第9話 戦いへの出場通知、そして――


 それはあまりにも唐突に、そして、まるですぐそこにある日常のような顔をしてやってきた。


 構内の桜のほとんどが散りつつあった四月の半ば、僕はスタッフ部屋で投稿前の論文の英文校正をお願いするために、業者からメールで受けとった見積書をプリントアウトしていた。

 デスクの上で不意にガーガーと音を立てて揺れたスマートフォンを取ると、03から始まる知らない番号が表示されている。何だろうと取ると、東都大学人事支援課を名乗った電話先の男は、まるで自動音声のように淡々と話し始める。


「――――藤山タカユキさんの携帯電話で間違いありませんね?」

「え、ええ。はい、そうです」

「ご応募いただいた『東都大学医科学研究所細胞生物学講座 教員』にかかる公募の件でお電話差し上げました。

 先日、教員選考委員会による書類審査があり、藤山様がされました。詳細については後程、選考書類にかかれていました電子メールアドレス宛にお送りしますが、まずは二次試験である面接試験の日程について、藤山様のご都合をこのお電話にてお聞きしたいと思っています」


 一瞬何のことかわからなくなり、言葉がでなかった。新見先生の言っていた二週間を少し過ぎていて、僕はもう勝手に書類選考で落ちたものだとばかり思っていて、「あっ、はいッ!」と何のことかよくわからない返事をしてしまう。


「……ありがとうございます。それではこちらの都合で恐縮ですが、他の候補者の方たちの日程も鑑みまして、4月22日の月曜日のご都合はいかがでしょうか?」

 その日は予定されている実験が少しあるが、どれもスケジュール変更可能なものばかりのはずだ。僕は「大丈夫です! 今のところ予定はありません」と、答える。


「そうですか。では、この日を候補日として調整してみますので、詳細につきましては、先ほど申し上げましたように、電子メールにてやりとりをさせて下さい。

 また、本学の面接試験につきましては、本学の旅費規程に沿って旅費が支給されますので、こちらにつきましても書式をお送りします。それでは失礼します」


 電話先の相手は、最後まで淡々と調子を崩すことなく話を終える。僕はまだその出来事に脳がついて行けてなくて、『通話終了』と表示されているスマートフォンをじっとながめていた。


 少し時間をおいてから、ふつふつと自分の中から喜びが湧き上がってくる。



「……ッ!! やったッ!! 書類選考突破だ!!」


 思いっきりスマフォを握りしめたまま身体にぐっと力を入れ、叫ぶ。隣のD2(博士課程二年)の学生が「うわッ、何ですか急に!?」と驚いている。僕はそんなことをおかまいなしに、今度は天井に向かって両手を突き上げて、「よっしゃーー!!」と叫ぶ。

 でも、今度はさっきの男子学生とは反対側の学生が、「……ちょっと! フジさん、後ろ」と小声で、僕の後ろの方を指している。僕はハッとなって、すぐに後ろを振り返るとスタッフ部屋の中央のテーブルを挟んで、反対側のデスクに休暇から帰って来た中村が座っていた。

 僕は慌てて何か言葉をかけようとしたのだけど、中村が困ったような笑顔のまま、一言、「藤山君、おめでとう」と先に口を開いたせいで、僕は「ありがとう」としか言えなくなってしまった。


 あれから、僕はまだ中村にいつも通りに話せていない。


 きっと中村のなかでも、まだきちんと整理できているわけではないだろうに、それでも「おめでとう」と言える彼女の"強さ"のようなものを垣間見た気がして、新見先生の言っていたことが本当だったなと改めて感じていた。



 その日の午後に送られてきた面接試験の詳細を告げるメールをプリントアウトして、斎田教授と新見先生に報告する。二人とも、特に新見先生は自分のことのように喜んでくれて、ばんばんと背中を叩いてきた。加減を知らない新見先生の激励に「ちょ、ちょっと本当に痛いです」と言って逃げたのだけど、僕の二次面接への出場切符にこんなに喜んでくれる二人を見て、僕はやっと自分のことを認められたような気がして、本当はとても――とても嬉しかったんだ。


 その日の夜は、どこで聞きつけたのかわからないが、佐藤が同じ学科の歳の近いポスドクたちと一緒に「お祝いだ」とアパートに押しかけて来た。

 ただ理由をつけて酒を飲みたいだけなのは明らかだったけど、それでも僕の面接通知を見ると「こうやって来るものなのか」と感心して、その後で「どんなことを聞かれるんだろうか」とか「藤山の説明は少し長くなりがちだから、気をつけたほうがいい」だとか、真面目に議論して夜が更けていく。次の日も佐藤は部屋に来てくれて、僕の面接用プレゼンに他分野から見た意見をいくつも言ってくれた。



