【 Ⅱ 】救済の怪物
『事故があったんだよ』
いや、あそこまでいくと最早事件かね? と向き直った屍鳥はそう切り出した。
『四つ足がお前さんの所に行って暫くしてね。男の〝咎〟が入っていた檻が、〝咎〟が暴れまくるせいで鍵諸共壊れちまったんだ。しかも場が悪くてねえ……導の道の中でも一番傾斜がある所だったもんで、担いでた足の人間も転げ落ちてもずっと暴れる〝咎〟も、ついでにこの娘の檻を担いでた人間も全部一緒くたになって山の切れ目に落ちたり転がって岩に激突してそれきりだったり。凄かったねえ。何もかも一瞬過ぎて暫く嘴開けっ放しだったよ』
たった十数秒で全滅した御一行にかくもの鳥も暫し呆気に取られていたが、我に返って慌てて残った女の〝咎〟(男の方は谷底に吸い込まれていったとの事)を捜すと、幸いそう遠くない場所にあった岩石の傍に檻が引っかかっているのを見つけた。しかし空気穴以外の穴が無い密閉された箱故に中がどんな状態かも判然とせず、とりあえず外から翼でべしべし叩いていると微かな呻き声。まだ生きている、だが姿が鳥の自分では鍵を壊せたとしてもその後運ぶ術が無い――あの鳴き声は彼女の救援信号だったのだ。
『で、四つ足がこの〝咎〟を背負ってくる代わりにあたしがお前さんトコに飛んできたって訳さ。……ちょいと聞いてるのかい仔』
意識の半分以上を全く別の事に割いていたのをあっさり見抜かれ、朱炎の翼で軽く鼻先を叩かれてしまった。従獣が『おい鳥!』と抗議するのを制し、逡巡の間を置く。
『……分かった。その経緯は理解した。その理解はした、が……。……〝咎〟の娘』
「はっ、はい」
とりあえず娘は自分の真ん前に己が鎮座しているのは把握しているらしく、見えない赤目を開けて形だけでもとばかりに行儀よく座っている。…………。
『〝咎〟の娘。いくつか訊きたい事がある』
「何でしょう」
『そもそもお前は私は何であるか、どういった名目でここに連れてこられたかを真に理解しているか』
「はい。貴方は……《
□□□
神が海と大地を創り、植物を創り、獣を創り、人類を創り、中でも神からの寵愛を授かった人間が知識と知恵を得て繁栄の兆しを見せ始めた頃。ある大陸に聳える世界一高い岩山に一筋の光が天から射すや、そこから一匹の怪物が墜ちてきた。
陸地の中央に鎮座ましまする死に山の天辺に墜ちていく異形は、広い広い大陸の端からでも視認出来るほど巨大で醜く、人々は怪物に慄き怯え、神にあれは一体何だ、我らが神は我々があれに喰い殺される事が望みなのかと口々に問うた。しかし神は情け深げに否と答え。
――知識を蓄え、知恵を身につけ、奇跡の心を宿した愛しい我が子達。あれは私からの最後の贈り物です。
――一年に一度の大晦に。その年に最も非道な罪を犯した男女一人ずつを選び、呪をかけ、天頂に墜としたあれに捧げなさい。
――あれは貴方達が犯した罪を浄化する怪物。人の子が犯した全ての罪業を
人類は神に感謝した。その頃は信心深く清貧に生きる人々がいる一方で、我欲に支配された者達が起こす理不尽な争いも生まれ始めていた。特に謂われ無き殺生で命を落とした人間は神の御園に還れず地上を徘徊する幽鬼と化し、無辜の民は生者にも死者にも恐れる暮らしを強いられていたが故に。
以降人間達は岩山の麓に白亜の神殿を建て、そこで一年に一度、人の身では到底裁き切れないものの中でも最も凄惨な大罪を犯した男女一組の〝咎〟を選定して己の下に――いつしか《救済の怪物》と名付けられた自分の下に、運び込むようになったのだ。
□□□
「――そしてその一年に一度捧げられる、今年の女の〝咎〟が私です」
掻い摘まんででもいいから私に纏わる神話を述べてみろ、と命じた時こそ娘は困り顔で黙していたが、沈黙は沈黙でも沈思だったらしく、話す順序立てを決めたと見るやほぼ淀みなく伝承を舌に乗せた。今は緊張で身を縮めているが根は話し上手なのかもしれない。
静かに締められた一言を聞き入れた後、娘の語りを頭からざっと振り返り小さく頷く。
『……相違無い。お前が語ったものと私の記憶は一致している』
目に見えて安心する娘に『だからこそ』と言葉を繋ぐ。
『狼、鳥。男の〝咎〟はどうだった』
