海の向こう側

日崎アユム/丹羽夏子

海の向こう側




 彼はいつも海を見ている。

 彼はいつも海の向こう側のふるさとを見ている。




「こんにちは」


 わたしの姿を見つけると、彼はそう言って優しく笑った。綺麗な帝国語の挨拶だった。


「お仕事ですか」


 わたしは首を横に振った。それから、彼に微笑み返した。


「毎日ここにいますね」


 わたしのそんな言葉に、彼が小さく苦笑する。


「他にすることがなくて」




 彼は海の向こう側から来た人だ。まだ若い男の人。透けるように白い肌とまっすぐの黒い髪をしている。学校の帝国語の先生よりもきれいな帝国語を話す。そして、毎日浜辺に来ては、海や空を眺めている。


 わたしは彼についてそれくらいしか知らない。


 わたしは島の娘たちの中で一番帝国語が得意だ。彼の話す言葉の大抵を理解することができる。彼がわたしの帝国語を褒めてくれるくらいには話すこともできる。


 けれど、わたしは尋ねられない。どんな単語を使ってどう発音すればいいのか知っているけれど、わたしは尋ねられない。

 あなたはなぜ島に来たのですか。そして、あなたはいつまで島にいるのですか。

 尋ねられない。




「本当は僕も君たちの言葉を覚えたい」


 彼はそう言って石段に腰をかけた。わたしもその隣に座った。


「けれど、島の人々は皆僕を見ると逃げていってしまう」


 彼の白い顔は沈み行く日の光で赤く染まっていた。


 わたしは彼の顔から視線を外して、真正面を向いた。

 そこでは、空と海の境が見えた。空には朱や紫の光で染まった雲が流れており、海もまた光を弾いて橙に輝いている。

 わたしにとってはもう見慣れている何の変哲もないこの景色を、彼はよく、とても美しいと言う。


 いつの日のことだったか、彼は生まれ故郷のことをほんの少しだけ話してくれたことがある。

 彼の生まれたところには、山しかなかったのだそうだ。幼い頃母と出掛けてようやく見ることができた海の浜辺は、どうやら岩だらけだったらしい。

 この海は島の宝ですねと、彼はそう言って笑っていた。この島に生まれ育ったわたしからしたら、海のない世界がこの世に存在するということが、少しおかしかった。


「島の子供は僕を怖がるようです」


 わたしは再び彼の方を向いた。

 不思議なことに、彼はやはり微笑んでいた。

 子供に怖がられることはけして嬉しいことではないのに、そんな話をする時でも、彼は優しく笑んでいる。

 彼はいつでも笑んでいる。


「君は、僕が怖くないのかな」


 わたしは首を横に振った。それからそっと目を閉じ、頭の中で今の言葉への返事を探した。


「あなたはとても、優しい人です」


 いつも微笑んでいる人、時折島のことを褒めてくれる人――悪い人であるはずがない。


「だから、怖くありません」


 彼はまた、苦笑した。そうして、何も言わなかった。




 島の人は皆彼を良く言わない。具体的なことは誰にも分かっていないようだけれど、彼は本土で罪を犯したから元いた場所にいられなくなってしまった、という噂が流れている。


 わたしは、彼と初めて出会った時、そんな噂が流れていることを知らなかった。それを知ったのはつい最近のことだ。


 わたしの知っている本土から来た人というのは、とても乱暴で傲慢だ。いつも忙しそうにしていて、忙しく働く自分たちを偉いと思っている。島の生活を嫌って、島の人々を疎んじている。


 けれど、その本土の人であるはずの彼は、毎日浜辺に来ていて、何もせずただ空と海を眺めている。


 おかしな人だと思った。それで、ついつい話しかけてしまったのだ。


 彼は最初からいつも優しかった。ずっと笑顔でいて、きれいな帝国語をゆっくりと話してくれた。わたしの帝国語の発音も、少しだけ直してくれた。最後に、海を綺麗だと言った。そうして、わたしに本土の人でも優しい人はいるのだと教えてくれた。


