第10話 “逃げたくない――そう思った”


 その薄っぺらな紙切れ一枚で自分が大学教員として選ばれなかったことを知ってから、最初の二週間はほとんど何も手につかないで、10時過ぎに大学に登校してマウスと培養細胞の世話だけをして16時には帰るような生活になっていた。斎田先生も新見先生も、そんな僕にとっくに気づいていたのだけれど、何も言ってはくれなかった。


 一日、また一日と、カップ麺の空容器とペットボトルで散らかっていく薄暗いアパートの部屋にたった一人でいると、あの時の面接のシーンと、受け取った選外の通知を交互に思い出してしまい、少しも身体が休めていないことに気づく。

 投稿した論文が不受理リジェクトとなった時よりも、もっと重くて暗い泥沼のなかにいるような感じがした。


 このままじゃダメだと、休日に相鉄線に乗って市街地に出てみても、今度は道行く同じような歳の女性に、あの日最後に見た"あの真っ白な横顔"の面影を見つけてしまい、また胸が締め付けられるような気がした。



 ――――苦しい。


 何で僕ばっかりがこんな目に合わないといけないんだ。何で、何で――と何度も、何度もぐるぐると考えて、考え疲れた先に立ち寄った小さな書店で見つけた『とにかく身体を動かしてみる』というアドバイスを実践してみようと思った。


 結局、僕は二週間くらいで研究室に戻り、今度は今までよりも多く実験の予定を組んで、毎日へとへとになるまで実験するようにした。これは予想以上に効果があって、毎日実験に追われているうちはあの公募のことを考えずに済んだ。


 

 そんな生活を続けていて、落選通知が届いてから一カ月が過ぎた頃――長い梅雨の雨が一向にやまずに構内のあちこちで池のような水たまりが出来ていた日。


 いつも通り、ラボミーティングに向かう途中で、新見先生に呼び止められる。他のポスドクや大学院生はすでにゼミ室に移動していたため、スタッフ部屋には僕と新見先生しかいない。



「藤山、お前、絶対に慣れるなよ?」



 新見先生は、いつだったか思い上がっていた僕を叱ったときと同じように真剣な目をしていた。でも、僕は本当に思い当たる節がなくて、「……何がですか?」と聞き返す。本当に思い当たることがなかった。


「…………それは、自分で考えろ」


 寂しそうな顔をして、そう冷たく言い放った新見さんは、そのままゼミ室へと向かう。スタッフ部屋に一人取り残された僕は、わけがわからないまま、さっきよりも雨足が強くなった窓の外の雨をミーティングが始まるぎりぎりまで、意味もなくただぼうっと眺めていた。



「よっ! 元気か?」

 21時を過ぎて、僕以外に誰もいなくなったスタッフ部屋に突然の大声が響く。

「さ、佐藤? 何だ急に」

「藤山、お前さ今日、暇? ミキちゃんから『お店暇だから遊びに来い』って電話来たんだけど、一緒に行かね?」

 佐藤が言っているミキちゃんというのは、この大学のすぐそばにポツンと一軒だけあるスナックの店員のことで、「どうしてこんな辺鄙へんぴなところにこんな美女が!?」と道端を歩いている誰もが振り返るようなである。佐藤はそのことを知らずに告白して以来、ずっとその店に通いつめているらしい。


「あー……せっかくだけど、ごめん。まだ実験残ってる」

 僕は佐藤に背中を向けて、ところどころ汚れが目立つようになってきた白衣のポケットにボールペンを何本か差しながら答える。



「なぁ、藤山。その実験、



 僕が「えっ」と声をあげて振り返ると、佐藤が昼間の新見さんと同じ顔をして立っている。佐藤は無言のまま、その大きな手で僕の白衣の襟をつかむと、そのまま引きずるようにスタッフ部屋を出ようとする。


「なッ、ちょッちょっと佐藤! 何なんだよ!!」

「いいから、来い!」

「まッ、ちょっと待てって!!」

 階段の踊り場まで引きずられたところで、ようやく佐藤の手を振りほどく。

「な、何なんだよ、一体! 変だぞ、お前。呑みには行かないって言ってるだろ!」

 僕の叫びを真面目な顔をしたまま受け止めた佐藤は、真剣な目をしたまま口をゆっくりと開く。



「…………"変"なのはお前だ、藤山。何でお前が四年生の実験の準備や、院生の再実験なんかする必要があるんだ。お前はポスドクだぞ。今のお前は、ただ"実験で忙しい自分に酔ってる"だけだ」


 佐藤の目は少しも揺らぐことがなく真っすぐこちらをとらえていて、その迫力に僕は狼狽うろたえてしまう。


「……新見さんに話を聞いてから、お前の研究室の学生たちにも話を聞いた。みんなおびえていたよ。だって、からな。自分たち学生の実験の準備を任期っていう年限付いて切羽詰まってるはずのポスドクがやるって」

「い、いや……それは……」

 僕はしどろもどろと返事にならないような言葉を口にするのが精いっぱいだった。


「今のお前は『実験で忙しい自分』を理由にして、教員公募に落ちてしまった自分、本当にやらないといけないことから逃げてるだけだ……お前、面接前に言ってた書いてる途中の論文、どうした?」


