第3話 譲れない想い (一)


「お、ちゃんと出て来たな。藤山」


 上星川の駅を降りて、長い長い坂道を上った先にある大学の、そのまた奥にある研究室で、まだ朝の9時にもなっていないというのに、講師の新見先生の一桁ボリュームを間違えているのような声が響く。


「……え、ええ。まぁ」

 僕は昨日の朝とまったく変わらない調子で接してくれる新見さんを、ちょっと直視できないで目線を斜めにそらして、何かを誤魔化すような返事をする。僕のこういう性格は、昨日、アパートを引き払って実家に戻っていった早紀も何度も注意してくれていた。

「滝澤から連絡は?」

 そんな弱虫の僕を新見さんは気遣うように、いつもより優しい声で尋ねる。

「……昨日、メールが一度だけ」

 橋のむこう、住んでいたアパートの前から早紀の姿が消えて一時間くらい経ってから届いたそのメールには実家に帰ることと、「別れる」とただそれだけの言葉が書かれていた。

 お互い同時に斎田研のポスドクになってから二年間、少しずつ積み重ねてきた二人の時間がたったの三文字でなかったことになるのかと、メールが映し出されたスマートフォンの画面を真っ暗な自室でぼんやりと眺めたまま一睡もできなかった。



「――と、それはまぁそれとして。おい、藤山、そっち持て」

「なっ、えっ!? ちょ、今の流れで?」

「流れとかお前のセンチメンタルジャーニーはわかったけど、俺は……っと、新しいB4の学生たちにデスク用意すんのに忙しいんだよ。ほら、早くそっち側持て」

 そう言って事務机の反対側を持ち上げるように目配せをする。

「じゃぁ持ち上げるぞ。……いくぞ――っしょっと!」


「――――っ!! お、重い」


  重い。古い事務机の無駄に作りがしっかりした重さが両手の指に一気にかかる。

「藤山ァ、このくらいで重いとか……しっかりしろよ」

「……ぼ、僕の手は……ピペットマンとか解剖器具とか……もっと繊細なもの持つようにできてるんすよ……」

「お、言うじゃないか」

 新見さんはガハハと見た目とぴったりな大声で笑う。

「新見さん、これ、どこまで持っていくんですか?」

「ああ、とりあえず2研まで。今度の新4年生は人数多いからな。2研はB4と修士にして、D(博士課程学生)とポスドクはスタッフ部屋。これまでよりはちょっとせまくなるけど、そこは我慢しろ」

「りょ……了解」

 日頃の運動不足がたたってか、ふらふらとしながら答える。


「それと――な。滝澤の机は、早速、新しい4年生に使ってもらう。昨日のうちに鈴木研の佐藤と水上に頼んで2研に運んでもらってな。居なくなった誰かのあとに、別の新しい人間がやってくる。こうやって、澱みなく続いていくもんなんだよ、研究ってやつは」

「…………そうですね、きっと」

 励ましのつもりなのか何なのかはわからなかったのだけれど、僕はその新見先生の言葉に心が少しだけ軽くなった気がして、素直にうなづいた。


「どうよ、今の――なかなかカッコよかっただろ?」

 またガハハハと豪快に笑う、この人のこういうところが、周囲の女性を惹きつけているのだろう。本人にそれに気づく素振りがないのが、まったくもったいない話ではあるのだが。

「……先生は"いつも"カッコいいですよ。まぁ、朝の9時の研究室で、野郎二人、重い荷物もちながら言う言葉ではなかったかもですけど」

 確かにそうだなと、また豪快に新見先生は笑った。




   『譲れない想い』




「……っと、助かった。ありがとう、藤山」


 2研と僕たちが呼んでいる実験室とその端に何台かの事務机を並べて学生たちの居室も兼ねている部屋に、運んできた事務机を置く。二の腕と腰のあたりに疲労というか違和感が溜まっていて、両手の指がまだ痛い。本当に運動不足だなと改めて思ってしまった。

「それと……ほら、これ。昨日の調子だったら渡すつもりはなかったけどな。少しは吹っ切れたみたいだし」

 そう言って新見先生が渡してきたA4一枚の紙きれには『東都大学医科学研究所細胞生物学講座 教員選考にかかる適任候補者の推薦について』と書かれている。


「!? 新見さん、これって!」

「そ、斎田さんと同じ研究班の吉田先生の助教か講師の公募。まだ、Jrecin(研究職求人情報サイト)にも載せてないみたいだけど。吉田先生から斎田さんに直接『誰か適任者がいれば推薦してください』と来たみたいだな。と言っても、推薦されたからって絶対受かるってわけじゃ――――って聞いてねーな、こりゃ」

 僕は、何てことはないたった数行の文章と、必要な応募書類くらいの情報しかかかれていないその紙を興奮して食い入るように見ていた。斎田研に来て、初めての『手が届くかもしれない』とそう思わせるような大学教員公募の情報だった。


「あーっと藤山、一つだけいいか? まず、大前提だが、俺はお前だけにこの情報を渡したわけじゃない……わかるよな? もう中村も知ってて、もちろん応募する気でいる。


 それともう一つ――――こっちの方が重要だ。


 斎田さんは『仮に二人とも応募したいとなっても、二人ともに推薦状を書くつもりはない』と言ってる。斎田さんの言ってることは厳しいようだが、俺も賛同はできる部分はある。自分の共同研究先が『適任者を推薦して欲しい』と言ってきたのに、二人とも推薦して、そちらで選んで下さい……ってのは、信頼関係とか相手側に審査にかかる心的負担かけてしまうとか、何か色々あるんだろ。それでも、俺なら二人ともに推薦状書いちまうかもしれないけどな。


 だから、お前と中村――ってことだ。そして、教授はどちらに推薦状を書くかは、応募書類の内容と模擬面接を実施して決める、そう言ってる。昨日も言ったよな。誰かと競って、ポジションの奪い合いをする……これから先、お前が研究者として生きていく以上、ずっとつきまとってくる最初の『戦い』だ。


 誰にも譲れない想いってやつは――ちゃんとお前のなかにあるか?」



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