『狂ってました。言語にならない濁声でひたすら吠えてがなり立て、檻を担ぐ人間がよろめくほど暴れてました。姿は見ませんでしたが理性は微塵も無く消えてるでしょう、いつも通り』
『今年はそれが殊の外酷かったって事だろうけど……さすがにこっちは前代未聞さね』
『ああ』
肯い、焦点が合わない澄んだ赤目をうろつかせる娘を八つの目珠に映す。
『〝咎〟の娘、もう一つ訊く。――何故お前は狂っていない?』
娘の語り口は丁寧だった。それこそ命じた自分自身も驚くほど秩序立った話し方で、内を巡る狂人達の記憶から無理矢理引っこ抜いた破片ばかりの掻き集めを一から整理するよりも遙かに理解しやすく――だからこそ、異常なのだ。
『知らぬだろうから言うが、〝咎〟の娘。私は今まで喰ってきた数百人の〝咎〟の生涯の記憶を有している。もっともそれらは無数に破れた紙切れ同然に纏まりが無いのだが……それはこの者達に例外無く〝咎〟と化させるための呪がかかっているからに他ならない』
一年に一度、人類の罪を浄化するために選定される男女の罪人。だがたった二人を選んだところでそれはあくまで個人が背負った重罪であり、何千何万も存在する人間の罪悪をも肩代わりする事にはならない。ならば何故たった二人の〝咎〟を喰っただけで人類の罪罰が償われるのか?……実際に見た事は無いが、断片的な〝咎〟の記憶なら覗けた。各地に建つ教会の神像を寄せ集めた、神聖とは真逆の妖気漂う秘中の秘の間。信心深い信者達が吐き出す告解と懺悔を十二分に溜め込んだ像の群れに四方八方を囲まれたある年の〝咎〟。一歩違えば邪教の媒体にもなり得るそれらを更に取り囲む神職者達が神から授けられた呪を斉唱すれば、途端に偶像達から膨大な不浄が排出され、拘束された〝咎〟へと一目散に――。
『お前に刻まれているのは紛れもなく呪の刻印だ。盲目のお前がどこまで状況を掴んでいたかは分からんが、取り込めば一瞬で精神を崩壊させ骨の髄まで狂気に冒された末、人間という皮を被った肉塊と化す呪を刻まれている事実は変わらない。にも拘らず〝咎〟の娘。お前は己が立場を弁え、私に敬称を付けるほどの分別を持ち、私の神話を的確に述べ、話し終えると安堵の息すら吐いた』
同室で同じ呪をかけられた男の〝咎〟は狂乱して死んだ。なのに何故お前は狂っていない?
しん、と辺りが静寂に包まれる。いつしかまた俯き襟元をきつく握りしめる娘を黙って見つめ答えを待つ。だが。
「……分かりません」
『何?』
消え入りそうな呟きに狼が不審を唱える。『本当かい?』と訝しげな鳥の再確認には娘が首を縦に振り、
「どこかの部屋で《救済の怪物》様が仰った呪を浴びて気絶し、その後暫く放心状態だったのは確かです。けれど何故私が今も正気を維持しているかは分かりません。一応、神職者の方々に尋ねようとは思ったんですが……その、とても聞けるような雰囲気では……」
『ま、そりゃそうだわね』
『ならば〝咎〟の娘、お前が〝咎〟に選ばれた罪は何だ。他に原因があるとしたらそれしかあるまい』
「それは」
歯切れよく答えていたのが嘘のように娘は口を閉ざし、いつまで経っても開こうとしない。先程のどんな言葉選びが適切かを悩むのとは異なる、純粋に打ち明けるのを躊躇っている――ともすれば、泣き出してしまいそうな悲痛な
腹の底で何かが蠢いた。
『……分かった。それについては訊かん』
癖で息を吐こうとして止める。忠臣と庇護の友ならともかく、脆弱な人の体で突風同然の嘆息を浴びせるのは酷だ。
『狼、鳥。この娘を湯に浸からせてやれ』
「え?」
『主?』
『おや、お前さんそんなに綺麗好きだったかい?』
揃って疑問符をぶつけられ一瞬怯むが、とりあえず『そこまで頓着せん』と明確に答えられるものだけ先に返しておく。
『私は気にせんが、人間の、特に女は身の汚れを気にすると記憶にある。だが〝咎〟の身なら道中まともな扱いをされてないだろう。導の道沿いに湯が湧いている穴があるから入ってこい』
間が生まれた。
「…………あの。すみません」
『ついでに幾つか予備の衣服と食糧を見繕ってくるといい。穴も含めてその辺りは人間の休息地だ、きっと近辺に備蓄がある。そしたら私の
「あの、すみません! 失礼ですが一つお伺いしてもよろしいでしょうかっ」