 そうやって一日、一日と僕は準備を重ねて、ついに――――4月22日 月曜日、その日がやってきた。




   『戦いへの出場通知、そして――――』




 地下鉄の最寄り駅で降りて、地上に向かって階段を上ると雨に濡れたアスファルトの匂いがする。たぶんこの駅自体は一度、何かの研究会かセミナーで来たことがあったはずなのだけど、目に飛び込んで来た景色の何一つを覚えていなくて、僕は急に佐藤の言った言葉を思い出していた。


『――それはな、"恐怖"だよ。知らない街、知らない大学、知らない相手。そんな聴衆の前に立って、自分を、自分のこれまでの研究を売り込むんだ。そこにさ、とても言葉に出来ないような、足が震えるような、どでかい恐怖が立ちはだかってるんだよ』


 佐藤の言う通り、地下鉄の駅から住宅街の細い道に入っていくにつれて、一歩、また一歩と近づくにつれて、まったく知らないこの街の景色自体がまるで自分を拒んでいるのではないかと錯覚してしまうほどに、どんどんと重くのしかかってくる。



 ――――駄目だ。立ち止まったら。


 今、立ち止まったら、上手く歩けなくなってしまう。「自分より業績のある人間が何人も呼ばれているんじゃないか」とか、「こんな都会のど真ん中の有名研究室に自分が採用されるわけがない」とか、余計なことばかり考えてしまう。


 歩け。歩いて、歩いて、歩いて、早く控室までたどりつかないと。不安とプレッシャーで動けなくなる前に。


 そう自分に言い聞かせながら、その細い路地を進んでいく。たいした距離でも、坂道があるわけでもないのに、心臓が早鐘のように鳴って息が苦しくなる。


 それでもやっとの思いで『面接試験候補者控室』と書かれた部屋にたどり着くと、そこにはあの淡々としゃべる事務員がいて、「藤山さん、ですね? 旅費の書類はお持ちいただけましたか?」と声をかけてくる。

 事務員から面接の段取りと注意事項を説明され、旅費の書類を提出し、事前に持ってくるように言われていた印鑑を二か所押印する。


「……これで旅費の手続きは完了です。時間通りであれば先ほど、前の候補者の面接は終わったはずですが、候補者同士が出会わないように時間を設定していますので、係のものが呼びに来るまで、あと5分ほどこの部屋でお待ちください」


 僕には、その5分がまるで一生続くかのように長く、長く感じる。さっき、地下鉄の駅からこの控室までにかかった時間よりもはるかに長く。そして、僕はさっきと同じようなことを、ぐるぐると、何度もぐるぐると考えていた。心臓の音ががこんなにもうるさく感じるとは思ってもみなかった。



「えっと、次の候補者の方……藤山、藤山タカユキさん。では、会場へどうぞ」


 突然何の前触れもなく開いたドアから、若いスーツ姿の男が入ってきて、その"戦いの開始"を告げる。僕は緊張したまま立ち上がり、その男の誘導にしたがって控室の出口に向かう。

「……落ち着いて。頑張ってください」

 やっぱり淡々とそういう事務員の言葉に、少しだけ心が軽くなったような気がする。僕は会場の前で一呼吸、深く息を吸ってから長く吐いて、扉を開け、中に入る。



「次の候補者、横浜工業大学院理工学研究科・博士研究員の藤山タカユキさんです。それでは、藤山さん演台へ」

 スーツ姿の若い男に誘導されて、部屋の奥にある演台に移動する。スライドが見やすいように薄暗くしてある部屋の前の方に手元に資料を持った男女七人が座っていて、おそらく彼らが選考委員なのだとわかる。その中には、この公募を行った吉田先生の姿もあった。その後ろの席には、おそらく学生であろう若い人や、それよりも少し年長の人など、二十名ほどが着席している。


 その全員が、僕が演台に立つとさっきまでしていた私語を一切やめて、真剣な目つきで僕とその横に広がるスクリーンを凝視する。僕は、これが『まったく知らない人間相手に、自分の研究を好きになってもらい、ポジションを勝ち取る』ための戦場の雰囲気なんだとすぐに肌で感じた。生唾を飲み込んで、もう一度、息を整えてから、僕はその戦いを始める。


「藤山タカユキです。よろしくお願いします。それでは始めます。

 私たち生物の身体を作っている器官や臓器、あるいはもっと小さな機能的細胞集団は、それらを構成するものは同じ細胞というものでありながら、それぞれの部位や集団に特徴的な機能を持っています。これらは実際には――――」


 僕はあの模擬面接以降も佐藤たちの意見を聞きながら作りこんできたスライドを一枚、また一枚と説明していく。


 大丈夫。


 それぞれのスライドに載っているグラフや図は、その何倍ものバックデータによって裏付けられている。そして、そのデータの一つ一つが、僕が自信をもってここで"戦える"根拠になっているはずだから――そう、自分に言い聞かせながら。



