三月のポスドク

トクロンティヌス

第1話 河沿いの街


 そのポスターの前には真っ白い顔をした痩っぽっちの女の子が一人で立っていた。


 真新しい紺色のスーツは小さな身体にあっていなくて、だぼだぼとあちこちで布が余っている。その少し余った袖を気にすることもなく、手に持った指示棒で自分のポスターの図を一つ、一つと指していく。目の前に居る著名な教授たちに一歩もひるむこともなく、口元は滑らかに動いて、よどみなく言葉を紡いでいく。


 やがて、彼女の説明が終わると、いつのまにか出来た人だかりから――本来はそんな通例なんてないはずなのに――拍手が湧き起こる。その人だかりの一番前で聞いていた僕は、ただ何もできずにじっとそれを見ていた。


 北海道の小さな街の駅前の学会会場は9月だというのにとても寒くて、彼女が最後に「ありがとうございます」と言った言葉が吐いた息と白く濁って、少し高揚して赤くなった頬と対照的で、不思議な光景だった。その瞬間、聴衆たちの思い思いの話し声が消え、とても――――不謹慎なのかもしれないけど、とても綺麗だと思ってしまった。



 それが、僕が彼女を見た最初だった。




   『三月のポスドク』




 大学の前の長い坂を上星川方面に下ると、河沿いに何軒か居酒屋が連なっている場所があって、ようやく仕事を終えた僕たちは、その並びのなかでも一見民家のような外観の小さな焼き鳥屋に入っていた。いつもならガヤガヤとにぎわっているこの店も、3月も中旬の平日となると、卒業旅行や春休みで大学生がいなくなって、少し寂しさを感じるようになる。


「えーそれでは、今年も無事 "3月" を乗り切ったということで、乾杯!」


 この中では一番声と身体の大きな佐藤がそう言うと、テーブルに座った僕を含めて男女4人が、「乾杯」と応えて、生ビールの杯がカチンと鳴る音がしばらく続く。



「……無事、ってわけでもなかったけどな。今年は」

 出てきた料理に手を出しながら、仕事の話や、他愛もない最近見た映画の話をしていた頃に、ぼそっと水上がつぶやくと、僕たちは持っていた箸やビールジョッキをテーブルの上に置いて黙りこんでしまう。


「……やめろよ、今、その話」

 佐藤が不機嫌そうに言う。

「"今"って、他にいつこんな話するんだよ」

 水上もむっとした様子で応える。

「ちょ、ちょっと水上君、それに佐藤君も。落ち着いて」

 二人の間に座っていた中村がおろおろと止めにはいる。僕はそんな三人を見ながら、自分の隣の、空いたままになった予約席に視線を動かす。三人もそれに気づくと、その空席を見ながらじっと固まったように口を閉じる。



 僕たちはポスドク(博士研究員)だった。


 大学院の博士課程を出た僕たちが、大学や研究所の教員や研究員として採用されるには、論文や学会発表などの業績を積み重ねていく必要がある。その必要な業績を積み重ねるために、大学の研究室に教員ではない博士研究員として在籍して、実験や論文の執筆にあたる。


 この博士研究員を一般的には"ポスドク"と呼ぶ。


 ポスドクの多くは、研究室のPIと呼ばれる主宰者(多くの場合は教授や准教授)が持っている研究費で雇われていて、そのほとんどが短い期間の任期が定められてる不安定雇用となっている。僕たちはそのなかでも「単年度契約で、成績によって最大5年間の再任が可能」という最も短ければ1年しか働けない、そんな不安定な立場だった。

 そんな不安定な立場のまま、僕たちは上星川の駅から山の上の大学に向かい、自分たちの将来のために実験をして、真っ暗になった頃にこの河沿いの街に帰ってくる。いつも暗くなった夜にしか見ないその河がどんな風に流れるのだとか、どんな生き物がいるのかだとか、僕たちは誰も知らない。


 そんな余裕なんて、きっと誰もなかった。



「……ねぇ、藤山君。その……早紀ちゃんの様子、どうだった?」

 突然の中村の言葉に、二週間前の光景がフラッシュバックする。何日も換気していないすえた匂いのする真っ暗なアパートの一室。その部屋で、ぼさぼさの髪と下着姿のまま僕に叫んでいた滝澤早紀は――僕の恋人だった。


『うるさい!! うるさい!! アンタに何がわかるのよ! たいした業績もない、アンタに! 何で私が雇用継続されないのに、アンタが継続なの!? 私が女だから!? もう、出てってよ! 顔も見たくない! 出てって!!』


 その言葉を最後に彼女はアパートを引き払い、僕の前から姿を消した。


「……藤村君? 付き合ってたんだよね、二人?」

 脳内で何度もリフレインするあのシーンに心を囚われたまま、僕は何も答えられずに答えに詰まっていた。

「中村、やめろ。藤村が聞かれても答えないなら、何か理由があるからだろ。そんくらいわかれ」

 佐藤がそう言ってジョッキに残ったビールを空ける。


「……いつまでこんな生活が続くのかな、ちゃんとテニュア(正規教員)になれるのかな、私たち」

「知らん」

 中村の言葉に、また佐藤がぶっきらぼうに答える。「でも……」と続けようとする中村の言葉を今度は水上が遮る。

「……ポスドクが解雇されるの、滝澤が初めてってわけでもないし、その前にだって何人も見て来ただろ。研究者になるということは、止まらない列車に飛び乗るようなもんだ。もう二度と降りる事はできない。新しい結果を出して、論文にまとめて発表する。そして次の実験を始める。任期が切れて次の就職先が見つからないって、その時までは」

 中村はぎゅっと下唇を噛んで、うつむいている。


 佐藤も僕も、そして多分、中村に厳しい言葉を言った水上本人でさえ、本当は中村と同じ気持ちでいるに違いなかった。不安で不安で、本当はしょうがないはずだった。


「……でも、私たちもうすぐ30代だよ? 私たちの20代って何だったのかなぁ」


 そう弱々しくつぶやいた中村の言葉に、今度は誰も答えることはなかった。



 研究っていうのは正直だ。研究した分しか進まない。


 ここに集まっているポスドクたちは――いや、おそらくどこの国のポスドクたちだって、研究を優先して楽な20代なんて平気でかなぐり捨てた人間たちだ。だから、僕たちは立ち止まることなんて出来ない。また一人、また一人と途中で諦めてしまった人たちのためにも。


 少なくとも僕はそう信じていたかった。


 3月の冷たい風が吹くこの名前も知らない河沿いの街で、僕は「あの時の彼女も、自分たちと同じ気持ちでいるんだろうか」と、何故か名前も覚えていないあの子のことを考えていた。



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