第8話 心に一つ、戦ってる"証"


 ――――四月。


 上星川の駅から大学に向かう長い長い坂の両脇に、まだ大学に慣れていない新入生の列と勧誘のために朝早くから待機しているサークルの部員たちが並ぶ季節になると、市街地よりも少し遅れて咲く大学構内の桜たちも満開になっていく。僕にとっては博士課程後期から数えて6年目、ポスドクとしては3年目の春がやって来た。


 研究室の入り口に掲げてある在室表は、斎田先生と新見先生、それにM2(修士二年生)の学生が二人、すでに登校していることを示していた。あれ以来どこか疎遠になっていた中村の所在を示す欄が『休暇中』になっているのを見つけて、心のどこかでほっとする。僕はまだ、以前のように接することができる自信がなかった。



 自分の書いた履歴書、これまでの研究概要と抱負、研究・教育実績表、それに5編までの代表論文のコピーを斎田先生の推薦状と一緒に封筒に入れ、簡易書留で郵送してから二週間、三月末だった公募の締め切り日から一週間が経っていた。


 書類選考の結果はいつぐらいにわかるものなんだろうか――なるべく考えないようにしてはみるものの、実験結果をパソコンで解析しようと自分のデスクに座ったその時だったり、プリントアウトした論文を呼んで赤ペンでチェックを入れたその時だったり、逃げ込んだ先の居酒屋で次の酒を頼んだその瞬間にだって、「面接の連絡っていつくらいに来るんだろうか」と、いつの間にか公募結果のことを考えている。自分でもそれがあまり良くない状況だとはわかっているものの、どうしようもなくて、あまり眠れない日が続いていた。



「フー・ジー・ヤー・マー……くんッ!」


「うっうわぁぁぁぁ!!」

 そんなことを考えていた時に突然背後から新見先生に肩を叩かれて、うろたえてしまう。

「おいおい、"うわぁぁ"とは何だよ。えっ、何!? 俺ってそんなに怖いの? ……ちょっと傷ついちゃうわ」

 その豪快で大柄な男は、頭をぼりぼりと掻きながらフーとため息をつく。

「そ、そんなことはないですけど……突然、何の用ですか?」

「ああ、中村が今、長期休暇中だろ? 学部生も院生もまだ春休みから帰ってきてないやつも多いし、藤山、ちょっと実験頼まれてくれね?」

 中村はあの模擬面接の次の週から一カ月間の予定で休みを取っている。多分、一緒に働くようになってから初めての長期休暇で、佐藤がいうには水上も一緒に休んでいるようだった。


「それは構いませんけど…………中村、大丈夫ですかね?」

 僕はうつむきながら、あの日、廊下の隅で泣いていた中村の姿を思い出していた。新見さんから目を逸らしたのは、彼女が新見先生の研究グループであることとも無関係ではない。誰にも譲れない――そう思っていたのにも関わらず、僕は少しだけうしろめたさのようなものを感じていた。


「さぁな。知らん」


「ッ!? "さぁ"って……」

「いいんだよ、ほっとけば。中村はああ見えてしぶといところを持ってるからな。放っておいても勝手にまた実験を始めるだろ。だから、お前は何も気にせず、お前の仕事をしろ。そうしていた方が、中村も何も気にせず戻ってこられるんだよ」

 (ああ、この人はそこまで考えて僕に中村の実験を頼んできたのか)と思うと、自分のことでいっぱいいっぱいになってる自分と比べてしまって、何故か恥ずかしい想いが込み上げてくる。



「それと――――お前、今、時間が余ると選考結果のことばかり考えてしまってるだろ?」



 僕はハッとして新見先生の顔を見る。新見先生はにやりと笑って続ける。


「おおかた、"自分は書類選考は受かったんだろうか"とか"面接の連絡いつ頃来るんだろうか"とか、"もしかして、書類選考落ちてしまっていて、他の候補者には連絡来ているんじゃないか"とか……どうせ、そんなところだろ?」


 図星だった。周囲にばれていたんだと思うと、恥ずかしさで顔が真っ赤になる。


「わかる、わかる。でもな、ちっとも恥ずかしいことなんかじゃないんだよ、それ。みんな、大学教員公募に応募したころある人間なら、みんな、そうなんだわ。俺もここに受かるまで十数件は応募したからな。いくつも思い出ある。

