第5話 僕に足りないもの
中村と水上のいる学科共通会議室を出た後で、僕は斎田教授に「せめて、模擬面接を僕と中村の二人だけのクローズな場所で出来ないか」と尋ねたものの、
「君は自分の研究内容を話すのに、他の学生がいると問題があるのですか?」
――と、いつものどこか冷たい調子で返されただけだった。これで、僕と中村の自分たちの教員公募への推薦状を賭けた"戦い"が一週間後の金曜日の朝、いつものラボミーティングの場で行われることが確定した。
「……問題があるから、言ってんじゃねーか!」
一つ上の先輩から譲り受けたガラステーブルと単身用の冷蔵庫、それに簡易パイプベッドだけが置いてある八畳一間の部屋で、暗くなったベランダから見える職場に向かって叫ぶ。と同時に、左手に持っていた銀色のビールの空き缶を潰す。
あれから二日が過ぎた日曜日の午後。
僕だって普段の研究進捗報告なら、これまで何度も何度も繰り返してきただけのことだし、何の問題はない。でも、それが自分と同僚の運命を決める最初の試験だというなら、聴衆は少ない方がいいに決まってる。
それにしたって、斎田先生の言葉を借りるなら、「これから先の二次面接で、相手先のラボメンバーが参加するとなったら、君はどうするつもりですか? その可能性は十分にあるのですが」の一言で片づけられてしまうのも、頭ではわかってはいる。でも、どこか納得いかないまま、僕は二本目のビールを開けようとする――と、同時に玄関のチャイムが鳴る。
「よッ!」
誰だろうと思って開けたドアの前には、新見先生に負けないほど体格のいい佐藤がビニール袋片手に立っていた。
「……えっと、佐藤。一体、なんの用だ……?」
僕はまだ何も言っていないのに、ずかずかと人の部屋に上がりこんで来たこの隣のラボのポスドクに嫌味を込めて言う。
「用? ……うーん、用と言うほどでもないんだがな。お前が、水上に変なこと言われて落ち込んでるんでないかって思ってな」
「!? それ、水上から聞いたのか?」
「ああ、まぁな。あいつはあいつで気にしててなぁ。それで、『まぁ、お互い気にすんなよ』と、俺が言いに来たってわけだ」
佐藤の意外な言葉にびっくりする。
水上は服装にしろ、態度にしろ、どこか少し気取ったところがあって、僕にあんなことを言ったとしても、気にするような性格とは正直思っていなかったのだ。
「それはそれとして……どうせまぁ酒しか飲んでないんだろ。とりあえず、メシ、食うだろ? 和田町のジンジン弁当で買ってきたぞ」
「……あ、ありがとぅ……」
「は!? 何だよお前、声がちいせぇ」
僕の消え入りそうな返事を聞いた佐藤は、ガラステーブルの上に買い物袋を置くと豪快に笑った。
「……で、"どこまで"進んだ?」
お互い買ってきた弁当の半分くらいまで箸が進んだところで、佐藤が僕の顔を見ることなく尋ねる。
「履歴書と研究業績は一応まとめた。公募書類の方の研究概要と抱負……は、まだちょっと書き足すつもりだけど、だいたい。ただ――」
「ただ?」
佐藤が箸を止めて、こちらを見る。僕も左手の箸をおく。
「……プレゼンのスライドが全然できてない。書いても、書いても……何か『求められているのは、これじゃないんじゃないか』とぐるぐる考えてしまって。いつものプログレス(進捗報告)とか学会発表のスライドではこんなに迷ったことないのに……」
僕の言葉を真剣に聞いていた佐藤はしばらく考え込む素振りをした後で、弁当の残りを食べ始める。
「お、おい! こっちは真剣に話したんだぞ!」
「いや、話すのはお前の勝手だけど、俺は答えるって言ってねぇから」
それは確かにそうだが、何となくむかつく。僕はムッとして、対抗するようにガツガツとコメをかきこむ。
「…………藤山って、学部もこの大学だったっけ?」
佐藤はまたこちらを見ずに尋ねる。
「いや? 大学院から。だから、一体何なんだよ?」
苛立っていた僕は少し語気を強めて答える。
「なるほど……何となくだけど、斎田さんの考えてることわかったかもな」
僕が「どういう……」と聞き返すのに被せて、佐藤が続ける。
「ずっと考えてたんだよ。何でわざわざ"こんなこと"しないといけないのかって。募集かけてる吉田って先生は斎田さんと同じ研究班なんだろ? だったら、研究内容も似てはいなくても遠くはないはずだ。
なら、別にどっちを送り込んでも斎田さん的には問題ないはずじゃねーのってな」
「そ、それどういう――」
「お前と中村の業績、違う研究室の俺から見れば大差ないように見える。実際、業績だけなら三月に辞めた滝澤の方が良かっただろ?
