3.サマータイム・リフレイン

 二年経っても憶えていた。水瀬めぐりとの夏の始まりを。


 僕と彼女の関係は、あの祭りを境に一度は綺麗さっぱりなくなった。

 学期が始まり、水瀬の転校が知らされる。彼女の一連の計画は成功したらしい。火野たちが僕の所へ問い詰めてきたけど、初耳だ、だの、そもそも友達じゃない、だの話を逸らし続けていたら興味を失われた。


 引っ越しの件は知っていたけれど、彼女との関係を聞かれても、多分僕は友達と名乗れない。名乗る勇気がないし、水瀬もきっと望まないだろう。


 強いて言うなら貸し借りの関係だけは継続している。ふんだくられる可能性は高いし、ふんだくられても構わない、些細な約束事に過ぎないのだから。


 あるいは一方的な感情ならば抱いていないこともないのかもしれない。

 確信には至れないのだけれど。


 担任の口から多く語られることはなかった。もちろん、いじめの可能性についても。事なかれ主義様様だ。


 そういうわけで、水瀬めぐりの話題は夏休み明け数日だけ、それも特定の狭い範囲で話題になっただけで、時の流れによってすぐに鎮火されてしまった。


 夏が終わり、冬が来て。

 夏が終わり、冬が来て。

 また、夏が来る。高校生三度目の夏である。


 相変わらず僕は独りを謳歌していた。祭りには出向いた。無性に林檎飴が食べたかったからだ。結局、たこ焼きと林檎飴だけ買って帰った。


 高校三年生にもなると毎日は受験勉強の連続だ。ただでさえ、あの夏の日から時間が駆け足で過ぎ去っているというのに、余計加速していくような気がした。ついていける自信はなかったけれど、乗り越えるしか道はなかった。


 迫りくる冬。受験本番。がむしゃらにシャープ・ペンを滑らせた筆記試験を乗り切った頃、僕は何とか第一志望の大学に合格していたらしい。らしい、というのは実感が湧かないからだ。この浮遊感は大学に入学して数か月は続いた。


 きっと嬉しかったんだろうけど、いざ合格発表の場で胴上げされても心は浮ついたままだった。


 早く、夏になってほしかった。

 無性に、林檎飴が食べたかった。


 四月になるとすぐに予定が新歓コンパで埋まった。高校時代の僕からは考えられない進歩だと思う。水瀬めぐりを心のどこかで尊敬していたからだろう、と勝手に結論付けた。


 いや、どうして水瀬の名前が挙がるのだろう。

 首を振って邪念を振り払おうとした。

 手遅れだったのかもしれない。


 新歓コンパは、同性だけでなく異性とも交流を図った、もちろん。


 そして気づいたことだが、僕は決して人と喋ることが苦手なわけではないらしかった。自分から壁を作っていただけで、壁さえなければ誰とでもそれなりに意思疎通を図れる。


 ――そして彼女を失ってから三度目の夏が訪れる。僕は成り行きで僕はほぼ初対面の女と夜を共にした。僕はそこで童貞を捨てた。


 自分の可愛らしさの魅せ方を熟知している聡明な女だった。茶髪のボブ・ヘアーに緩くパーマをかけて、ファンシーな服も相まって可愛らしさを増長している。


 新歓コンパの一席で出会ったのが関係の始まりだ。相席で酒を飲んでいたら意気投合して、何度か飲みに誘っていたら俗に言う『いい感じの』雰囲気になった。


 つい先程まで童貞だったくせによくもまあ順序立てて行為に移れたものだ、と自画自賛したいところだが、僕は一切リードしていない。むしろ経験豊富な彼女に手綱を握られ、終始お膳立てされた。情けなさと行為後の倦怠感で熱に浮かされたように身体じゅうが火照る。


