第11話 憧れから逃げずに、その一歩先に踏み出せ


 もう9月だというのに、伊豆にはまだ夏の暑さが残っていて、建物の外に出ると何もしなくてもじんわりと汗が滲んでくる。チェックインの時にフロントの係の人が言っていた「夜は少し冷えることもありますので」というのが、本当なのかと疑いたいくらいだった。



 僕は教員公募で落ちた東都大学医科学研究所細胞生物学講座・吉田先生が主催している会議に参加していた。

 この会議は吉田先生をプロジェクトリーダーとした研究班に交付されている大型研究費プロジェクトの成果報告会という位置づけで、吉田先生の研究室、分担研究者になっている斎田先生やいくつかの大学・研究機関の先生たちとその研究室のメンバー、それに研究費を交付している政府機関から来賓が数名参加している。


 午前中に会場のホテルにチェックインをすませて、最初のプログラムが始まる前、吉田先生に挨拶に行くと、「のことを採用できなくて申し訳ない」と短いながらも丁寧に謝られたのだけれど、それはそれでせっかく癒えつつあった僕の心をぐっと締め付けた。


 今日は吉田先生の研究プロジェクトの現在の状況説明と来賓の挨拶、昼食会がすでに済んでいて、15分の休憩後に特別講演、その後、夕方からは僕も発表するポスター発表がある。その後で夕食会、二日目は各研究班の口頭発表があって昼食を食べてから記念撮影をして散会……という日程になっている。


 老舗ホテルらしいそこそこ豪華な昼食だったというのに、僕はほとんど食べないまま中庭に飛び出し、こうしてうろうろとあてもなく歩きながら、持て余した時間を潰している。

 研究会の会場だけじゃなく、広い昼食会場ですら、ひそひそと僕と公募で受かった室戸さん、それにもう一人別の誰かの話が持ち上がっていて、居心地が悪くて飛び出してきたのだが、ホテルの周りには何かあるわけでもなく、ただぼぅっと中庭の池で優雅に泳いでいる錦鯉を見ている――というのが正しいのかもしれない。

 まだ、こんなに暑いというのに、見事に色づいた楓の葉が一枚、水面に落ちると、餌と勘違いした鯉たちがわぁっと群がっていく。その様子がまるで、『自分でも受かるかもしれない』と淡い期待を寄せて、教員公募に群がっていった僕のように思えて、何故か少し悲しくもなった。



 その瞬間――――歩道などない植え込みの木々ががさがさと音を立てて大きく動いたかと思うと、季節を間違ったかのような雪のように真っ白な顔をしたスーツ姿の女性が一人飛び出してきて、池のほとりまでやってくる。


 まるで時間が止まってしまったかのように、あたりの空気が変わっていく。


 その女性はかけていた銀縁の眼鏡を外して胸元のポケットにしまい込むと、別のポケットから取り出した鯉の餌をひとかけら、その細く透き通るように白い指でつまんで、池面に投じる。

 さっきの楓の葉と同じくバシャバシャと群がる鯉たちを見つめたまま、白い肌とは対照的な鮮やかに赤い唇が微かに動く。彼女が何と言ったのかわからないまま、僕はその艶めかしく動く唇から、ただの少しも目を離すことができないでいる。



「あっ、いた! 千夏ちなつッ!! ……ったく、またこんなところにふらっと抜け出して。金井の爺さんが探してるから帰るぞ。お前が見つからないって吉田先生にどやされて、ジジイ、申し訳なさそうに小っちゃくなっちゃってんだから」


 僕のすぐ後ろの歩道から、別の女性の声がする。振り向くとすらっとした長身のスーツ姿の女性が立っている。

 千夏と呼ばれたその雪のような女性は、そのややハスキーな声に反応して、さっきまでの無表情が嘘のように口角を上げてにっこりと笑い、ゆっくりと長身の女性に向かって歩き出す。僕は身動きができないまま、その一連の動作をじっと見ていた。まるで、別の世界の生き物が目の前を通り過ぎていくような、そんな感覚。


「……おい、アンタも研究会の参加者だろ!? もう特別講演始まるぞ、。ぼーっとしてないで、アンタも早く会場に戻れ」


 長身の女性の言葉にハッと我に返った僕は「あ、は、はい!」と慌てて会場に引き返す。会場ではすでに参加者全員が席に着いていて、僕は椅子が見つからず、端の方で立ったまま講演を聞くことになった。




 彼女の――――室戸千夏の特別講演は、もう完璧という言葉以外の感想が僕には見当たらなかった。


 あの中庭の池のほとりで見た物静かな彼女とはまったく違う、よどみなく流れるような言葉たちと、データの一つ一つが耳に、脳にしっかりと残るようなリズムや抑揚、そして何より一つの現象を多面的にとらえるために、DNA・RNAレベルの解析から、タンパク質レベルの解析、単純な遺伝子破壊ノックアウトマウスだけじゃなく、いくつものレポーターマウスを使った緻密な実験計画によって得られた重厚なデータ。そして、それに決しておごることなく、先行文献や競争相手コンペティターたちの文献データにも言及していく。


 僕はあんなに落ち込んで、やっと友人たちの言葉で持ち直したばかりだというのに、実はまだ心のどこかで『自分が受からなかったのは、運がなかっただけだ』と思っていたところが残っていて、自分の実力がなかったという現実から目を背けていたのかもしれない。


 その圧倒的な実力差を見せつけられて、僕は自分の落選の本当の意味を知る。


 すると、途端についさっきまで『運がなかっただけだ』と思い込んでいた自分が恥ずかしくなって、顔が熱くなってくる。本当はそのまま駆け出して、どこか誰もいない場所で大声で叫び出したい――質疑応答が終わって大きな拍手のなかで彼女が演台から降りても、僕はずっとそう思っていた。




