2.サマータイム・エンディング


 三年経っても憶えている。

 ほぼ初対面だった水瀬っていう少女と一緒に地元のお祭りに繰り出したことを。


 夏はその日、始まった。


 町の商店街を丸々貸し切って週末二日間を通して行われるその祭りは、僕と水瀬の通う高校の終業式が終わった次の日に開催される。


 すなわち、最高の夏を始めるための通過儀礼のようなものだった。青臭い春に無縁だった僕には今まで関係のないイベントであり、これからもきっと関係のないイベントなんだろう。


 あたりには、友達もしくは恋人と練り歩く同年代がそこかしこを行き交う。


「去年は焼きそば買って、退散したんだよな」

「虚しい青春ね」

「僕自身が虚しいと思わなければいいんだ。君のように、友達まがいとお友達ごっこをする方がよほど不毛だよ。違う?」

「違わない、けど」


 ざり、と排気色の地を蹴る、擦る。


「……今よりは扱いがマシだったんだけどね、去年は」

「喉元過ぎれば何とやら、だ。ぼんやりした記憶は美化されがちで、だからそう易々と許せるんだろうな」

「あいつらを擁護する気はないわ、今更。私なりの実感。早いうちに決別するべきだった」

「もうその必要はないんだろ。後悔するよりかは新天地を考えた方がいいんじゃないか、自己保身のために」

「それでも、やっぱり後悔はするものよ」


 わけもなく脇腹を小突かれる。地味に痛い。


「なんだよ」

「君のせい。君のせい、君のせいなの」

「どうしてそうなるんだよ。わけ分からない」

「君が孤独なのがいけないの。孤独でも生きていて、何の苦労もなしにのうのうと生きているのがいけないの」

「そんなの八つ当たりだっ!」


 冗談じゃない、と慌てて反駁する。自分の弱さを他人のせいにしないでくれ。


「でも……やっぱり、君のせいだよ。君の方が私よりも真っ当に、生きているんだもの。人に囲まれていないくせに」


 消え入りそうな声だった。祭りの喧騒は、弱気な彼女を影にする。影にして、きっと飲み込んで解かしてしまう。


「人に囲まれていなくて悪かったな」


 自分で選んだ道なのだ。誰彼から咎められる筋合いはない。ましてや羨むな。


「折角、明るくて喧しい場所に来てるんだ。暗くなったままじゃ、付き合ってるこっちの気が滅入るだろ?」

「そう、ね。そうよね。ごめんなさい」


 暗い顔をして欲しいわけじゃない。謝罪も不要だ。水瀬、お前がやるべきことは何だ。やりたいことは何だ。


 問いただそうとした、そのとき。

 くぅ、と可愛らしい腹の虫が鳴った。

 隣で水瀬が顔を赤くしている。


「……何食べる?」

「…………たこ焼き」


 とどのつまり、そんな片言の、短絡的だけど十分な内容の会話にも満たない台詞の掛け合いだけで充分だった。


「楽しめよ、お祭り」

「うん。知ってる、分かってる」


 理屈とか面倒臭い主義思想とか、スクールカーストとか友達とか赤の他人とか、男とか女とか、過去とか現在とか未来とか。


 全てのしがらみを真夏の空に捨てて。

 お前はお前の夏を謳歌すればいい。


 屋台でたこ焼きを買った。爪楊枝は二本だ。普段、独りでいるとはいえ、最低限の配慮はするつもりだ。できているかは水瀬の基準次第だけれど。


「ほら、やるよ」

「ありがと」


 路肩の縁石に並んで腰を下ろす。等間隔で吊るされる提灯の隊列がわずかに遠ざかった。ただそれだけで夜闇が近づいた気がした。


 左手でたこ焼きの容器を持つ。爪楊枝で僕と水瀬はそれぞれ、焼きたての球体をつついて、潰す。


 ほくほくと、白くて濃い湯気が立つそれを一本の針で口まで運ぶ。転がしながら冷ます。甘辛いソースと濃厚なマヨネーズが絡み合う。噛み合うほどに生地と調味料が混ざり合い化学反応を起こす。歯応えのあるタコをゆっくりと咀嚼する。青のりと鰹節の風味が大海原を想起させる。とにかく、美味しい。


 水瀬はというと。


「はふ、ほふ」


 丸ごと食べて口の中を大炎上させていた。食べるの下手かよ。


「ゆっくり食べろよ」


 ごくり。


「……言われなくても」


 言われなきゃ丸ごと食べていただろうが。

 喉詰まらせても責任はとれないからな。


 六つあったたこ焼きの最後の一つが、水瀬の喉を難なく通過したころになるとようやく、祭りの会場に熱がこもってきた。


 活気のいい掛け声が前方から向かってくる。おもむろに人の波が避けていく。その中心で煌びやかな神輿が男衆に担がれて屋台や人々を照らす。吊るされた提灯の隊列が呼応するように爛々と燃え盛る。