 備え付けの避妊具を切らし、僕は低反発のマットレスに飛び込んだ。元より非力な身、一度果てるだけでも十分に体力を奪われた。


「……どう、童貞を捨てた感覚は」


 隣で寝返りを打ってきた女がこちらを見つめる。普段はきりっと怜悧な目線だけれど、今だけは眠そうに蕩けていた。演技なのか素なのか、彼女との関係は初対面ほど弱くはなくなったけれど、まだ強くもないためまだまだ判別がつかない。


「どうって言われてもな。凹凸の出し入れをしただけで世界が変わってしまうなら、毎日が巡るめく新世界だよ」

「ふふ、相変わらず捻くれているわね」


 三年前にも似たようなことを言われた気がする。きっときのせいではない。


 女は。――水瀬めぐりと名乗った。


 意気が統合したのは偶然ではなかった。巡り会わせは偶然中の偶然、奇跡にも値するけれど。


 転校した彼女とまさか同じ大学に進学しているとは思ってもみなかった。偶然の巡り会わせに再会した当初は面白すぎて、夜通し二人で飲み明かした。


 相席から始まって二次会をこっそり抜け出して二人だけで飲み明かした日々。僕は彼女と喋られるだけで半ば満足していた。先に痺れを切らしたのは水瀬の方で、最近は酔ったふりをして過剰なスキンシップを要求するようになっていた。根負けしてホテルの一室に至った。


 結論を先に申し上げるならば彼女は三年前の祭りを境に変わる決意をし、その決意を現実のものとしたらしい。


 転校した先の高校では積極的に友人を作ったとのことだ。それもスクールカーストに操られた隷属関係ではない、互いに認め合える友情を少しずつ、地道に。


 転校してから半年ほどで初めての彼氏ができ、処女は奇しくも彼に捧げてしまったらしい。ゆえにリードできたのだろう、複雑な心境ではあるが。


「変わったよな、水瀬。芋っぽくない」

「君もでしょう、湊君。社会に適合してる」


 冷房で冷え切った部屋の中で二人身を寄せ合って布団に包まる。彼女の肌の熱が手のひらからだけではなく、四肢と身体中の肌から伝う。


 彼女からは相変わらず柑橘系の匂いがした。


「新歓コンパなんて似合わないわよ、あんなに人を避けてた湊君には」


 自覚はあった。そこそこの人間関係は醸成できた気でいるが、あの騒がしい場に立ったところで、その場に立っていないような気分に陥ることは多々あった。人間との意思疎通こそできるが、そもそも僕は独りに向いている人間だったのかもしれない。


「そういう水瀬だって前は地味子だったじゃないか。コンパに呼ばれても一呼吸置かないで断りそうだったよな」

「昔は昔、今は今よ。水瀬めぐりは生まれ変わったんだから。夏の日、プール掃除をサボった四人組のおかげで」

「回りくどい言い回しをやめて、素直に僕のおかげだと認めろ」

「癪じゃない、それ」


 三年の間に随分と生意気になったものだ。


 寝返りを打って彼女に背を向ける。水瀬はというと、僕に構わず、身体を押し付ける。押し潰される乳房に気を取られたら負けだ。平静を装う。しかし、首筋に吐息が吹きかかり、こそばゆい。意識せざるを得なくなる。