「あ、あれは……まだデータがそろってなくて……」

「こんなに夜遅くまで実験してるのにか? それこそ何でだよ。ポスドクが自分のプロジェクトよりも優先してやらないといけない実験で何だ?」

 僕は何か答えようと口を開けるのだけど、それは言葉にならずに、ただ「ああ」とか「うぅ」とかうめき声にしかならなかった。


「ただ使よ」


 心臓をえぐりとられるような気がした。学部生の実験を手伝ってることも、自分の書きかけの論文が置きっぱなしになってることも、全部、全部図星だった。それでも、佐藤は嫌味や怒りでそう言ってるんじゃないことが、その声や表情から真っすぐに伝わってきて……僕は言葉が出ないまま、自分の胸のあたりを掴んで、ただ涙を溜めるくらいしか出来ないでいた。


「……俺は逃げるのが悪いことだって言ってるんじゃない。中村や水上が、今はもう調子を持ち直したのだって、長期休暇で研究室から離れる時間があったからだとも思ってる。

 でも、お前が他人の実験使って、学生たちに悪い影響与えてるのは許せない。お前と中村はポスドクとして、斎田研では新見さんの次に権限与えられて、院生も学部生も誰も何も言えないんだからな。


 だから、俺が言ってやろうと思った――――なんせ、俺はな」


 本当は、佐藤の言葉に感動してしまって、溜まった涙を流しきってしまいたかったんだけど、それはなんか悔しい気がして、僕は代わりに「なんだよ、それ」と笑った。そんな僕を見て佐藤もまたにっこりと微笑んで、そんなむさくるしい男二人を、チカチカと今にも切れそうな階段の蛍光灯が照らしている。



「やっと笑えたな。じゃぁ、行こうぜ。ミキちゃんの店。マジで呼ばれてんだよ」

「…………言っとくけど、俺、今日は金ないからな。給料前だし」

「えっ!? マジで? ……ま、まぁボトル入ってるし……いざとなったらツケで……」

「佐藤、お前この間もそれで『うちはツケなんてない』って怒られてたじゃん」

 佐藤は、さっきまで不甲斐ない僕を叱っていたとは思えないほどにいつも通りに接してくれて、『親友』というものの定義があるのだとすれば、確かに佐藤はそれなのだろう。


 真っ暗な夜の上星川は、上がったばかりの雨の匂いに交じって、もうすぐそこに来ている夏の香りがした。




   『“逃げたくない――そう思った”』




「……班会議のポスター発表、ですか」


 横浜に長く、蒸し暑い夏がやってきた七月のある日、僕は斎田先生の教授室に呼び出されていた。節電を理由に28℃に設定された教授室は蒸し暑くて、いつもはスーツ姿の斎田先生も、さすがに半袖のポロシャツで仕事をしている。


「ええ。九月のはじめに、伊豆のホテルで実施するようなんですが、プロジェクトリーダーである吉田先生から、今回は班員すべての研究室からポスターと口頭発表の演題を出すように言われているので、藤山君にはポスター発表の方をお願いしたいと思っています。口頭発表は新見先生が担当します。ただ――――」


「ただ? 何かあるんですか?」

 時には人の感情があるのかどうか疑ってしまうほど冷静な斎田先生が、珍しく言い難そうに口に手を当てて止まっていたので、僕は思わず聞き返す。


「吉田先生の研究室に新しく配属された講師の先生が特別講演をされるそうです。君が応募したときの採用された方です。名前は……金井かない研出身の室戸むろと千夏ちなつさん、と言ったかな。もし、藤山君が気にするのであれば、無理にとは言いませんし、今回は見送っても――――」


 僕は、あの日最後に見た"雪のように真っ白い横顔"を思い出す。やっぱりあの時に受かったのは彼女だったのだという思いとともに、強い感情が自分のなかで湧き上がってくるのを感じる。



「いえ、参加します。参加させて下さい」


 はっきりとそう言いきった僕の顔を見て、斎田先生は「……そうですか。では準備を始めて下さい。要旨などの締め切りは8月の第二週ですので、少なくとも7月の終わりには一度見せて下さい。よろしくお願いします」と、どこか安心したように続けた。 



 逃げたくない――――そう思った。



 本当は、自分が落ちた教員公募で受かった相手に、こんなにも早く会うなんて、まるで自分を否定した人間と直接対面するかのようで、みじめで、悔しくて、叫びだしたくなるくらいに怖くてしかたがない。


 でも、僕は、あの夜、佐藤が嫌われても構わないと思ってまで励ましてくれた、今の僕自身を否定したくなかった。悩んで、悩みぬいて作り上げた書類とプレゼンで臨んだ教員公募に落ちて、そこから底なし沼に入り込んだように落ち込んで、逃げ出して、親友の助けを借りて持ち直した自分。


 もし、僕に『何かが足りなかった』のだとしたら、直接、彼女と対峙してそれが何だったのかを見極めたい――――そう思った。



 教授室を出て廊下を歩くと、入道雲が立っていて、遠くに雷の音が聞こえる。たぶん、もう少ししたら夕立が来るのだろう。その段々と大きくなっていく音と同じように、僕は『自分の理想とするものと、自分に足りないもの』に向き合う決心を固めた。



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