 そんな、一夜の夢を傍観して、


「……祭りって案外、大したものじゃないんだね」


 縁石から立ち上がると、祭りの中心へと歩いていった。

 水瀬がぽつりと呟いたのは素っ気なく、可愛げのない感想。同感だった。


「夢見ていたのかよ、今まで」

「そうかもしれないわね、とても寝覚めの悪い夢。一人になるのが怖いから。無理して笑うしかなかったから」

「そりゃ、悪夢よりたちが悪いな」


 彼女は小さく頷いた。きっと去年までの祭りと比較していたのだろう。友達という名の隷属関係に縛られるか、ほぼ赤の他人の僕に縛られないか。結果、彼女は後者を取った。


 同情する気はないけれど、夢を覚ますことができたなら、水瀬は自分の殻にひびを入れることくらいはできたのかもしれない。


 過去の同類として、その進歩は少なくとも喜ばしいことではあった。


「にしても」


 そして、彼女の口調は元通りになる。でも元通りというか、元より不機嫌というか。


「どうして君は私の服装について一っ言も褒めてくれないのかしら」

「うん?」


 唇を尖らせて拗ねる彼女は幼く見えた。

 うん? 地雷原を踏んでしまったのか?


「その様子だと、何も心当たりがないようね」

「水瀬が起こる理由が見当たらない」

「……少なくとも、見れば分かるはずよ」


 じっと目を凝らす。彼女の眉間に刻まれた皴がより深くなった、気がした。


「……服、着物」


 見かねたのであろう、水瀬がそっぽを向いて小声で助言してくれた。


「……あー」

「その反応は傷つくわ、かなり、とても」


 別に気付いていなかったわけではない。

 女性という生き物と生来関わることが少なかった対価だ。


「女性の身なりを軽率に褒めたらセクハラ認定されるんじゃないかなって」

「大袈裟よ。でも、ちゃんと気づいてくれたんだ。ふーん。ふーん」


 ふーん、と。上機嫌な鼻歌まで口ずさみだした。水瀬のキャラが瞬く間に崩壊した。そわそわとしながら、横に並んでいた彼女は下駄をわざとらしくカラン、と鳴らした。


 そして、頭一つ分高い僕の顔を覗いてくる。


 ……こちとら。下駄の足音すら耳に入ってこないくらいに動揺しているんだ。きっと。


「……で、どう思う? 着物、可愛い?」

「き、着物だけを評価しろって?」

「融通が利かないわね。もちろん、全部よ」


 ――私、可愛いかな。

 溶けそうだった。僕の脳内は蕩けていた。


 こんなときに人間と国交断絶したデメリットが浮き彫りになる。


 水瀬との関係は今日限りだ。だからあまり気にするな。そうやって自分に言い聞かせなければコロッと堕ちてしまいそうな、軽率なの心に腹が立つ。


 いずれ、水瀬が放った殺し文句に、流暢な返しができる日は来るだろうか。そうしなければいけない日々は訪れるのだろうか。


 そしたら、僕は国交断絶をやめなければいけない。大人にならなければ、いけない。


 品評は苦手だ。ましてや人の品評なんて。


 水瀬の容姿をまじまじと見つめる。厚ぼったい髪は空いたのか、心なしか軽い印象を受けた。そもそも肩をすっぽり覆っていた黒髪がばっさりと切られてボブ・ヘアーとしてまとまっている。大胆なイメージ・チェンジだ。気付かないふりをするのが烏滸がましくなるくらいには。それでも無視を続けたのだから、不満にもなるわけで。


 髪だけじゃない。元々の素材がいい水瀬の顔には薄化粧がぱちぱちと輝いている。さりげなく、ラメ入りのアイブロウやチークを施しているのだろう。口紅を塗ったのだろう、彼女の小さな唇が提灯の光に導かれててらてらと濡れていた。


