分かる微笑みを。

「全部消えちゃったんです。マーロ様が新年の挨拶をしてくださったあの夜に。私を見て、私にかけてくださったと分かる新しい年のお祝いを理解した時に、恐怖も不安も疑念も全部飛んでっちゃいました。だからもう、充分です」

『馬鹿を言うな』

 震える。肢も、体も、声も、視界も、心も、何もかも。

『何が充分だ。私は足りていない。私はまだ満足していない。お前の思い出話を全て聞いていないし、お前が記憶している物語も余す事無く耳にしていない』

「マーロ様……」

『お前との数字当ても私が負け越したままだぞ。お前が強いのは承知しているがそれとこれとは別だ。練っていた策もまだ試してないんだぞ』

「マーロ様」

『お前も言っていただろう、久しぶりに張り合える相手と出会えて嬉しいと。私もだ――私は、初めてなんだぞ』

 楽しかった。自ら考える頭がなければ出来ない知略と心理戦の駆け引きは。

 興味深かった。記憶を保持する器官が機能していなければ出てこない物語の数々は。

 快かった。意味不明な咆哮ではなくきちんと形を成した正しい言葉が聞き取れて理解出来る事が。飛び出た眼球をぎょろつかせ呆然と涎を垂らすのでなく、笑って喜んで膨れて悔しがってとくるくる変わる明るい表情が。ぐずぐずに蕩けそうなほど気持ちがよい意思の疎通が。目が見えないという理由でも醜い己を忌避も恐れもせず、むしろ積極的に触れて楽しみ、忌んでいた色を生まれ故郷に喩えてくれた事が――例えようもなく嬉しかった。

 一挙手一投足、紡がれる言の葉。何もかもが初めてで新鮮で、ただ楽しかった。嫌悪する点など一つも無い。もっともっと笑顔が見たい。声が聞きたい。人を喰らうしか能がない身でもこの喜びと感謝を返したいと、少しでも心穏やかに暮らせるようにしたいと願っていたのに。なのに。

「マーロ様」

『五月蠅い』

「今までありがとうございました」

『黙れ』

「私は私の意思で頂上ここに来ました」

『嫌だ』


「ですから――私を食べてください」

『嫌だ!!』


 何故。娘を認めた瞬間から己の腹は延々と喚きまくっているのだろう。

 何故。声を聞いた瞬間から口腔で無限に唾液が湧き出しているのだろう。

 どうして――自分はずっと、彼女を貪り喰い尽くしたい衝動と戦っていなければならないのだろう?


 浮かんでしまえば一瞬だった。

『っが、ぁ』

「マーロ様!」

『来るな!!』

 心の臓が飛び跳ねる。巡る血管がのたくって暴れる。収まる臓腑が踊り狂う。抑えつけ、もしくは強引にねじ伏せてきた飢餓が狂喜と共に殴り込んでくる。娘の許諾に幾度も踏み潰し誤魔化してきた食欲が我が意を得たりとばかりに舌舐めずりして歓待している。《救済の怪物》の本能が一年に一度の糧を望んでいる。――そんなもの、そんな事。は、何一つ欲していないというのに。

『……来るなっ……』

「マーロ様、もういいんです。我慢されなくていいんです」

『――何故、喰わねばならん。理性あるお前を……善にしか見えないお前を、何故。嫌だ。いやだ』

 がちがちと歯が鳴る。食いしばっていたはずが噛み合わなくなっている。一歩、勝手に肢が前に踏み出した。心の底から拒絶しているにも拘らず、〝マーロ〟など無価値とばかりに、神に墜とされた醜い怪物の存在意義が破裂せんばかりに膨らんでいく。痛い。痛い。

「……マーロ様、どうか苦しまないでください。私を食べる事を罪だと思わないでください。私は貴方の苦悶の声を聞きたくない。耐える姿を見たくない。それに――これは、私の我が儘なんです。私は私の身の内の〝咎〟が確かにある事を認めたいばかりに、この選択をしたんです」

 娘が衣服を脱ぎ去り立ち上がる。服を踏み越えふらふらと危なっかしく、しかし着実に歩み寄ってくる。『、』もう言葉を発せられない。逃げろと叫び出したいのに、いっそこちらが逃げ出したいのに、口を開けばそれだけで閉じられるとは、少し動かしたらこの肢が止まるとは考えられなかった。

 来い、来るな、そのままこち馬鹿らに逃げろ、喰えるやっと違喰える嫌だ何故、来るな逃げろ、お願来いだ早く、頼むから。頼むから、

「貴方とフルモバートさんとファイレーロさんと過ごす時間、とても楽しかったです。マーロ様と出逢えてよかった。最期に貴方とお話し出来て、誰かと普通に意思の疎通が出来て、本当に嬉しかったです。だから、どうか――泣かないで」

 嫌だ嫌だいやだいやだいやだ嫌だ嫌だやめろ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だやめろいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ――!


 手枷の鎖が鳴る。

 娘が両手を前に出す。

 もう彼我の差が無い鼻先に触れて――醜い青色の鱗に口づけを落としおにいちゃんと


          □□□


 世界一高い岩山に、人類の罪業を銜んだ〝咎〟が捧げられて四十八日目。

 この地に墜とされてから初めて、いた。

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