「…………って、おい!! 聞いてんのか、青年ッ!!」


 またあのハスキーボイスで怒鳴られて、ハッと我に返る。僕は自分のポスターの前に立っていた。僕は慌てて「え、えっと」とその長身の女性の方に向き直る。


「だ、か、らッ! アンタの見てるこの機能未知遺伝子ってやつ、mRNAの発現とタンパクの発現が、場所も時期も少しズレてるでしょ? これはどういう意味があんのかって聞いてんの! もう三回目だぞ!」


 質問もろくに聞いていなかった僕が当然満足のいく答えを用意しているわけもなく、しどろもどろしていると、目の前の女性が「はぁ……」と隠さずに大きくため息をつく。


「……アンタ、ずっとあいつの……千夏の方見てただろ」

「い、いや、そんなことは」

 そう取り繕っても、その女性は「バレバレだよ」と、もう一度大きくため息をつく。

「…………アンタがあれだろ? 吉田先生の研究室の教員選で最終選考まで残って千夏と一騎打ちしたって斎田研のポスドク」

「えっ?」

 最終選考というのは僕自身も初耳だった。


「なんだ知らなかったのか。他にも谷先生のラボからもポスドクが応募してて……ほら、あっちの隅でポスター出してるだろ? 彼も落選。それに面接呼ばれたのが他に4人。でも、アンタについては、吉田先生が最後まで千夏とどっちを採用するか迷ったって金井の爺さんが…………あれ? これ、言っちゃダメだったのか、もしかして?」

 頭を掻きながら「まぁもう話しちゃったし」と豪快に笑うその女性につられて、僕も自然と笑ってしまう。

「お、やっと"こっちを向いた"な?」

 僕は思わず「えっ」っと聞き返す。


「アンタはさ、無意識かもしれないけど、ずっと千夏の姿追ってたんだよ。つい、さっきまで。アタシは、あいつの――千夏のプレゼン聞いた院生とか学部生とかが引き込まれ過ぎて自信失っていくのを何度も見てきたからね。何となくわかるんだ。


 ――――青年。


 アンタが千夏に"憧れ"るのは別にいいんだよ。有名なサッカー選手に憧れて、自分もプロになった人間なんていっぱいいるんだし。でもさ、そういう連中はみんなってこと、わかってるよな?」


 その人の真っすぐな黒髪が一束、かけてあった耳からするりと胸元に落ちる。髪と同じ、吸い込まれるような真っ黒な瞳がこちらをじっと見ている。その真剣な眼差しに僕は「はい」と短く返す。

「そ、アンタが今やらないといけないことは、目の前のアタシの質問に答えるってことだ!」

 そう言ってニッと笑った顔が印象的で、僕は思わず室戸さんに感じていたのとは何か違う感情で仄かに上気してしまう。


「……でも、何でそんな……」

「何でそんなこと言うのかってこと?」

 長身の女性は僕の言葉を遮って答える。


「……実はさ、『ああ、この人はアタシと同じだ』と勝手に思っちゃったんだよね。アンタは"憧れ"かもしれないけど、アタシの場合は"嫉妬"、かな…………千夏はさ、アタシの後輩なんだよ。それも実験を一から教えた本当の意味での後輩。それが今や、天下の東都大学医科学研究所の講師で、アタシはふらふらとド田舎の一年間しか任期のないポスドク。でも、アタシはその差が『きっとあいつが世渡りが上手いせいだ』とどこかで思い込んでた……ううん、そう思い込むことで"逃げてた"んだ」


 僕はまったく自分と同じことを考えている目の前の女性を、驚いたまま、言葉も出ずにじっと見つめる。


「きっとさ、アンタも同じだろ? でも、"逃げたくない"って思ったからこそ、笑われたり、陰口言われるのも覚悟して、

 ただの野次馬みたいなやつらに、千夏と比べられて、ここがダメだとか勝手な評価受けたりするのは、みじめで、恥ずかしくて、何より自分が可哀そうで……本当は今すぐ駆け出して行って大声で泣きたいくらいなんだよ、アタシだって。


 でも――――」


 その女性はもう一度ニッと笑ってから、そう続けた。


「でも、アンタがここに立ってるのを見て、『ひとりじゃない。戦っているんだ。みんなたったひとつの小さな自分のラボを勝ちとるために』って思った。だからさ、アタシにその勇気をくれた人が、ぼぅっと千夏の方見て呆けてるの、何か悔しいじゃん? だから、声を、発破をかけた。余計なお世話かもしれないけど」


「そんなことないです!」

 思わず大声を出してしまう。『僕もあなたの言葉で勇気をもらったんです』と伝えたいのに、上手く言葉が出ない。


「……青年、名前は?」

「藤山、藤山タカユキです」

「そっか。アタシは縫部ぬいべエリ。お互いとんでもない相手と戦わないといけないけど……頑張ろうな、タカユキ」

 そう言って差し出された右手を、僕はしっかりと握る。



「縫部さん、ここにいたんですか……」

 壇上の調子とは少し違うぼそぼそとした声で、室戸千夏がエリさんを呼ぶ。でも、僕はその声を発した真っ白な彼女の方に囚われることなく、しっかりとエリさんの目を見て、彼女が最初にした質問に答える。エリさんも室戸さんの方を見ずにまっすぐ僕の方を見て「よくわかりました」と告げる。


 それが終わり、エリさんは室戸さんと一緒に歩き出す。途中、一瞬だけ振り返り、またニッと笑って僕に向かってこう言ったんだ――――




   『憧れから逃げずに、その一歩先に踏み出せ』



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