 きっと、つるんでいた仲間内では見せることを躊躇ったのだろう。生意気だと思われるから。心が苦しくなる。もったいないな、とも思う。


 肝心の着物は、言うまでもなかった。藍色を下地にヨルガオの花柄。すらっとしたシルエットが際立つ。月光放つ満月のようだった。


「で、どう?」


 ゆっくりと品評を纏めようとして急かされた。だから、咄嗟に出てきたのは、


「少なくとも、か、可愛くなくはない」

「素直じゃないわね、まったく」


 その通りだった。ぶわっと顔が熱くなる。


「だって、素直に褒めるなんて癪じゃないか」

「そういう拗らせたところ、君らしい」

「ほとんど赤の他人のくせに、何で分かったような口振りなんだよ」

「私の観察眼を舐めないでほしいな」

「知らないけど」

「……人を観察していないと、余計なことで軋轢生んじゃうでしょう?」


 なるほど。彼女だからこそ身についた処世術のようなものか。裏を返せば深掘りすべきでない話。


 こういうとき、上手い返しが分からない。人と会話して慣れておかないとずっと気まずいままだ。水瀬と話していると現実を痛感してしまう。


 いい加減、僕も変わらなくてはいけないのかもしれない。


「黙らないで。私が切り出した話なんだから」

「そりゃ、そうだけど」

「それよりもさ、林檎飴食べに行かない? 私の奢り」

「おいおい、貸しでも作るのか? 水瀬が引っ越しちゃうんじゃ、返せない」

「むしろ、借りを返すんだけどね」


 手を引かれた。思いもよらぬ、不可抗力で躓きそうになる。履いたサンダルの隙間が砂を噛む。構わず彼女は人の渦に飛び込んでいく。柯氏なんか作っていない。だからその手は離してもいい。


 離してしまえよ、離してくれよ。勘違いさせるな。どうせお前は、夏が終わる頃にはここにいないんだから。そうだろう、水瀬。


 その借りとやら、ふんだくってしまえよ。


 まるで泡沫だった。深海から湧き出る気泡。その不揃いな球粒は水面に浮かび宙に溶ける。


 水圧に逆らうことなく。

 時を止めなければ終わってしまう刹那。


「……もうじき、私はこの街から出ていくからせめて最後の祭りを楽しみたかった。ただそれだけの私の願いを叶えたのは他でもない君よ、草薙君」

「赤の他人だよ。お前に立った今、初めて名字で呼ばれたくらいに」

「じゃあ、……ありがとう湊君」


 頭が真っ白だった。


「意趣返し、かよ」


 無意識に彼女の手を振り解いていた。

 真夏の熱に浮かされている。夏が終われば醒めてしまう夢。冷めてしまう、微熱。


「勝負服をなかなか褒めなかったから、仕返し。どう、惚れちゃっ――」


「おーっ! 水瀬じゃーん!」


 背後から水瀬を呼ぶ声があった。


 振り向く。強張った顔の彼女の後ろ、クラス社会から一歩身を引いている僕でさえ聞き覚えのある声。嫌でも毎日耳に入ってくる、鼻につくノイズ。弱者を脅かす、強者の足音がぞろぞろと。


