第6話 こんなにも苦しいことだったなんて (一)


「……それでは、今週のラボミーティングは先週お話したように、藤山君と中村君が教員公募に応募するための模擬面接試験としたいと思います。二人とも、準備は出来ていますか?」

 少しでも本番と同じ雰囲気を出すためにスーツ姿で来るように言われていた僕も中村も、黙ってうなずく。

「私と新見先生はあなたたちが持ってきた応募書類に目を通し、それを手元に持っていますが、他の学生たちには見せていませんし、配ってもいません。ですが、学生の皆さんも発表に疑問があれば遠慮なく質問するように。

 ただし、これはあくまで二人のための練習です。演台に立っているのは、あなたたちの先輩であったり、よく知っている同じ研究室ポスドクではありません。あくまで、この二人のというロールプレイに徹して下さい……いいですね? 新しく配属された4年生の皆さんにとっては、誰かの研究発表を聞くという機会はおそらく初めてでしょうから、しっかりと勉強して下さい」

 斎田教授が大学院生や学部学生たちを見ながら、静かに説明する。その言葉はどこか厳しくて、昨日からの雨で急に冷え込んだ三月の冷たい空気が、徐々に重苦しくなっていいく。


「……では、中村君から。パソコンはご自分のものではなく、今、正面のディスプレイに繋がっているこちらで用意したものを使って下さい……最初の候補者は『中村あゆみ』さん。Y大学斎田研究室博士研究員。発表は40分、質疑応答は20分でお願いします。それでは、始めて下さい」

 突然、斎田教授の言葉のトーンが今までよりもさらに重く、冷静になる。いよいよ始まったのだと、背中に一気に汗が噴き出す。


「あ、は……はい。じゃぁ、じゃぁミキちゃん、部屋の明かりを」


 その中村の、ゼミ室の後ろに座っていた遠藤というM1(修士一年)の女の子に、プレゼンテーションディスプレイが見やすくなるように部屋の明かりを落としてもらうといういつものラボミーティングのやりとりの言葉を発したその瞬間に、斎田先生が――いや、本当に斎田先生なのかというほど冷たく鋭い言葉を投げかける。


「君は――――君は、初めて訪れた大学の大学院生を、愛称で呼んで何かしらの仕事をお願いすることができるのですか?」


 中村も、そしてその動作を依頼された遠藤さえも固まったまま動かない。


「私は言ったはずです。今日はここにいる全員があなた達二人の研究を初めて聞くつもりで席についている、と。それは、このような些細なことから、『すべて本番と同じように発表して下さい』という意味です。 ……私の説明が不十分だったでしょうか?」

「……い、いえ……」

「そうですか。それでは始めからもう一度。新見先生、タイマーを元に戻して下さい。遠藤さん、席について」

 僕もおそらく他の大学院生たちだって初めて見るような斎田教授の厳しい態度に、言葉を失っている。


「……そ、それでは……発表を始めます。明かりをお願いします」


 今度は電灯のスイッチの近くにいたM2の学生が電灯の半分を落として、部屋が薄暗くなる。と同時に、中村が用意したスライドのタイトルがスクリーンに映し出される。でも、そのタイトルは――――


 これは、この前の『学科ミーティング』のものと同じじゃないか!


 僕たちの所属している学科には、生物学系の研究室が3つ、佐藤たちの所属している鈴木研のような化学系の研究室が4つ、それにこの研究棟にはいない電車を乗り継いで30分ほどのところにある研究所の中に研究室を間借りしている医療工学系の研究室が2つ、合計9つの研究室があるのだが、普段はほとんど交流はない。

 それでも生物学系の研究室同士は機械の貸し借りだとか微かに交流はあるのだけど、生物系と化学系、いや本来は近しい分野のはずの生物系と医療工学系でさえ、お互いの研究内容も知らない、もっと言えば学部から配属されてきた学生同士が知り合いということはあっても、研究室のポスドクやスタッフが他の研究室のメンバーをほとんど把握できていないという状況だった。

 このままの状況ではさすがに良くないということで、数年前から学科内の研究室の交流を図るために、月に1度、学科内のすべての研究室が集まって、当番の研究室の一人が研究内容の紹介し、その後、軽食で懇親会をするという学科ミーティングが開催されている。

 中村のスライドは、先々月にその学科ミーティングで話したスライドそのものだった。新見先生もすぐにそれに気づいて驚いたような表情を浮かべている。


「……失礼。さっき"初めてあなたの研究発表を聞く"と言っていましたが、その前に一つだけ確認させて下さい。これは学科ミーティングのときのものと同じスライドですか?」

「え、あ、はい」

「……わかりました。続けて下さい」

 斎田教授は中村の返事を待って、また視線をスライドに移す。薄暗い部屋の中で中村の研究を指導してきた新見先生は、まだ険しい顔をしたままだった。


「わ、私たちの研究室では……ある器官や組織などに特異的に発現する遺伝子群を、CRISPR/Cas9などのゲノム編集技術を用いて網羅的に欠損させるプロジェクトを進めており、私の場合は――」


 中村の言葉が、目の輝きが、そして顔の輪郭までもが次第にぼんやりとしていく。自信を失った声は届けるべき聴衆とは違う明後日の方向に飛んでいき、焦りばかりを滲ませるその目は、ほとんどの時間、スクリーンか手元のPCの発表者ツールの方を向いていた。


 中村はもう明らかに集中力を欠いていた。


 それは僕だけでなく、周りの大学院生たちにも伝わるほどに。最初のタイトルのところで斎田先生に止められたことを引きずったまま、スライドが終盤に差し掛かると、僕は心の中で必死に「もっと声を張れ、まだあきらめるな!」と叫んでいた。



 あんなことまで言われたのに、何故、ライバルである中村の応援をしているのかは自分でもわからなかった。でも、そうしないと僕の中からドス黒い感情が噴き出してきそうで、ただただ演台の上でどんどんと追い詰められていく同僚に声にならないエールをかけ続けた――――きっと、自分自身のために。



「……ありがとうございました。それではフロアから何か質問はありますか?」

 冷たいままの斎田先生の声に誰も口を開くものはいなかった。重苦しい空気が見慣れたゼミ室を違う空間かのように変えていく。


「……ひとつだけ。聞き逃したかもしれないのですが、"どのような生物学的な疑問があって"、この研究プロジェクトに取り組もうと思われたのですか?」


 新見先生が重たい空気を破って、短いたった一つだけの質問を口にする。自分の研究チームに所属している中村に、本当はいくつものアドバイスを送りたいのに、ぐっとこらえて黙ったまま、発表が終わるのを待っていた新見先生の出来うる最大の助け舟だった。


 ――気づけ! 頼む、気づいてくれ! お前が出してきたスライドは、学科ミーティングである程度、僕たちの研究室の紹介が終わったあとで最後の演者としてお前が発表したスライドで、最初のintroduction――着目している研究分野やその分野内に残っているギャップの説明がすっぽり抜け落ちてるってことに!


 僕は――たぶん、新見先生も――最後の最後、中村が最初のスライドに戻って、同じ説明を始めるまでの間、必死にそう願っていた。嘘、偽りなくただただ中村が持ち直して、はっきりと自分の言葉でそれに答えるのを期待していた。


 新見先生の身体の緊張が解けたのを確認したように、斎田先生が「ありがとうございました」とゆっくりと口を開く。



「……それでは、藤山君。お願いします」



 三月の冷たい雨が風にあおられて、薄暗いゼミ室の窓を叩いていた。



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