 わたしに、彼にまた会いたいと思わせてくれた。


 彼は島ですることがないのだと言う。だから毎日とても綺麗な海と空を眺めに来ているのだ、と語った。

 わたしはそれに付き合う。一人では彼が退屈だろうと思って、生まれた時から見てきた海と空を彼と一緒に眺める。


 時々、彼と話をする。でも、島の住民、島の生活、島の信仰、島の伝説――島のことばかりで、彼についての話は、ごくごくまれにしかしてくれない。だから、彼が本土でどんなことをしてきたのか、まったく分からない。

 わたしは、彼を噂通りの恐ろしい罪人だとは思わない。けれど、噂の中の、何か事情があって本土にいられなくなったのだという部分は、本当なのだと信じている。だから彼は本土の話をしたくないのだと、わたしは思っている。

 とても優しい人だから、誰かに騙されてしまったのかもしれない。それで身の回りで何か恐ろしいことが起こって、濡れ衣を着せられて本土にいられなくなったのかもしれない。本土から来たわりにはのんびりし過ぎている彼だ。本土のせわしない空気が合わないのかもしれなかった。




 今日もまた、彼は海に来ていた。海に来て、海と空を眺めていた。


「こんにちは」


 今日はわたしから挨拶をした。彼が振り向き、笑顔を作った。


「こんにちは」


 わたしはこの瞬間が嬉しい。彼と帝国語でやり取りしている。その一瞬一瞬がわたしは嬉しい。


 わたしはつい、思ってしまう。


 彼はこのままずっと島にいないだろうか。ずっと島にいて、島の人にならないだろうか。

 わたしの父がしているように漁でもすればいい。あるいは畑を作ってもいい。本土の人のように窮屈な着物を着て役所に勤めることはない。向こうのことなど全部忘れて、この島でのどかに暮らしてほしい。

 そうして、わたしを娶ればいい。わたしは彼の子供をたくさん産むことだろう。わたしは彼のように白くて綺麗な子が欲しい。


 ずっと彼といたい。


 こんな気持ちを、本土の娘はどうやって伝えるのだろう。


「今日も何事もなく太陽が沈んでいきますね」


 彼が言った。わたしは頷いた。毎日これの繰り返しだ。少し退屈だと思うこともあるけれど、せっかちな本土の人たちに追い立てられて暮らしていた頃より、ずっとずっと良い。


「今頃、国も落ち着いてきているのかな。復興は順調に進んでいるのかな。食べ物が行き渡っていればいいけれど……」


 わたしは驚いて彼を見た。彼が本土をそんな風に気にかけているとは思わなかった。きっと自分を追い出した本土を良く思っていないに違いないと、勝手にそう思っていたのだ。


「気になりますか」


 尋ねたら、彼はまたもや苦笑した。


「気にならないと言ったら、嘘になる」


 海を見つめて――海の向こう側を見つめて、


「国がどうなっているのか、誰も教えてくれない……」


 彼はそう呟いて黙った。




 彼に本土のことを考えてほしくなかった。彼に酷い仕打ちをしたのだろう本土のことなど忘れてほしかった。彼に本土に帰りたいとは思ってほしくなかった。


 彼がもしも本土に帰りたいと言ったらどうしよう。

 嫌だった。怖かった。

 海を渡られてしまったら、きっと二度と会えない。小さな島で出会った娘のことなど、きっとすぐに忘れてしまう。

 わたしのことを忘れてほしくない。よく働く白い娘を妻に迎えてほしくない。この島でわたしと暮らしてほしい。


 島の人たちに避けられてもいい。島の人たちに蔑まれてもいい。本土の男に身を売ったと言われても構わない。わたしだけが知っている、彼はとても優しくて誠実な人だということを――それだけでいい。


