【 Ⅲ 】水晶と海

          ■■■


 叩きつけられた。叩きつけられた先が長く細かく揺れた。まだ機能していない視界では何も分からず暫くして振動が治まった後、遅れて直前の浮遊と落下の感覚がぐわりと心身を呑み込んで――ようやっと〝己〟という個を認知した。

 眼という器官を意識すると不自然なまでの速さで――そこで己に瞼が備わっていない事を知った――視界がかちりと切り替わり、その全容が露わになる。

 広く平らかな地だった。荒れた岩肌は確かに自然物のはずだが、小石も僅かな隆起もまるで無い、人工めいたのっぺりとした地面。地平線は遙か彼方だが千々に漂う白雲と濃霧が柔らか且つ強固な壁になっており、線の先に何があるのか、あるいは何も無いのかすら判断がつかない。

 だが、見えた。自身が墜ちてきた天の梯子の白光が輝きを増し、己が身を照らすだけに留まらず彼我を分断する壁雲まで広がった瞬間、見えた。

 大の大人が容易く入るであろう長く突き出た幅広のふんに、隙間無く並ぶ大量の鋭利な歯。頭部の端まで深く裂けた口端にある丸い眼は二つ――ではなく、顔の上半分、ずらりと横二列に並ぶその数は八。瞼が無いため飛び出ている眼球はこれまた何かしらに手を加えられたかの如く見事に丸く、これ以上無いほど完璧に研磨された球体の鉱石に似ていると連想してすぐ、無機的に頭上の光を反射する瞳孔無き透明な目玉が比喩でも何でもない本物の珠である事に気付いた。

 階がある建築物を優に超える巨体から生えているのは一抱えでは収まらない太さの八本の肢と平たい尾。全身を覆う厚く頑強な鱗は濁り切った藍色でただでさえ鬱気を煽り胸が悪くなるというのに、背びれを挟んだ位置には中程で無様にぼきりと折れた、羽毛がほとんど抜け落ちた翼と称するのも恥ずかしい物体がくっ付きみっともなさを晒していて。


 そこでやっと理解した。獣でもなく鳥でもなく無機物でもない、醜怪という言葉を具現化した吐き気を催す見目のこれは己なのだと。

 こんな醜く悍ましい怪物が喰らうのは、世界中の汚辱を呑み下した同じく穢れ腐った狂人なのだと。


          ■■■


 沈滞する気怠さに委ね切れず中途半端に微睡んでいた最中。火の粉が爆ぜる音に紛れた微かな呻き声に閉ざしていた視覚を意識した。横並ぶ目珠の左側に集中すれば、向かい側、熾した火を挟んで毛布に包まっている娘がうっすらと目を開けている。灯りを帯びて一層透明度が増した真紅の焦点はやはり合っていない。

「……ここは」

『私の塒だ。よく眠っていたぞ。もう年が変わった』

「……ええっ!」

『待て騒ぐな動くなそいつらが起きる』

 寝起き特有の茫とした空気が一瞬で掻き消え、飛び起きた娘を慌てて制する。何せその背後には丸まって眠っていた娘を囲う体勢で寝息を立てる狼と、彼女の懐に程近い場所で羽に頭を埋めて目を閉じている鳥がいる。下手に動けば前者に肘打ち、後者に平手打ちだ。ようやく寝ついたと安堵したのにここで覚醒されたらたまったものではない。

『それより声が酷いぞ。水ならお前が寝ていた頭側に筒がある。飲んでおけ』

「はい……」

 慎重に地に手を這わせるのに合わせて指示を出し、無事飲み水を飲む娘を見つめる。敷布に座して水筒に口をつける動きも受け答えもしっかりしている。現在地を把握する時や物捜しの際は覚束無いが単に場所に慣れていない故だろう。掛けていた毛布を体に巻き付ける手つきからも、娘の目が闇で閉ざされたのがつい最近でない事が窺い知れる。

