第12話 異変
「藤山さん、これ……何だかわかります? 2研にある共通用のパソコンデスクの引き出しに入ってたみたいなんですけど」
十月に入ってすぐの金曜日に、そう言ってM2の学生が持ってきたそのぬいぐるみには確かに見覚えがあった。日向夏をモチーフにしたゆるキャラだったか何だったかのそれを、まだ付き合い始めたばかりの時に行った宮崎で、帰りの空港で買って手渡した記憶がある。
「ああ、それは前にいた滝澤の――――」
そう言いかけた瞬間、僕は何故だかあの日最後に見た早紀の顔を思い出す。
普段から身なりに気を遣っていた彼女が見たことないほどに乱したぼさぼさの髪、泣きあかして真っ赤になった目はそれでも鋭くこちらを睨み、怒りに震える唇は僕に向かって何と言ったんだっけ?
それともう一つ――――いつだったか、佐藤が何気なく口にした『何でわざわざこのタイミングで滝澤を解雇したんだろうな』というつぶやきが、心のどこか片隅でちくりとトゲのように刺さった気がした。
その日の晩、横浜に季節外れの台風がやってきて、僕がこの大学に来てから初めての大嵐になった。
『異変』
「おお、揺れる揺れる。怖ええ」
台風の風でガタガタと揺れるアパートの窓ガラスを見て、大男が一人、缶ビール片手にゲラゲラと笑っている。
「揺れる――じゃねぇよ。何でこんな時にうちに来るんだよ、佐藤」
半ば呆れてそう言うと、きょとんとしてから佐藤が答える。
「それは、ほら、"親友"だから」
「うそつけ……他になんか理由あるんだろ?」
僕はじろっと佐藤を見る。
「ばれたか。いや、うちの下宿がボロいの知ってるだろ? なんたって俺たちよりはるかに年上の物件だからな。それに大家も『こういう嵐のときはすぐに電気が止まるし、どっか避難してた方がいいわよ』なんて言うからさぁ。藤山のところはまだ新しかったよな……って思って」
はははと苦笑いを浮かべる佐藤を見て、僕は「何ていう理由だよ、それ」と大きくため息をついてから、自分の分の缶ビールを開ける。
「でも、"手ぶら"で来たわけじゃないんだし、いいだろ? この風の中、和田町のジンジン弁当行くの結構大変だったんだぜ?」
そう言って佐藤が指さしたテーブルの上には、カップ麺や総菜、酒のつまみの他に、懐中電灯やモバイルバッテリーなどが置かれている。この開けたばかりのビールだって佐藤が買ってきたものだったりもする。
「……まぁビールに免じて許してやるか」
「さすが! 安心しろ、俺は寝袋持参したからどこでも寝れるからな」
「なんだそれ。用意良すぎだろ」
そう言って僕が銀色の缶を手前に突き出すと、佐藤が自分のビールの缶を軽くぶつける。だいぶ真っ暗になった窓ガラスの向こう側を、降り始めた雨が強い風にあおられて激しく叩き始めていた。
「……それで、どうだったんだ? 班会議ってやつ。その、来てたんだろ? この前の公募に受かったやつも」
テレビ台の横に置いてあるデジタル時計が21:45と表示されたころ、弁当の空き箱とビール缶を片付けていると、突然、それまで馬鹿話しかしてこなかった佐藤が気を使ったような口調で尋ねてくる。そういえば、伊豆から戻ってきて以降、佐藤とこうやってじっくり話すのは初めてかもしれない。
つけっぱなしにしていたテレビからは、久しぶりに関東に上陸した台風のニュースが同じことを何度も繰り返しながら続いている。
「……どうもこうもないよ。その公募に受かった
僕は一瞬驚いて止めた洗い物を再開しながら答える。
「そっか。何か"ふっきれた"みたいで安心した」
佐藤はそう言ってニッと笑う。ひょっとしたら、こいつはまた僕が落ち込んでいるんじゃないかと元気づけるために、今日、ここに来たのかもしれない。台風を言い訳にして。そんなことを考えて、僕も「何だよ、それ」と、つられて笑う。
「実際、室戸さんの発表は、一つの現象を多面的にとらえるために、DNA・RNAレベルの解析から、タンパク質レベルの解析、生体を使った実験を組み合わせていて、その一つ一つがしっかりとしたものだった。
そして、その上で先行文献やコンペティター(競合者)のデータにも客観的に言及して、自分の研究との差異を冷静に、かつ、はっきりと示し、最後の自分の研究の結論を際立たせる……どこをとっても僕に運がなかったんじゃない、『この人だから受かったんだ』って思える内容だったよ」
