【 Ⅳ 】玉響

          ■■■


 娘は洞窟で暮らす事になった。世界で最も高い岩山を盲目の女一人が下山するのはまず不可能。狼が麓までの足になっても山裾は防壁で囲まれており、仮に脱したとしても呪の副作用で色が抜け落ちた白髪に赤い瞳、鎖は切れているが外せない手枷、何より全身に悍ましい紋様が刻み込まれた姿で人間社会に再度溶け込めるかと聞くのは愚の骨頂だ。かといって山以外の人里離れた場所で密かに暮らすには盲目が不利過ぎる。娘自身が「ここがいい」と主張したのもあり、身の振り方はなし崩しに決まった。

 けれど前述した通りここは岩しかない荒れた山。そして棲むのは人を喰うしか能が無い己と、自然災害で命を落とした死体に変異的に魔素が定着した魔の鳥獣――雷撃フルモバート火花ファイレーロと名付けられた屍獣と屍鳥のみ。人間の娯楽となるものは当然無く、自然娘の一日は睡眠と二回の食事と一度の湯浴み、それ以外は歓談の繰り返しになった。


          ■■■


 初対面の儚げな印象とは裏腹に、娘は結構朗らかで、そして結構怖い物知らずだと知ったのは三日目の朝の事。

「犬は大体柔らかいですけど、狼は毛並みがしっかりしてるんですねえ」

 頭、口元から鼻にかけての口吻、頬、顎の下、首筋、背中、肢、果ては尾――至る所を丹念に撫でられ掻かれ顔を埋められ、今なお娘の手で両頬を挟まれている従狼はそれもう無だった。元々鳥との口論中以外はそこまで感情を露わにしないが、今の臣下はそれを抜きにしても正しく無表情と断言出来るほど顔面の筋肉が動いていない。手つきこそ丁寧だがしっかりがっつりと感触を楽しむ娘に対し、地に体を伏せて頭を擡げ、その状態で目を閉じなすがままにされている屍獣という光景は、

(同情を禁じ得ない)

『愉快だねえ』

 無言で見守る己と正反対の感想を漏らす鳥に『お前覚えてろよ……』と狼が苦々しげに布告するのが逆に同情を誘う。そこで娘がはっと手を離し、

「ごっ、ごめんなさい。すっかりお言葉に甘えちゃって」

『あ、いや、今のはあの腹が立つ鳥に対してでお前にでは。……好きにしろ』

「……じゃあ、最後にぎゅーっと」

 雷雲色の豊かな体毛に覆われる屍狼の首を娘が抱きしめる。抱きしめるといっても相手は(自分よりかなり小さいとはいえ)人間一人を軽々と背負える体躯――座っている娘の座高より頭二つ分はあるため、相対して娘が幼子に見えてくる。そのじゃれつかれている狼は無からは若干浮上したもののもう好きにしてくれ感が漂っており、己の傍で『愉快だねえ』とまたホロホロ鳴く鳥にも反応しなくなった。

『……お前もさんざん撫で繰り回されていたはずだがよく言えるな。そこまで気が合わんのか、あいつと』

『あたしは自分から許可を出したしね。あと気は合わないけど険悪ではないよ。単純に面白いのさ。あんただってあの堅物がああも好き放題にされるの、初めて見ただろう?』

 生来動物好きだが盲目になってから機会を無くしてしまった。もし良ければ触らせてもらえないか――と、屍の鳥獣に娘が手を合わせたのがきっかけとなった交流。二匹をいきいきと、傍目から見ても嬉しくてたまらないと愛でる娘に微笑ましさを感じないと言えば嘘になる。が、不思議と快諾した大鳥はともかく、未知の馴れ合いに困惑し渋っていた臣狼に軽い気持ちで――失明者は触覚で物を判断するのも手段の一つと――命令したこちらとしては、一応当の屍獣に慕われている身もあって申し訳ない事をした気持ちが勝る(忠臣のあんな無の境地、初めて見た)。ひたすら戸惑っているだけで触れられるのを嫌悪している訳ではなさそうなのが幸いか。それにしても、うむ。