 人心地ついた様子に寝ろと促すと娘は素直に横になった。が。

「…………」

『…………』

 何故かじいっと、じいっとこちらを見てくる。凝視と言ってもいい。視力を失って久しいと推測したばかりだが健常者張りの途轍もない目力と圧を感じる。

『……何か用か』

 あくまで顔は動かさず(無駄に動く元気が無いのもあるが、さほど距離を置いてないため下手に横を向くと激突する恐れがある)問うと、分かりやすくほっとした顔で「あの」潤いが戻った澄んだ囁きは、しかし声量に反して緩く空間に反響した。反射的に首を竦めた娘に『気にするな』と説明する。

『ここは私が動き回れるほど広い上少々石が特殊でな。反響自体は仕方ない。先程のはともかく』

「う、すみません……。ところで、本当にもう明けてしまったんですか。外が暗い事は分かるんですけど」

『ああ。詳しい時刻は知らんがそれは確かだ』

「……本当にすみません。満足にお礼も言わないまま眠ってしまって」

『それこそやむを得ない事だ。むしろ随分持ち堪えたと思うが』

 洞窟に入ってきた娘は分かりやすく睡魔と闘っていた。まあ仕方ない事だ。この岩山の登頂にかかる日数はざっと六十。創世神が直々に指定した場所だけあり、気温は低いものの高所であっても酷い降雪や風雨は起きず、人間が〝咎〟を運びやすいよう道が出来ていたり各所に湯が湧く穴や洞等があったりと随所にお膳立てはされている。しかしその配慮の対象は〝咎〟を運ぶ神職者達であって――さすがに最低限の世話はされているだろうが――後は喰われるだけの狂人ではない。よって久方ぶりの温かい湯で心身の末端まで一気にほぐされた娘が、ともすれば眠気で首がもげるのではと危ぶむほど頭を激しく前後させるのは致し方ない事で、そんな状態で起きていろと鬼畜な命令をする気は全く無かった。それに娘は休息地で必要な備蓄を纏め後は荷運びのみと役目を果たしていたため休んでも問題無く、というより見ているこちらの方が正直肝が冷えると(特に道中娘の足になっていた狼が)『もういいから寝ろ。寝てくれ』と懇願したのだが。この分だと覚えてなさそうだ。

(年を越す前に一度起こした方がよかったか?)

 一瞬考えるが胸中ですぐ首を振る。大晦に己が〝咎〟を喰らう事で清らかな霊肉に戻るとされる人類が、そのまっさらになった心身で改歳を祝う事は知っている。だが年が変わる前後の時間帯、自分はともかく忠臣と友は言葉少なで且つ目に見えて緊張していた。あの空気の中で目覚めを促すのはむしろ酷。しかし申し訳なさを感じないでもないので、

『……Feliĉan novjaron明けましておめでとう

「…………。えっ」

 掘り出してきた挨拶をすると真顔で聞き返された。甚だ失礼である。

『年が変わったら古語でこう言うのだろう。違うのか』

「あ、いえ、合ってます。すみません、決して馬鹿にした訳じゃなくて――また、新年の挨拶が聞けると。単純に思ってなかったので。……Feliĉan novjaron明けましておめでとうございます

 ――その、心から喜んでいると分かる挨拶をした娘の表情に、何故か体が固まった。

 むっとした気持ちは瞬時に掻き消え、代わりに体内でぐわりと何かが波打つのを感じて咄嗟に目を逸らす。否、逸らすも何も鉱物の目珠ではまずどこを見ているか分かる者は決していないし、ましてや見えない相手ならなおの事だが。何をやっているんだ自分は。無性に気恥ずかしい。しかし、

(……狂っていない人間の笑顔は、あんなに透き通っているのか……)

 一瞬で蕾が開いた花、を表すとしたら、きっと今し方の笑みを指すのだろう。それもただの花ではない。娘の名由来が本当に咲いたとしたらと思わず想像してしまうほど透明で、儚くて、けれど力強くもある……、……目を背けたのに無意識に反芻してしまう自分の行動に身悶えする。