「……勝てないって思ったか?」
アルコールが入り、さっきまでくだらない話ばかりしていた佐藤の顔が急に真面目な顔に変わる。それはきっと僕のことを思ってじゃなく、自分が教員公募に出るときの参考にしようとしている研究者の顔だった。
「いや。そもそも似た研究領域ではあるけど、室戸さんと僕の研究対象は同じじゃないし、『勝てない』とは全然思ってない。
前回の公募で僕に足りなかったものをまざまざと見せつけられはしたけど、足りないものは手に入れて"次回"に備えればいいだけだ。仮に、彼女ともう一度、僕の研究対象で争うことになったとしたら、今度は必ず僕が勝つ。そう思って、足りない部分を重点的に頑張ろうと思った」
そう佐藤に向けて答えながら、僕はあのポスター会場であった真っ黒な髪をした長身の女性のことを思い出していた。
圧倒的な才能を持つ天才をごく間近に見続け、その才能に嫉妬しながらも、逃げずに戦おうと決めたとても強い女性。僕がこうやって前向きに考えられるようになったのも、大部分は同じように葛藤している彼女のことを知ったおかげのように思える。
彼女が言った『憧れから逃げずに、その一歩先に踏み出せ』という言葉の意味が、少しだけ――ほんの少しだけわかったような気がした。
「ふーむ……なんか意外だったな。その室戸って人、あれだろ? 前にお前が言ってた"学会で見た超絶美人"だろ? もっと藤山はその人に『憧れ』とか『惚れてる』のかと勝手に思ってたよ」
佐藤が茶化すように肩をすくめる。
「はは、まさか。『憧れ』については、今でも少しはあるかもしれないけど……少なくとも恋愛はしばらくは無くていいや」
佐藤は「あっ」と小さく反応してから、ばつの悪そうな顔をする。
「……滝澤、今は何してんだろうな」
「さぁ……あれから何度か連絡してみたけど、一度も早紀からの返信はこないし……実家の和菓子屋を継ぐ準備をしているのだと思うけど」
しばらくの間、僕も佐藤も言葉を見つけられずに沈黙が続く。
「……あっ、藤山。携帯、鳴ってるぞ」
「本当だ……新見さんからメール? 何だろう」
突然の研究室から届いたメールに、僕は内心ほっとしていた。
――――同時刻、横浜工業大学生命工学研究科斎田研究室。
「全員にメール回しましたよ、斎田さん」
教授室でまだ何か作業をしている斎田教授に向けて、新見が声をかける。
「ありがとうございます。遅くなってしまいましたね……こんな天気ですから、気をつけて帰ってください」
「それは
新見がそう言って斎田の顔をみると、いつもよりやつれているのがわかる。
「すみませんね……本来は来週のラボミーティングや学科ミーティングで君の栄転をお祝いする予定だったのに」
斎田は笑顔を浮かべようとするが、どことなく弱弱しく感じてしまう。
「俺のことは別に……せめて、中村と藤山だけは何とかしてやりたかったですけど……」
そう言ってうつむいた新見に、「ええ、本当に」とだけ返した斎田は、さらに勢いを増してきた風にガタガタと震える窓に目を向ける。真っ暗な中で、キャンパスの街灯が大きく揺れていた。
「……新見さん、何だって?」
佐藤が尋ねてくる。
「明後日の朝までは台風で入構不可だってさ。それと……理由はよくわからないけど、新見さんも斎田先生も忙しいから来週のラボミーティングはキャンセルだって」
「ふーん……斎田研もか。うちも鈴木先生と准教授の早野さんが今週、来週、それと再来週までは忙しいからって、ミーティングと学会の練習会が無くなったんだよな。何か関係あるのかな?」
「さぁ。でもうちのラボは来週だけみたいだから、あんまり関係ないかも。再来週のラボミーテングで何だったのか説明あるだろ、たぶん」
このとき僕は、何気なく、本当に何気なくこう言って、再来週にはいつも通りのラボミーティングがあって、斎田先生や新見さん、それからラボのみんなに会えると思っていたんだ。
でも――――僕たちは二度と全員で集まることはなかった。
三月のポスドク トクロンティヌス @tokurontinus
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