 それはな、教員公募に一つ出したら心に一つ湧いてくる、戦ってる"あかし"――――なんだよ」


 少なからず憧れている先輩研究者も同じように悩んでいたというその言葉に、脳が、身体の隅々が、細胞の一欠けらまで勇気づけられていくのがわかる。そうか、この圧し潰されそうなプレッシャーは僕だけじゃない、みんなそうなんだ、と。



「……まぁ現実的な話をするとな、


 大学教員公募の場合、『書類選考に落ちた』という連絡は、採用候補者が内定して採用手続きが始まらないと来ないんだよ。それどころか、大学によっては落ちた場合は一切連絡ない場合もあるくらいだ。

 でも、公募した側の大学の中では静かに、確実に物事は進んでいて、教員選考委員会での候補者決定のための会議が始まって、面接に呼ぶ候補者を決定したら、その上の教授会だったり理事会にかけて、そこで問題がなければ、今度は候補者たちの提出した応募書類の学内閲覧期間に入る。その間に、候補者たちに面接日の調整の連絡がいく――これがだいたい公募締め切り日から二、三週間。

 この間に連絡がなければ、書類選考に落ちたと考えるのが一般的だな。もちろん、各大学で選考プロセスは違うし、一カ月後に面接の連絡来ることだってあるから、あくまで目安……だけどな」


 締め切り日から二週間――――あと一週間しかない。


 急にみぞおちのあたりがきりきりと痛み始める。新見先生の言葉に勇気づけられる前に感じていた漠然とした不安感よりももっとはっきりとした焦燥感が胃を締め付けている。


「……さっきよりも"キツい"か? でもな、さっきも言ったけど、それはお前が、今、まさに戦ってる証拠だ。楽しめとは言わないけど、きちんと前を向いて戦ってる自分を、『お前は頑張ってるぞ』って認めてやれ。それは大事なことだぞ。これから先、ずっとアカデミアで戦っているために、な」

 そう言って、新見先生がぽんっと僕の背中を軽く叩く。さっきから僕を勇気づけようと言葉を選んで、でもちゃんと厳しい現実も伝えることを忘れないその態度に少しほろりとする。

「ま、それはそうと、実験よろしくな!」

「先生……」

 照れ隠しのようにそう言った新見先生の言葉を受けて、僕は渡された実験依頼に目を通す。


「………………あれ? ちょっと、ちょっと待って何これ!? 実験動物の飼育管理、サンプリング、手術、ウエスタンブロットにqPCR、はぁ!? 何この量!? これを全部僕が!? はぁ!!?」

 思わず叫ぶと、大柄のいい歳したおっさんがウインクして舌を出す。

「いや、だってさー中村と水上だけ長期休暇とか、マジでずるいじゃん? だから、俺もタエさん(彼女,看護師)と二週間ほどグアム行ってくるんで。新年度のあれこれは斎田さんにぶん投げたし、じゃ、実験は藤山、よろしくな!」

「い、いや、これ『よろしくな』って量じゃねー!! ……って、もう階段!? はやッ、逃げるのはやッ! ちょっと待て、オッサン!!」

 慌てて追いかけるものの、すでに新見先生の姿は見えなくなっていて、走って来た廊下の階段付近で斎田先生と出くわす。


「ああ、藤山君。おはよう……新見さんですか?」

「え、ええ。ちょっと」

 僕ははぁはぁと息を上げながら、誤魔化す。

「ふふふ、私も彼に突然色々とお願いごとをされましてね。今日の昼の便でグアムに行くらしいですよ、彼……ふふふ、うらやましいですよね。四月の教員なんて、科研費とか新年度の事務仕事で忙しいというのに……本当にうらやましいですよねぇ……」

 そう笑っている斎田先生の眼鏡の奥の目は全然笑ってなくて、僕はははははと愛想笑いをしながら、(一刻も早くここから離れたい)と思っていた。



 泣いても笑っても、あと一週間か二週間。そう考えると、またみぞおちのあたりがきりきりと軋んだのだけれど、僕は新見先生から依頼された実験をこなしながら、今はこの『戦ってる証』を大事にしよう――そう思った。



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