「ありがとうございます、フルモバートさん。とても素敵な手触りでしたっ」

『満足したなら何よりだ……』

『おや済んだかい。なら最後はあんただね、亡友の仔』

『は?』

 待て今こいつ何を宣った。

 口にしかけた臣への労いをあらぬ方向に弾き飛ばした鳥に目をやるが、『何変な声出してるんだい』と白々しく首を傾げられた。……なるほど、そういう事か。

『あたしも四つ足も存分に、それはもうあの娘に抱きしめられ撫でられ愛でられた。なのにあんただけ何も無しってのは可哀想だろう?』

『言葉と語調が合ってないぞ鳥。笑いながら言うな、少しは擦り合わせる努力をしろ。……お前の口車には乗らんぞ』

「えっ駄目なんですか」

『は?』

『えっ?』

 待て今向こうからも聞こえてはならぬ何かが聞こえた。

 頭まで動かさんばかりに視界に娘を捉えれば、当人はきょとんとした顔で胸元に掲げた両手をこちらに向けてぱたぱた開閉している。十指を百足の如く蠢かす――とまではいっていないがどう見ても撫で回す気満々である。待て待て娘。ちょっと待て。

『お前正気か?』

「何で初対面の時より精神状態疑われてるんですか。というかマーロ様どころかファイレーロさんも『えっ』て言いましたよね? 先に言ったのファイレーロさんですよね?」

 えっと言いたいのはこちらというか既にもう二回飛び出している。いや自分は『は』か。違う、そんな些細な誤差はどうでもよくて。

『娘。まさかお前が知る私の神話に私の見目についての記載は無いのか』

「ありましたよ? 体も口も凄く長くて大きくて、目と肢の数は八。その巨躯は鱗に覆われ背には翼――あ、私蛇もトカゲも好きですよ。特にトカゲ。昔露店で見た、異国の砂漠に棲む大きなタテガミトカゲっていうのがそれはもう可愛くて可愛くて! あの時はとても堪能させていただきました。だから大丈夫ですよ!」『何がだ』否、どの部分に自信を引っかけているかは分かるけれども。

『……犬の種は耳裏が弱いらしいぞ』

『主!?』

「それは今度フルモバートさんが大丈夫な時に頼みます」

 苦し紛れの提案も即刻次回へ持ち越され(その次を確定された忠臣の悲鳴は聞こえないふりをする。許せ)回答に倦ねる――が、結局は無意味な時間稼ぎだ。何せ同じやり取りを既に横目で見ていたのだから。

「……フルモバートさんの時も言いましたが、本当にお嫌ならいいんです。不快にさせて」

『いい。触りたいなら触れ』

 告げられかけた謝罪を止める。驚く娘から視線を逸らし、きつく己を戒めた。

『ただし頭――というより口はやめろ。鼻に手でも突っ込まれたらたまらんからな』

「は、はい。それはもう」

 緊張してきましたと狼に話しかける娘の声を聞きながら、鋭い眼光で己を射てくる鳥はこちらも白々しく無視した。


          □□□


 最初は何かと恐縮しきっていた娘は実は結構逞しい性格で、同時に話す事が好きなのだと再認識したのは十日目の夜の事。

「準備せず火を熾せるのって便利ですよねえ」

『人間基準ではね。あたしらが自発的に使う事なんてそうそう無いし。あったとしても、だから人からも自然からも排除されるんだよ。旦那ならまだ無害だったろうけど』

「なら両方から外れた私は素直に感謝しますね。鎖をかしてくださった件も含めて、改めてありがとうございます」

『……』

『やり込められたな』

『五月蠅いよ』

 きつく睨まれたが平素とは異なる体の揺らし方から動揺しているのは一目瞭然。娘が鳥をファイレーロと呼ぶと決めた際はあからさまに、下手すると自分より胡乱な態度を取っていたが、この分だと陥落する日は遠くなさそうだ。