『何だ』
「……あの、ここで召されないのですか? わざわざ貴方様の棲処で、その、ぱくっと?」
『この流れでそう考えるのか? 喰わんに決まってるだろう』
即答。に、勢いよく挙手した娘は元よりそこそこ長く共にいる一匹と一羽も揃って間抜けに口をぱかりと開けてこちらを凝視(限界まで見開いても何も映さないはずの娘もだ)する光景に、今日起きてから一体何度目か分からない吐息を胸中で漏らす。
『これまでの〝咎〟はどれも例外無く狂い果て、理性など微塵も残っていなかった。それこそ私が喰った瞬間、その喰われた事を認識出来ているかどうか怪しいほど、な。だが〝咎〟の娘、お前は〝咎〟の証を刻みながら今なお正常だ。私は理性と痛覚を残した人間を躍り食いするほど悪趣味ではない。それともお前は生きながら地獄を味わいたい嗜好でもあるのか?』
「いえまさか、とんでもない!」
『ならばさっさとそこの狼に乗って移動しろ。お前達がそこにいたらいつまで経っても動けん』
『お待ちください主っ!』
と、雷雲の狼が吠えた。こちらの顔の横まで駆け寄り急停止した際、ずさっと足下で砂埃が舞う。
『主、確かに今回の〝咎〟は例年と違います。ですが〝咎〟は〝咎〟です。あの娘を喰わなければ』
『お前は主君と定めた者に異を唱えるのか』
じろりと睨めつければ反射的に首を竦ませる。しかし頻りに左右に揺れる尾からして納得していないのは一目瞭然だ。まあこれまで全く意識した事が無い威光を振り翳した事に自分自身落ち着かないのだ。強引に諾を喉に突っ込まされた従狼が不満を燻らせるのは当然の事で、『ならあたしは口を出せるね、亡友の仔』主従関係を結んでいない大鳥がわざわざ己の眼前で羽ばたいてまで嘴を入れるのも当然と言えた。
『亡友の仔。今四つ足も言ったけど〝咎〟は〝咎〟。確かにあんたの言い分も分かるよ? これまでの〝咎〟は真の狂人だったさ、今回迷うのも無理はない。でもね』
『どのみち男の〝咎〟は谷底で挽肉状態だ。今更片方だけ喰っても意味が無い』
『二つある内の一つしか食べないのと両方食べないのは違うだろう!』
『喰わんと言ったら喰わん。これ以上の文句は受け付けん』
八つ全ての目珠を使って一匹と一羽と睨み合う。朱炎の鳥が口先に留まった事で羽ばたきもやみ、緊迫した静けさが張り詰める――。
ふう、と、大仰に鳥が溜め息を吐いた。
『……全く、初めての我が儘がこれなんて、ねえ』
『
『何言ってんだい、正真正銘童子のくせに。――ほら四つ足、娘のトコに行きな。あんたも、いい加減寒いだろう?』
「え、でも」
『ありゃ駄目さ。……にっちもさっちもいかない事態にならない限りテコでも動かないよ、もう。あの大きい体があたし達だけで動くもんか』
『乗れ。行くぞ』
やれやれ、渋々。表すなら正にこれだろう。それでも(誰が見聞きしても不承不承な態度であっても)存外あっさりと反駁を諦めた禽獣に娘は戸惑っていたが、狼に力強く鼻先を押しつけられては動くしかない。ここは自分達以外の生物がいない荒れた岩山。目が見えない娘一人で動き回ろうものなら片割れの〝咎〟達の二の舞だ。
『しっかり掴まってろ。登るよりも降りる方が危ない』
「わ、はい――あ、レ、っ……あの、主様!」
『……何だ?』
一度決めたら迅速に、とさっそく目的地を定めた狼に跨がる娘が声を上げたが、奇妙な呼び方で指されて一拍分理解が遅れた。
「ありがとうございます。その、私クリスターロって言います。貴方のお名前は何ですか?」
『……《救済の怪物》ではないのか。お前もそう呼んだだろう』
「それは俗称というか、人が勝手に呼び始めたものですし。貴方の本当の名前は教典にも載ってないので知らないんです。教えていただけますか?」
今度は三拍の空白を挟んだ後、ああだからさっき妙な指名の仕方をしたのかと納得し。
『無い』
仮にあったとしてもそれは初代のもの。二代目の私に名など無い。
絶句した娘を運ぶ狼と同伴する鳥を静かに見送って。疲労した体に鞭打ち、疼く口内を窘めながら帰路についた。
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