 随分と、生意気になったものだ。


「夏祭りの日、憶えているわよね?」

「当然だよ」


 忘れたくても忘れられないだろう、記憶に焼き付いている、いや、焼き付けた。


「あの日、火野に文句を言えていなかったら二度と君に会わせる顔が無かったかもね」

「こっちから願い下げしていたよ、その時は。会わせる顔がない、というか一種の幻滅だろうね。内弁慶な水瀬めぐりっていう女の子に失望していたはずだ」

「でしょうね。――なら、良かった」


 なら、良かった? 何がだろうか。


「まあ、僕が後押ししてようやく前に踏み出せたんだけどね。まさか平手打ちするまでは考えていなかったけれど。ぶたれた瞬間の火野の不細工顔の爽快感といったら」

「ふふ、ふふふ。それ、思い出したら、ふふっ、かなり可笑しいわねっ!」


 くっく、と笑いを押し殺そうとするも叶わず、結局水瀬は盛大に笑いこけた。つられて僕も涙目で笑う。


 暫くして、笑いつかれた僕らは腕で互いを抱き寄せた。

 温もりが、愛おしかった。


「……私、ほとんど赤の他人だった君に借りばっかりしてる。何にも返せてないね」


 悪戯な微笑。蠱惑的に彼女の細い腕が首筋に絡まってくる。蜘蛛に囚われた蝶のように僕は逃れることができなかった。


 逃げる気もなかったけれど。


「ねえ、今ここで借り、返さないって言ったらどうする?」

「ホテルの代金、払っておけよ」

「甲斐性なしね。女の子にモテないわよ」

「モテたいわけじゃないから、別に」


 ある特定の一人に好かれていればいい。

 その対象が目の前で色気づいた顔を浮かべている。鼓動が、収まらない。


「……冗談抜きで言うと、別に貸し借りした覚えはないから忘れてしまえばいいと思っているけど。ちなみに水瀬はどう支払うつもりだったんだ?」

「どうすると思う? 身体で支払うと思う?」

「なるほど、だったら恨みっこなしか」

「本気で信じないでよ、冗談なんだから」


 拗ねたような口振りは夏祭りのあの日から全然変わっていない。

 何度か飲みに誘ってみて気づいたが、僕は水瀬が時折見せる幼げな態度がそれなりに好きだった。 


「もうすぐで、夏休みね」

「まだまだ休むには早いだろうよ。大学なんだから八月まで講義はある」

「でも七月中に大体の講義は終わってしまうじゃない。八月まで延長戦しているのは集中講義だけよ」

「……で、何が言いたいんだよ」


 なかなか本質を告げない水瀬に苛立つそぶりを見せると、すぐに察したのだろう、こほんと咳き込んで改まった口調で。


「……林檎飴」

「ん?」

「林檎飴、奢ってあげる」


 それは。

 あまりにも些細な贈答品だったけれど。

 おかしくて思わず吹き出してしまうくらいの代物だったけれど。


「ぷっ、あは、あはははは!」

「ちょっ! なんで笑うのよ!」


 僕の描く水瀬めぐり通りの回答が得られた。


 何というか、もう、最高だ。

 僕は、僕らは林檎飴に無心している。


「最高だよ、水瀬。いや、めぐり! やっぱり、やっぱり僕は君を好きになって正解だった!」


 口が滑った。恥ずかしさ半分、でも冷め止まぬ興奮と狂喜が上乗せする。すぐに感情を覆いつくす。ああ、好きだ。


 好きだ、好きだ。

 大好きだ。

 やっぱり、水瀬めぐり、最高だよ。


 林檎飴を対価にしたその一言で、僕の日常は、浮遊したままだった大学生活がようやく始動した気がした。大学生活どころじゃない、僕の、草薙湊の人生が再始動した。水瀬は三年前に失われてしまった、大事な大事な歯車だったのかもしれない。


 たかが、赤の他人でも僕はあの祭りから彼女に惹かれていた。不思議な引力が僕の下に彼女を鉢合わせた。


 夢だ、本当に夢のようだ。

 水瀬めぐりは、変わったように見えて、僕の理想であることは変わらなかった。

 だから、ひたすらに愛おしい。


「ちょ、いきなり何なの!? 好きって!?」


 唐突な告白に狼狽する水瀬。案外、好意に動じないものだと思っていたが予想外の反応に、こちらも思い出したかのように顔が熱くなる。でも、興奮して饒舌な口は止まらない。止まらせない。