「ファイレーロさんのもですけど、フルモバートさんの雷も見てみたかったです」

『雷は普通怖がるのでは?』

「割と人それぞれですよ。私は光も音も好きです。音は確かに驚きますけど」

 鳥が出した火――屍獣は己の死因由来の自然現象を操れる――で軽く干し肉を炙りながら答える娘に『そういうものか?』と落雷起因の屍狼が首を捻る。語り口は軽快でも内は頑なな鳥と異なり、こちらは出会って三日目に散々毛並みを堪能されたためか淡々とした物言いではあるものの普通に言葉を交わしている(結局後日耳裏その他を掻かれた際葛藤しながら蕩けていたので単に屈した可能性も否めないが)。内心の判断はつかないが喧嘩腰でない分マシだ。

「そういえば先程旦那さんと仰ってましたが、ファイレーロさんには伴侶の方が?」

『ああ、風の屍鳥だった。寿命が尽きてもういないが穏やかな気質でな。鳥と狼が争っている時の仲裁役だった』

「その時マーロ様は?」

『眺めていた』

「清々しく傍観者」

『ちょっと仔。うちの身内事情をぺらぺら喋るんじゃないよ』

『最初に取っかかりを作ったのはお前だろうが。それとも自慢の夫話は嫌か?』

『嫌な訳あるもんか。あたしとあいつの相思相愛っぷり、三日三晩使って語り倒してやろうかい?』

『吹っかけないでください主。こいつの話は本当に長いんです』

『何おう』

「……いいなあ」

 小さな呟きに全員の視線が集中する。焦点の娘は発した自身も驚いたという風に目を瞬かせていた。

『……お前は、身近に親しい者がいなかったのか?』

 暫し迷った末に問う。けれど脳裏をよぎった予想は「身内はいましたよ」と中途半端な回答で否定された。

「そういえば話してませんでしたね。私の両親はもういないんですよ。私が八歳の時、父と母と一緒に乗っていた集合馬車が転落事故に遭ってしまって。その事故で二人も、他の乗客の方々もほとんどが亡くなってしまって……私は一命を取り留めましたが、頭を打った衝撃で以降目が見えなくなっちゃったんです。でもその後は母の姉夫婦と、そこに養子に出されていた兄と四人で暮らしてたんです」

『ならば保護者と、実の兄はいたのだな』

『今は兄と二人ですけどね。でも一人で全部何かやるの苦手なんですよ。伯母さんはそれはもう気を配って良くしてくれましたし、兄も私をとことん甘やかしたがったので苦労知らずに育っちゃいました』

 人の厚意に乗っかりまくりの人生です、と冗談めかした娘の口はそれから止まらなかった。子に恵まれなかった伯母は養子として引き取った兄も、後から転がり込んできた盲目の自分も分け隔て無く可愛がってくれた。不自由な目での過ごし方や家事のこなし方も親身になって考え、空いた時間には色々な物語を読み聞かせてくれた。兄は院で教鞭を執る言語学者の助手で、魔術に使われる古語の知識も豊富で解析も任せられるほど優秀。事あるごとに世界で一番と褒めそやしてくるのが擽ったかったが、私もそんな兄が――。

 自慢げに、我が事のように誇らしく話す娘の喜色は炎とは異なる温かさと人工めいた明るさが混ざっていて。それらを冷やしたくなく、陰らせたくもなく。故に、黙って違和を呑み込んだ。


          □□□


 予想通り娘は記憶力に優れており、と同時に意外と負けず嫌いだと知ったのは十四日目の昼の事。

「……零、九、一、四」

『三の剣、一の盾。……五、八、一、九』

「……四の、剣。突破、成功です……!」

 座った体勢で地に両腕をつき「三連敗っ」と大袈裟に嘆く娘に対し、『現状勝ち越しているのはお前だろう』とつい呆れた語調になる。

 問答を繰り返して相手が設定した数字を当てるこの遊戯は人間達の間で有名な娯楽である。数字の正否は剣と盾で表し、先に四桁全てを当てた者が勝ち。地域によっては芋と籠、杭と穴、英雄と怪物と様々な呼び方があるが、得た手掛かりを忘れないよう総じて筆記具を必要とする。しかし盲目故に字が書けない娘は全ての情報を頭の中で整理し推理する手法を常とする故か、この数字当て以外の知的遊戯も滅法強い。自分も一応記憶力はあるがまだまだだ。先程連勝したとはいえ合計で負けているのは自分の方である。