そして、どっちも似たような歳だし、シャイで引っ込み思案で、俺や水上、滝澤みたいに『俺が、私が』って感じじゃない。でも、俺のような部外者から見てもお前たち二人は実験はちゃんと自分で段取りできるし、後輩の指導もできる範囲でしてるように見える。じゃぁ、斎田さんは何をもって"どちらか一方を選ぶ"ことにするのかな、ってこと」
佐藤はそういうと開けてあった缶ビールを
実はこの時に佐藤がビールと一緒に飲み込んだ『何でわざわざこのタイミングで斎田教授が業績の優れていた滝澤を解雇したのか』って質問の答えを、僕たちはずっと後になって知ることになるんだけど――その悲しい出来事のことなんて、自分のことで頭がいっぱいだったこの時の僕は考えることもできないでいた。
「俺、それに水上は、他の大学院から鈴木研のポスドク公募で来た。当然、その時には――鈴木先生と准教授の早野先生だけだったけど、面接試験があったんだよ。その時、面接に呼ばれた候補者は6人だったらしい。他の候補者なんて会ってないから、実際は知らないけどな……お前、今、何が言いたいんだよって思ってるだろ?」
図星だった僕は、「い、いいから早く続き話せよ」と返す。
「もうそれが"答え"だよ。お前や、学科は別だったけど、学部からこの大学にいて、そのままポスドクになった中村には、俺が今話した内容について、ある感情を共感できない。
――それはな、『恐怖』だよ。
知らない街、知らない大学、鈴木先生とは事前に学会で少し話したことあったけど、人物をそれほど詳しく知ってたわけじゃない。それに、早野先生をはじめ他のメンバーは全然知らなかったし、そんな聴衆の前に立って、学会のように不特定多数にするんじゃない、特定の個人に向けて、自分を、自分のこれまでの研究を売り込むんだ。そこにさ、とても言葉に出来ないような、足が震えるような、どでかい恐怖が立ちはだかってるんだよ。
安っぽい言葉で言うなら、斎田さんはお前たちの『勇気』がみたいんだろうな。
公募に自分から挑戦したいっていう勇気、面接の言い尽くせないほどの恐怖に打ち勝つ勇気。それに、見事公募に受かって大学教員になれば、今度は共同研究者を自分で探しに行ったり、研究費の獲得にだって挑戦していかないといけない。
斎田教授はもちろんお前たちの研究内容、プレゼン能力だって見るつもりだろうけど、これまで見る機会のなかった『踏み出す勇気』ってのが見たいんじゃないかって話…………まぁ、全部、俺の想像だけど」
最後を茶化したつもりの佐藤の言葉は、僕の胸のあたりに刺さったままになっていた。黙ったままの僕を見て、ふぅと短く息を吐いて、ぼりぼりと襟足のあたりを掻く佐藤の頭の周りで白いフケが舞う。
「お前、スライドが書けないって言ってただろ? ……あれな、俺も面接の前そうだった。だって、自分のこと呼んだ教授も含めてよく知らない『誰か』に面と向かって話すんだから、当たり前だよ。
だからな、可能な限り相手を分析するのは大前提として、気持ちとしては『まったく自分のことを知らない相手』に、『自分の研究を好きになってもらうように』書けってのが、俺の前の大学の先生の言葉。
来週の金曜日、お前の発表を聞いてるのは見知ったラボの教授や講師じゃない。『俺の方が推薦状もらうにふさわしい』んだってことを説得しないといけない交渉相手なんだから、ビシッと! お前の本気のプレゼン、見せてやれよ!」
そう言ってバンバンと僕の背中を佐藤が叩くと、弾みで口の中に残ってた米粒が飛び出す。それを見てまた豪快に笑った佐藤の優しさに、本当は少しだけ感動して目じりに涙がにじんでいたのだけれど、なんか悔しいのでそれは黙っておくことにした。
佐藤が帰った後で、僕は窓を開けてベランダに出る。二日分の洗濯物を干したらいっぱいになるような小さなそのスペースに吹き込んだ四月に向かう風はまだ肌寒くて、何故かあの北海道でみたポスター発表のプレゼンのことを思い返していた。
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