「……それでは、質疑応答を始めて下さい」

 僕のプレゼンが終わると、あの若いスーツ姿がマイクを持ってそう言う。少しだけ間が空いてから、手が挙がる。


「一つ、よろしいですか? 実験の結果はとてもきれいに出ていて面白く聞かせていただきました。しかし、あなたの言う『遺伝子欠損』という言葉に少し違和感を覚えています。あなたの研究チームはゲノム編集技術を使って、領域特異的な発現をする遺伝子群を網羅的に欠損させ解析するという研究コンセプトですが、スライドに出されていた例ですと、gRNA は一遺伝子につき一種類しか設計されていないように見えました。これで確実に『遺伝子欠損』された、と言えるのでしょうか?」


 四十代くらいの会場の前方に座っていた女性が質問する。


「ええ、ご指摘の点は以前からも同様の論文で指摘されていました。ですので、私たちの研究チームでは確実にノックアウトされたという証拠をゲノムのシークエンスだけではなく、mRNAレベル、タンパク質レベルで確認しています」


 僕がそう答えると、その教員は続けざまに次の質問をしてくる。


「うーん……しかし、それだと欠損部位の後の開始コドンからたまたま一次抗体のエピトープ部分がスキップされたようなタンパク質が発現されてしまった場合は、わからないのでは? ……まぁこれは一般的にも言える課題ですし、現段階で聞いても仕方ないですね。あと、マウス個体での検証が少ないのも気になるのですが、その点についてはどうお考えですか?」


「はい、その点につきましては私も同じく問題だと思っています。ですが、現状、所属の横浜工業大学では動物施設に限界があり、これ以上の解析は難しいのも事実です。ですので、動物個体での解析を精力的に行っている東都大学医科学研究所細胞生物学講座でさらなる検討ができればと考えています」


 これは佐藤が指摘してくれた想定していた質問で、僕は言葉に力を込めて返す。それからいくつも手が挙がり、技術的なものや研究コンセプトについての質問が続く。その一つ一つの質問すべてが、まるでに感じるような、重苦しく厳しいものだった。



「最後に私からもよろしいですか?」


 司会の事務員が面接の終了を告げようとしていた頃に、それまで黙っていた吉田先生が手を挙げる。事務員は「時間が押しておりますので、手短にお願いします」と吉田先生にマイクを渡す。


「"先生"のご研究は他の網羅的解析研究と同じですが、先に分子にターゲットが合ってそれが偏在している場所での現象に当てはめていくという『分子ドリブン』ですが、私どもの研究室はどちらかというと、先に解き明かしたい生物現象があって、それについての分子メカニズムを調べる……言い換えれば、特定の分子そのものにはあまりこだわらないような『現象ドリブン』です。この研究スタイルの違いをどのようにすれば埋められるとお考えですか?」


 吉田先生の質問は、"研究対象をどちら側から見ているか"というものに近い、一見すれば「そんなのどちらでもいいでしょ」と言ってしまえるような質問だったのだけど、その優しそうな目の奥でぎらりと僕のことを倒してやろうというような気迫を感じて、これは真剣に答えないといけない質問だと理解した。


「はい、そのスタイルの違いは先生の研究室の研究内容を調べている際にも感じました。すぐに研究スタイルが変えられるのか、というご質問についてはやってみないとわからない部分もあります。しかし、研究ツールとしての分子生物学的手法や細胞生物学的手法については、私のこれまでの経験を活かすことができるのではないかと感じています。

 例えば、ある現象が起こる前後の部位について、マイクロダイセクションを行い、その中で起こっている因子の動きを網羅的に解析する――この場合において、私がこれまでに培ってきた実験技術で、先生の研究室に貢献できると考えています」


 僕の答えを聞いて、一瞬、吉田先生が笑ったような気がした。


「……先生、英語は?」

「あの、吉田先生。お時間が……」

 吉田先生の追加の質問を、事務員が遮る。それでも「留学生の実験指導程度ですが」と僕が答えると、もう一度にやりと笑って、事務員に「わかった、わかった」と言いながら再び席に座った。



 こうやって、僕の初めての教員公募面接という戦いが終った。


 終わってしまえば、たった1時間半のそれほど長いというわけでもない面接試験だったのだけど、面接会場を出た僕には丸一日戦い続けたかのようにどっと疲れが押し寄せてきた。でも、それはどこか心地よい疲れで、このままこの疲れに身を委ねたまま帰ろうと――――そう思っていた。



 でも、僕にはそうすることはできなかった。


 全身から一気に汗が噴き出していくのが、目がそれをとらえて離さないのが、かすかに自分の身体が震えているのがわかる。それは、たぶん僕の面接の時間が押したせいでそうなったのであろう。僕がこの建物から出ていく前に、次の候補者が控室から会場に向かうところに遭遇してしまったのだ。



 ――――あの、





 5月の連休が明けた頃、アパートの郵便受けに一通の長細い封筒が届いた。そこには東都大学医科学研究所と書かれていて、中にはA4の紙が一枚、折りたたまれてはいっていた。


 そこには「お祈り」の言葉と、僕の不採用を告げる文章が並んでいて、こうして、僕の初めての戦いは惨敗に終わった。



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