「でも三連敗は心にきますよ。もう一回やりましょう」

『いや、眠れ。さっき欠伸しただろう』

「まだ昼ですし。それに負けたままでは女が廃ります」

『眠たげな顔で格好つけられてもな。寝ぼけた頭で挑んでも徒に負け数が増えるだけでは?』

「う、正論。……分かりました。次は負けませんからね。でも手加減は駄目ですよ」

『当たり前だ。私も楽しいからな』

 くつくつと笑っていると横になった娘が見えないはずの赤目でこちらを凝視している事に気付いた。どうしたと問うと「いえ」とふわりと微笑まれて、

「ただ、マーロ様が笑ってくださるのが嬉しくて。幸せだなあって」

 水晶の花を連想する純粋な破顔に無意識に息を呑み、また意識が固まる。一方で娘は帳のようにすとんと瞼を閉じると、次の瞬間には規則的な呼吸しか出さなくなっていた。定位置となった娘の背後で寝転ぶ狼が、掛かった毛布越しに娘を軽く覗き込む。

『寝入ったようです』

『そうか』

 報告を受け、反射的に固まった心身をほぐすため息を吐こうと


 地に付けていた腹部に殴られたような衝撃が走った。


『――!』

 みしり、と。力を入れた八足、否、それに接した地面から悲鳴がする。

『主っ?』『どうしたんだい』『近付くなっ』殴打の比喩は生温かった。鷲掴みされた五臓六腑を全力で叩きつけられ、そのまま滅茶苦茶に踏み続けられているかの如き衝撃と激痛。加えてその臓腑に潜む何かが外に向かって飛び出そうとする感覚が更に痛みを誘発して悪循環を生む。息を止め、視覚も聴覚も何もかも遮断し暴れ狂う器官を押し潰すように無理矢理抑え込む。開きそうになる口を、顎が歪みそうになるほど力を籠めて食いしばる。開くな。落ち着け。鎮まれ――!


 どれほど時間が経ったのか。閉じていた聴覚が爆ぜる火の粉の囁きを拾い始め、娘の寝息の音が入り込んでも揺らがない事を確認して脱力する。否、反動で力が入らなかった。

『主』

『問題無い』

『何が問題無いだ、大有りだろ。ねえ亡友の仔』

『黙れ』

 視界を闇で塞ぐ。物言いたげな狼の視線もきつい鳥の眼光も全て無視して強引に睡魔を引っ張り下ろす。

 大丈夫。眠ったら少しはまともになる。口腔の激しい疼きも身中の欲動も鎮まっていく。問題無い。眠って、起きたら、今は億劫な思考もきちんと動くようになる。大丈夫だ。



          □□□


 時には娘が覚えている物語に全員で聞き入った。

 時には巷で流行っていたと娘が歌った歌を面白おかしくでたらめに作り替えた。

 時には鳥の亡夫の思い出語りに相槌を打った。

 時には狼が鳥に弄られるのを娘が宥めるのを眺めていた。

 時には全員参加出来る遊戯で白熱した勝負を繰り広げ、娘が来るまでの起伏が少ない静止した日々を訥々と言葉にしたり、一体どこを気に入ったのか鱗を触らせてほしいと度々せがんでくるのに根負けして好きにさせたりもした。


 風の音と砂塵巻かれるさざめき程度の静寂が常だった日々は、いつしか明るい声と動の気配に満ちたものへと変じていた。


          □□□


 娘は結構朗らかで、そして結構怖い物知らずで。実は存外逞しい性格をしており、話し上手で、伯母と兄を大切に思っており。盲目の代わりに聴覚と記憶力と頭脳が優れていて、負けず嫌いで。日を追うごとに少しずつ、少しずつ、食べる量が減っていき、代わりに睡眠は常に深く、ふっと気を失うように眠る事も増えていった。

 己もまた眠りにつく時間を娘に合わせ、あるいは敢えて延ばした。日に日に浸食してくる疲労と欲求をある日は説き伏せ、ある日は叩き潰すのを繰り返した。


 三日。十日。十四日。二十七日――娘との語らいは、とても楽しかった。


          □□□


 楽しかったのだ。

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