 彼に愛されたい。彼に抱かれたい。今すぐにでも彼と一緒になりたい。




 わたしは今日、いつもより早く海に来た。あまり日の高いうちに家の外に出るのはつらかったが、それでも彼はもう海にいるのではと思って、急いで海に来た。


 案の定、彼は海にいた。そうして、今日は空を見上げていた。


「こんにちは」


 わたしが言ったら、彼は振り向いた。それから、いつものように微笑んだ。


「こんにちは。今日は早いですね」

「急いで来ました」

「なぜ」


 どうしてそんなことを尋ねてくるのだろう。あなたに会いたかったからに決まっている。

 年頃の若い娘が来る日も来る日も一人の男のためにひと気のない浜辺に通っているということに、彼は気づいていないのだろうか。

 これ以上の時はかけられなかった。一刻も早く彼に本土を忘れさせなければならない。


 昨日一晩中考えた言葉を、彼に伝えようと思った。大きく息を吸った。


 けれど、彼は再び空を見上げて目を細めた。


 その時、彼は笑っていなかった。


「見て。大きな鳥」


 彼に言われるがまま、空を見上げた。

 確かに、海鳥が飛んでいた。よく見る鳥なのでわたしは何にも気にならなかったが、彼にとっては珍しいのだろうか。


 そう思ったのに、


「あの鳥は、どこまで行くのかな」


 嫌だった。

 本土までとは、考えてほしくなかった。


「風と共に海を渡って」


 その続きを言ってほしくなかった。


「僕の――」

「お嫁に貰ってください」


 たくさん考えたのに、焦ってそんな言葉から口に出してしまった。はしたない娘だと思われるだろうか。

 けれど止めなかった。

 どんな順番でもいいから、全部言わなければならない。とにかく、彼に続きを言わせてはならない。


「わたしと島で暮らしてください。島の人間になってください。わたしがずっとあなたと一緒にいます」


 得意であるはずの帝国語が、今に限ってうまく出てこない。胸の中が苦しい。どこかで声が詰まっているような気がする。

 それでも、吐き出すようにむりやり言葉をつなげた。苦しさで涙が溢れた。空の青と海の碧が滲んで、私の視界で溶け合った。


「あなたを愛しています。わたしと島で暮らしてください」


 零れ落ちる涙の雫の向こうで、ぼやけた彼の困った顔が見える。

 そんな顔はしてほしくない。いつものように笑ってほしい。


「それは、できない」


 嫌だった。聞きたくなかった。


「僕は、島の人間には、なれない」

「なぜ」


 苦しかった。


「いつかは、国に帰るから……」


 一番言ってほしくなかった言葉が出た。それだけで立っていられなくなりそうな気がした。膝はすでに震えていた。

 どんなことをしてでも、彼と共にいたかった。


「それでしたらわたしも連れていってください。わたしは帝国語を話せます。たくさん働きます」


 とうとう膝が体を支えてくれなくなった。膝が砂浜に落ちた。

 そんなわたしの腕を、近づいてきた彼がそっとつかんでくれた。

 それが、彼がわたしに触れた最初で最後だった。


「それも、できない。……大丈夫かな」


 微笑んでくれた。あんなに見ていたいと思った彼の笑顔が、今日のこの瞬間だけは嬉しくなかった。


「それならば」


 自分が無茶苦茶なことを言っているのも分かっていた。分かっていたけれど止められなかった。彼の笑顔を嬉しい気持ちで見たかった。そのためには、どうしても彼に頷いてもらわなければならなかった。


「いつ帰りますか。帰るまでであればいいでしょう」

「そういうことは言ってはいけない」


 強い語調ではあるものの、それでもどこか優しい。


「君は女の子なのだから。島の優しい男の人と一緒になって、大事にされて幸せになりなさい」

「あなたといた方がきっと幸せです」

「それはない。それは、絶対にない」


 腕を握る手が、痛い。


「だって、僕は今すぐにでも国に帰りたい。国に帰ったところで母も戦友たちもとっくに死んでいることは分かっている。国賊として処刑される可能性だってある。それでも、この島で静かに朽ちるのを待つくらいだったら、僕は今すぐ僕の愛する祖国で潔く果てたい……!」


 彼の後ろで、空と海が光っているように見えた。

 鳥が飛んでいく。風と共に海を渡り、海の向こう側の国へと――彼の愛するふるさとへと。


「だから、さようなら」


 空と海が輝いていた。




 次の日から、彼は浜辺へ来なくなった。

 それでも波は、寄せては返し、寄せては返し、静かにうねり続けている。






 わたしは彼の褒めてくれた島の空と海を愛している。

 それから、信じている。この海は、この空は、彼の国へとつながっている、と。


 海は光に満ちている。いつでも。




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