「読んで字のごとくだよ! 君の『林檎飴』で確信に変わったよ。僕はあの夏祭りの日から君のことが好きで好きで仕方がなかった!」

「好き好き言わないで、ばかっ! 気が狂っちゃいそうじゃない! どうしてくれるの! 責任取ってよね!」

「責任くらい取ってやる。好きになってしまったんだからさ、君が好きだってことに気づいてしまったんだからさあ!」

「うぎゃ、やめっ、照れ、恥ずかしいからぁ……」

「おいおい、もうおしまいかよ水瀬めぐりっ。まだまだ言い足りないんだ僕は。三年前からずっとずっと溜め込んでいたんだよ、三六五日が三回分の好きを言いたい、言わなけりゃこちとらぶっ壊れてしまいそうなんだよ! 責任取れ!!」

「そっちこそっ! 責任! 取れ!」


 わちゃわちゃ、と。ベッドの上で下着一枚だけを着たまま取っ組み合いを始める大学生二人組がいた。虚しくも僕らだった。お互いに運動と縁遠かったからすぐに燃料切れ。


 ベッドのスプリングに飛び込んで、跳ねた。

 仄暗い部屋に荒げた吐息と無言が重なる。


「あの、いいかしら……湊君」

「……なんだよ、水瀬」

「あら、名前で呼んでくれないのかしら?」

「一筋縄ではいきたくないから」

「そ。まあ、いいわ」


 悔しいけれど、と胸に抱きよせた水瀬が不満を漏らしたので耳元でそっと名前を囁いたらしおらしくなった。


「……借りを身体で返す気ないけれど、君にその理由が分かるかしら」

「軽い女だと思われたくないから?」


 水瀬は両手を合わせて三角の形を作った。


「半分正解、でも半分未回答ってところね」


 得意げに胸を張る水瀬。こういうところ、非常に子供らしいなと率直な感想がぽろっと出そうになる。子供らしい、というワード、実は彼女の前では禁句なので口には出さなかった。元より面倒臭い性格の女だ、機嫌を悪くしたら堪ったものではない。


「……お手上げだ。答えを教えてくれ」


 しばし勝ち誇った笑みを向けてくる水瀬に苛立った目を向けると、「……せっかち」って恨みがましく唇を噛み締められた。そんなに僕の揚げ足を取るのが好きなのかよ。


「……しょうがないわね。どうしても、どうしても答えて欲しいってせびるから、湊君に免じて教えてあげましょうか、私が身体で返さない理由を」


 もぞもぞと、布団の上を這い僕の耳元に手を当てると、僕だけにしか聞こえない、小さな声で真実を告げた。もとより、この部屋には僕と水瀬しかいないのだけれど。


 さて。


 答えを聞いた僕は、一体どのような反応を見せたか。答えは至極単純で、その場から動くことが一切できなかった。思考の整理がつくまで小一時間を要したが、その頃にはもう水瀬が胸中で寝息を立てていた。


『好きなのは、どうにも君だけじゃないようだよ、湊君。それに、私は軽い女じゃない。むしろ重い方よ。好きな人が構ってくれないと拗ねてしまうのは私の中じゃ、道理なの』


「なんで直接的じゃないかなあ」


 囁き終えた後で真っ赤な顔をしてまじまじと見つめられた。頭は真っ白だった。


 彼女の放った回りくどい殺し文句を反芻する。理解はできても順応するにはまだまだ時間がかかりそうだった。


 そうだな。せめて、デートの一回でも経験すればこの熱が一過性のものじゃないと確信できるだろうか。


 七月に入り、もうじき夏祭りの季節だ。


 ――林檎飴、奢ってあげる。


 無性に林檎飴が食べたかったから、彼女が消えた夏も祭りに行くことだけは欠かさなかった。たこ焼きもついでに買っていた。


 それでも渇きが癒えなかったのは、水瀬めぐりが隣にいない夏だったからだと思い込みたかった。彼女への恋慕を盲信したかった。



 僕は。僕らは。夏を反芻する。

 提灯が揺れる騒がしい人の波を縫うように、祭典を謳歌する。

 最高の夏は君に添えるだけでいい。



 サマータイム・リフレイン。

 僕は僕らの夏を反芻する。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

サマータイム・リフレイン 音無 蓮 Ren Otonashi @000

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