 水瀬の首がぎこちなく、後ろへと向いた。

 クラスの水瀬が目覚める。


「あっ、火野さん……」


 水瀬がつるんでいる四人組だ。先陣を切るのが、カースト最上位の女王。確か名前は、火野あきら。


 火野の存在に委縮し、本来の水瀬はどこへやら。仮面を被った彼女からは僕に向けるような強気の雰囲気が失われている。


「ってか、どーしてウチらの誘い断ったん?」

「い、いや……それは……」

「――先客がいたからに決まっているだろ」


 水瀬の頼りなさを痛感して、助け船を出すことにした。下心はほんの少しだけ。林檎飴とあと何か奢ってくれればいい。奢らなくてもいいけれど。


 ……貸し借りは置いておこう。僕はただ居ても立っても居られなかったから水瀬を遮って前に出ただけだ。どうせ失う友達はいない。


「は? 誰だよ、オマエ。水瀬のカレ?」

「じゃねーよ。お前は男と女が一緒に歩いているだけで恋人認定しちゃう頭お花畑かよ」


 だとしたら火野。お前は阿婆擦れだ。内心でくつくつ嘲笑っていると唐突に胸倉を掴まれた。後ろで構えていた男たちのうち、一番屈強な奴に迫られる。


「喧嘩っ早いのは嫌いだ僕は。力強くないし」


 にしても、水瀬の彼氏なんてあり得ないな。うん、あり得ない。絶対に。この表裏乖離女の相手をしなきゃいけないなんて御免だ御免、うん、御免。きっと、御免。


「でも水瀬チャン、イメチェンしてるじゃーん。芋っぽくないー」


 火野に呼応するように三人の男たちがケタケタケタケタ嘲笑う。褒めているんじゃない、貶しているんだ。侮蔑を孕んだ視線。


 掴まれていた胸倉を振り下ろされ、僕はアスファルトに尻を打って転がる。着物姿の彼女の背中が小さく見えた。


 水瀬は。

 唇を噛み締めて俯いてしまった。


「……ごめん」

「おいおい。その謝罪は誰に対してだよ」


 火野たちへのものだったなら、今すぐ水瀬を置いて帰ってやる。

 彼女は俯き、震えていた。


「当然、君へのものだよ、湊君」

「名前呼び気に入ったのかよ」

「さあね」


 震えながらも、口元を緩ませた。

 立ち上がるとすぐに彼女は僕のシャツの裾をきゅっと握ってきた。

 まだ、弱弱しい。甘ったれている。


「僕を支えにしなきゃ立てないんじゃ、何も解決しないぞ」


 僕は。


 水瀬の手を握った。そして、ぐい、と前へと引っ張った。たどたどしい下駄の足音がカランと、前へと踏み出す。


「……ぁっ」


 火野と一騎打ちになる。


「言いたいことは明日言うな、今すぐ吐き出せ。お前にできるのはただそれだけなんだからさ。胸張れよ」

「ってか何カッコつけたポエム吐いてるんだし、キモッ」


 火野にゴミを見るような目で見られるが些事だ。そもそもお前に向けた言葉じゃない。


 水瀬が。俯いていた水瀬がくい、と首を挙げる。正面を見据える。


「ありがと、湊君。ちょっとは救われた」

「盛大に救われていろ、毒舌女」


 彼女は、僕の腕を振り解いた。着物の裾が戦旗のようにはためいた。


「へぇ、水瀬。言いたいことあるんだ。行ってみなよ。口答えしてみなよ、一言くらいさあ!」


 あからさまな火野の威圧。ずいずいと大股で迫り、水瀬を睨む。

 猫に襲われる鼠の構図だ。


「……ははつ、やっぱり言えないってね。だと思ったよ水瀬。やっぱり、オマエはウチのもの。と・も・だ」

「――友達なんかじゃない」


 導火線に火が付いた。夏夜空に爽快な風。追い風。炎が燃え広がるには充分だった。


「ねえ、火野さん。友達って何なのか知ってる? 知らないよね、知っていたら今頃私たちは友達じゃないもの」


 一歩、前へ。


「友達の定義とかさ、私にはよく分からないけど少なくとも今まで私は君たちを友達だと認めた憶えはない」

「な、なにマジになってるんだし……。詰まらねー、しやめない? ねえ、水瀬」

「友達面被ってんじゃねーよ!」


 二歩、三歩、四歩。

 火野が身を反らす。


 水瀬は歩みを止めなかった。崩した威圧的な言葉で彼女の友達だった四人組は一瞬だけ動揺する。


「そう、君たちのそれは友達面だよ。仮面だよ。私に仮面を被せて集団で言葉のリンチ。ねえ、楽しかった? さぞかし楽しいでしょうね。嬉しくもなんともないのだけれど、私は君たちの前じゃ仮面を被ることしかできなかった。強要されたのと同義よ。クラス社会の頂点にたった風体を装って搾取、搾取、搾取。私がいなきゃ他の人間を的にしていたのかもしれないわね。そしたらきっと今の私は手を差し伸べられない。だって弱いんだもの、そこにいる湊君よりもずっとずっと弱い。中途半端に中途半端な関係を続けたのが仇だったわね。汚点、そう、一七年の人生の汚点よ」


 言い切った。言い切って、次の瞬間。

 乾いた音が水瀬の頬を叩いて、跳ねた。


「言わせとけばあーだこーだうるさいんだよ、水瀬。調子に乗るんじゃねえっての! これでウチらの友情はおしまいだ。せいぜい後悔するが――」


 ぱしん、と。負け犬の遠吠えが言い切られるよりも前に水瀬の右手が火野の頬を勢い良く叩いた。火野はまだ手加減というか一種の余裕が感じられたが、そんな妥協は一切許さない。渾身の平手打ちが炸裂する。


 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ垣間見えた殴られる火野の顔の不細工さには胸のうちからわだかまりが晴れていく爽快感を感じた。


「さようなら、火野さんと不愉快な仲間たち」


 せめて私の知らないところで、お元気に。


 夏が、始まる。


 僕は水瀬の手を引いた。頃合いだった。祭囃子の中に逃げ込む。二人の正体を撹拌する。


 走って走って、走った。脇目も振らず、人と人の間を縫うように。

 握った手と手の温もりだけを頼りにして。


 結局、商店街の端から端まで渡りきった。水瀬が「いたっ」と声を漏らしたところで逃避行は終了する。足元を見れば、下駄の鼻緒が切れている。


「湊君、また仮が増えちゃうんだけど」

「……おんぶしろ、って?」

「いつか返すから」

「別に」


 期待なんかさせなくていい。


「……いつかでいいよ、いつかで」


 そのいつかが来なくても、別に何ともない。

 夏にうなされたせいだから。



 夏の始まり。背負った彼女の肢体は蝉の抜け殻よりも軽く感じた。

 三年経っても憶えている。


 夏はその日、始まった。

 彼女はその日、僕の前から姿を消した。


 柳の下にポッと出る、幽霊みたいな奴だった。

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