第2話 橋のむこう


「ああ、藤山君。おはよう。今日は……何か実験の予定あるかな?」


 飲み会の次の日の朝、研究室の主宰者(PI)である斎田教授に話しかけられる。


「いえ、特に急ぎの用は……何かありましたか?」

 特に思い当たる節もない僕は、素直にそう尋ね返す。

「いえ、用と言うほどのことではないんですけどね。滝澤さんから昨日連絡があって"もうこちらには来ない"そうなので、デスクの片づけをお願いできなかと……お願いできますか?」

 まだ40代の始めと僕たちとそれほど歳が離れていない教授は、どこか僕に気をつかっているようにそう言った。それとも、アメリカから帰ってきたばかりだからそうさせているのか、いつも僕や他のポスドクにも丁寧な言葉でしゃべりかけてくるあたりが、どこかひどく冷たくも感じていた。


「いえ、大丈夫です。片付けておきます」


 僕はそう答えて、本当は予定していたqPCRを午後に回して、居なくなってしまった同僚の――いなくなってしまった恋人の机の中身を片付け始めた。


 彼女の机にはいくつもの書き込みがしてあるプリントアウトされた論文たちと、十冊の実験ノート、それと去年の夏休みに宮崎で僕と一緒に買った日向夏だったかなんだったかのキャラクターの小さなぬいぐるみが一つ、サイドデスクの一番下の引き出しの奥に引っかかっていた。




   『橋のむこう』




「ア―――っと、藤山! qPCR……っと、お前何やってんの?」

 しばらくして、滝澤の荷物をあらかた段ボールに詰め終わった頃に、研究室の講師の新見先生が現れる。歳が斎田教授よりもさらに近いからなのか、それとも元来の性格なのか、いつも砕けた調子で話しかけてくる人で、整った顔立ちで学部学生の人気も高い。

「教授に言われて……その、滝澤のデスクの片づけです。StepOneの予約なら、先にしてもらって構わないですよ」

「ああ……そっか、滝澤の。そりゃぁ、その……」

 新見先生は僕と早紀の関係を知っていて、どこかバツが悪そうに明後日の方向をみながら、襟足のあたりを掻いている。


「…………新見さん、あの……」

「うん、何だ?」

「何で、滝澤なんですかね。業績から見れば俺か、中村のような……」

 僕は昨日から喉の奥で詰まったままだった言葉を目の前の気の優しい男にぶつけようと吐き出す。


 でも、返ってきた言葉は僕の予想とはかけ離れたものだった。



「はぁ!? お前、何うぬぼれてんの? 誰を雇うとか雇わないかなんて、お前が決めれる立場なのかよ。血反吐を吐くような思いで何十時間、何日もプライベートを切り捨てながら悩んで、悩みぬいてグラント(研究費)取ってきたこともないのに? お前……少し思い上がってんじゃないか?」


 体育会系というのがぴったり合うような兄貴分という言葉がぴったりの真剣なまなざしと厳しい言葉に、僕はたじろぎ、背中に冷や汗が一筋伝う。



「あのなぁ、藤山。ポスドクは確かに『良い論文を書く』のが一番の務めだ。当たり前だ。そのために斎田さんはお前たちに給料を払ってるんだから。


 でもな、PIが確固たる考えをもってdecisionした人員配置なんだから、お前はこの研究室にとって必要な人間なんだ。お前のその『ポジション』を用意してくれたあの人の前にきちっと立つのも、またポスドクの大事な務めなんだよ。


 例え、去っていく人間が呪詛のように『お前よりも、自分の方が優秀なのに』なんて吐き捨てていったとしても、お前はちゃんとに、実験ベンチの前に、教授の前に、学会会場のポスターの前に、講演台の前に、しっかりとお前の足で立たないといけない。


 お前はこれから先、数十倍から時には百倍の倍率超える教員公募を戦っていく。


 そのなかで、斎田さんやそのほかの誰かの想いや思惑をその身に受けつつ、確実に誰かが働いていた居場所や、誰かが渇望していたポジションを奪い取って生きていく。教員を望んでる人数より、用意できてるポストの数が少ないんだから、それは、だ。


 俺も何度も教員公募落ちてきたからわかる。


 自分が落とされた公募選で受かった人間が『自分よりも優秀な人間はいたのに』なんて甘っちょろいこと言ってたとしたら、そこに湧き上がってくる感情は、安堵とか慰めなんてもんじゃない……『怒り』だけだ。公募書類を全力で書き上げて、何度も何度も暗闇のゼミ室で一人で面接のプレゼン練習してきた自分をただただ侮辱されてる、そうとしか思えないんだよ。


 だから、『自分よりも他の誰かの方が適任だった』なんて、。研究者で生きていこうと思う限り、永遠に」


 新見さんのあまりの気迫に、両手の先が自分の意志とは関係なく震えている。目頭が熱くなっていて、ひょっとしたら泣いているのかもしれなかった。でも、その時の僕はそんなことを確かめることもできなくて、ただただ自分が恥ずかしくて、早くこの場所から逃げたいと思っていた。


「……あー……すまん、言い過ぎた。お前、どうせqPCRは明日でも間に合うんだろ? 今日はもう帰れ。滝澤のデスクの片づけは、俺とB4(学部四年生)でやっとくから」


 新見さんの最後の言葉が聞き取れなかったくらいに動揺していた僕は、大学の前の坂を転げ落ちるように上星川に向かって下っていく。自分の覚悟のなさを突きつけられたことに恐怖を覚えながら、やっとの思いであの名前も知らない河のあたりにたどり着くと、橋のむこう側に見覚えのある姿を見つける。



 ――――声がかけられなかった。


 早紀は昼間の街中で大声で泣いていた。何人もの通り過ぎる人たちが何事かと振り返っている。でも、そんなこと構う素振りもなく大声で、ただ大声で自分の力不足を自分自身で責めるかのように。自分の研究ができないという、その無念さを胸に刻み込むように。


 僕はその時になって、早紀が学会で聞いた斎田さんの研究内容に惚れ込んで、わざわざ島根の大学から両親の反対を振り切って大学院から移ってきたことや、就職が見つからなかったときは実家の家業を継がなくてはならないことを思い出す。


 僕は……こんな身を投げるように雇用継続を取りに行った事があるだろうか。


 そう思うと、たった百メートルくらいのこの橋のむこうに駆け寄って、彼女に優しい言葉をかける――たったそれだけのこともできずに、迎えの車が彼女の姿を吸い込んでどこかに消えるその時まで、ただただ立ちすくんでいた。



 眼鏡の裏側にできた涙溜まりの最後の一滴ががぽたりと地面に落ちると、三月の沈丁花の香りがした。



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