 しかし娘は当たり前だがこちらの含羞がんしゅうに気付いておらず、むしろ緊張がほぐれたのか「あの、幾つかよろしいですか」と小声ながらも積極的に話しかけてきた。羞恥は依然燻っているが無下にする理由は無い。許可すれば赤い目に真剣な光が宿り、つられて居住まいを正す。

「改めてお礼を言わせてください。ありがとうございます、私を食べるのをやめてくださって」

『気にするな。単に私が悪趣味な真似をしたくないだけに過ぎん』

「それでも感謝しています。ですが、あの、直後に翻すようで申し訳ないのですが、本当に食べなくて大丈夫ですか? 狼さん達が色々仰って」『気にするな』

 我知らず険しくなった二度目の同言に娘が口を閉ざしたのに気付き、内心でしまったと舌打ちする。だが放ったものは取り消せない。『お前が憂う事は何も無い。気にするな』と今一度努めて穏やかに重ねると、幸い娘はそれ以上追及する事無く頷いた。

「では……お伺いしたい事が。貴方は確かに私達の罪を償ってくださるお方との事ですが、創世神に墜とされたのは厳密には貴方ではないと鳥さんに聞きました。本当ですか?」

『ああ。会った時にも答えたが私は二代目だ』

 人間の罪を清算するために生きる怪物――初めて喰らった〝咎〟の記憶から察していたが、肝心の人類は数百年前にそれが代替わりした事を本当に知らなかったようだ。鳥が己を〝亡友の仔〟と呼ぶのも鳥が初代の《救済の怪物》と知り合いだったため。もっとも文字通り天から投げ墜とされた命だ、初代との繋がりは無く仔というのも便宜上に過ぎない。世代交代の理由は不明だがどうでもよかった。興味が無い。

(やる事は一つだからな)

 一年に一度、岩山に運ばれる狂った〝咎〟を喰らうだけ。それしかない。

「……分かりました。では次に、貴方の体は何色ですか?」

『は?』

 純粋な疑問符が飛び出たのを自覚したのはその符を耳にした後だった。知らず閉ざしかけていた視界が一気に広がり、全ての目珠で何か色々すっ飛ばした質問を繰り出した娘を見やる。ふざけているのかと思ったがこちらに顔を向ける娘は変わらず真面目に、否、先程よりも相当熱心に目に力を籠めている。明るさが勝る血色の瞳がその真摯さに影響されて濃度が増した気さえする。

「教えてください。何色ですか」

『何故そんな事を』

「いいじゃないですかこれくらい。何色ですか」

『おい』

「あ、色の識別なら問題ありませんよ。昔は見えていたのである程度は分かります。何色ですか?」

『…………』

「何、色、です、か」

 待て。直前までの謙虚さはどこに行った。

『…………青だ』

 しかし謎の勢いに負けて答えてしまう自分も自分である。別に無為な押し合いなどせず望み通りさっさと話せば済んだのだろうが仕方ないだろう、あまりに想定外過ぎる。だが半ば強引に解を引っ張り出した娘は数秒考え込んだかと思うと「もう一ついいですか」まだ満足しないのか更に追加を願い出てくる。

「青ってどんな青ですか?」

『どんなとは』

「空の青とか海の青とか……氷の薄い蒼色に河の碧、それに陶器の色付けで見る明るくて鮮やかな青も。あとは藍、群青、あ、紫が混じった青い花もありますね。どういったのが一番近いですか?」

『……空の青でないのは確かだな。だが他は知らぬから比較出来ん。見た事が無いからな』

「え? でも貴方は」

『喰らった〝咎〟の記憶はある。だがそれには色が付かない』

 今まで数え切れないほど喰らった〝咎〟の骨肉は己の骨と血肉の糧となり、その生涯の記憶は俗界と断絶された身で唯一得られる人界の情報として身体中を巡る。生物の生き方も、娘の言葉を解せるのも、己が存在理由を墜とされた時よりも明確に理解したのも全て〝咎〟からの知識に他ならない。ただ循環する端切れにはある共通点があった。それが色彩の欠如だ。

 理由は分からない。箍という箍が弾け飛び彼我の概念を失った事で彩というある種の境界線も〝咎〟から消え去ったのか、もっと別の原因があるのか。色についての知識はあり、実際に目にすればどれが何色かという繋ぎ合わせは出来るだろう。しかし無意味な想像だ。自分は《救済の怪物》以外の何物でもなく、この岩山を降りる事も無い。ただ分かるのは己の内を廻転する断片は総じて白と黒と灰色に染まり切っている事。雲と霧で閉ざされたこの山に有彩色たるものはほとんど生きていない事。奇跡的に望めるのは強く光り輝く狼の雷光の瞳と炎色の鳥の羽、ほんの稀に雲間から覗く空の薄青、そして、

『どの青に近しいか、その比較は出来ん。だが空の色ではない。――私の青は、毒々しい。澱んで、腐って、吐き気がするほど気色悪い、濁り切った穢らわしい青色だ』

 それこそ。世界で最も醜悪な怪物たる己が反射的に爪を立てその鱗全て剥ぎ落としたくなったほどの、こんな色など死に絶えた方がいいと絶望した醜い青だけ。


 ぱちぱちと踊る火片が一際大きく弾けた音で我に返った。

(何を熱を籠めて語っているんだ)

 秘めていた――否、まずこんな話題が出る事自体そもそも無かったのだが――感懐に、それも今正に唾棄した汚色で塗り込められた言葉の数々に我が事ながら虫酸が走る。本当に、ひ弱な娘相手に何を吐き捨てているのだ、自分は。

 息を吸い、吐く。人類が恐れる夜闇の方が何倍も美しいと思うとまた鬱々としてきた。

『もう気は済んだか。ならばそろそろ――』

「マーロ」

 透明な一声が場を打った。

「決めました。これからは貴方をマーロ様と呼びます」

 途切れていた目珠の感覚を繋げると、熾し火に照らされた、毛布を被る娘の変わらない笑顔が見えた。笑っている。意味が分からない。

『は……?』

「貴方にも狼さんにも鳥さんにも名前が無いんですよね。それだと呼びづらいので勝手ながらこっちで決めさせていただこうかなと。で、貴方はマーロです。私の好きな生まれ故郷から頂きました」

『意味が分からない。あいつらに名が無いのは事実だが私は違う。私は《救済の怪物》だ』

「でもそれ『私の名前は〝人間〟です』って言ってるようなものですよね。マーロ様だって仰ったじゃないですか、個の名は無いって。それにその呼び方は」

 言葉を呑み、持たないはずの視線を彷徨わせ、再び認知出来ないはずの己を見据え。

「貴方の体は黒が混ざった青色、もしくはとても深い青なんですよね。……一度、本物を見てみてほしいです。きっと色も、それに本質も似てると思うので。本来私達人間が犯した罪を……一生かけて償わなければならない咎を身の内に含んで、私達の代わりに清めてくれる。広くて、大きくて、静かに何もかも、を、等しく。受け入れてくれる、のが――……」


 ぱちり。ぱち。

 絶えず粒を舞わせる不定形な赤い揺らめきが、急速に眠りに落ちた娘の輪郭を照らし出している。

『――それがマーロに似ていると? 水晶クリスターロの娘』

 視界を閉じる。片っ端から引っ張り出すのは一面の水溜まりの風景だ。だが人類の大罪を呑まされ潰れた〝咎〟の世界はどれを選んでも黒か、あるいは黒に近い灰色に染まっている。娘が想起したものと自身の色はどれ一つとして重ならなかった。

(否)

 重ねなくていいのだ。応えが無くとも、否、あったとしても受け取らなくていいのだ。きっといくら肯定されても納得など出来ない。してはいけない。――でも。

 きつく歯を食いしばって眠りにつく。腹の底の蠕動は無理矢理にでも押し込めた。

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