第7話 こんなにも苦しいことだったなんて (二)


 まだ9月だというのに、その日はとても寒かったことを覚えている。


 その年の学会の大会長の所属する大学がある北海道の小さな街の駅前のイベントホール。僕も所属しているこの学会の会期の最終日はいつも土曜日で、毎回半分くらいの参加者はもう帰ってしまっているか、ついでの観光に出てしまっていて、特に朝一番のポスター発表には人が集まらない。



 そんな人のまばらなポスター会場に――――その雪のように真っ白な顔をした女の子は立っていた。


 たぶん年は僕と同じくらいで、透けるように白い顔の中心で仄かに赤い唇が映えている。会場の吹き抜けの天窓から差す朝日に照らされて、茶色がかったように見えるその髪は肩のあたりで外側にはねていて、彼女が自分の研究を説明するために指示棒を持って動くたびに、さらさらと音を立てるように動く。


 時間が経つにつれて次第に増えていく聴衆のなかには、僕でも知っているような著名な教授がいたのだけれど、彼女はただの一歩もひるむことなく、よどみなく、はっきりと、まるで彼女の自信が伝わってくるかのように進んでいく。


 やがて彼女の説明が終わると、いつのまにかできていた人だかりから、拍手が湧き起こる。彼女が最後に「ありがとうございます」と言った瞬間、僕は不謹慎なのかもしれないけど、とても――――とても綺麗だと思った。




   『こんなにも苦しいことだったなんて (承前)』




「……それでは、藤山君。お願いします」


 3月の冷たい空気と重苦しい雰囲気が混ざり合ったゼミ室で、自分の名前が呼ばれたその時、僕は何故かあのやせっぽちの彼女のことを思い出してしまっていた。



「藤山タカユキです。よろしくお願いします。それでは始めます。


 私たち生物の身体を作っている器官や臓器、あるいはもっと小さな機能的細胞集団は、それらを構成するものは同じ細胞というものでありながら、それぞれの部位や集団に特徴的な機能を持っています。

 これらは実際にはそれぞれの器官や臓器が相互に、かつ密接に関わっているため、非常に複雑な現象です。ですが、仮にそれぞれをばらばらに切り分けて考えるとすると、一つは胚発生段階で形成される特徴的かつ機能的な形と、もう一つはそれらを構成する細胞が発現する遺伝子群によって規定されているように捉えられることもできます。

 特に、器官・臓器に特異的といってもいいほど強く、また他の部位ではほとんど発現が見られない遺伝子群が存在します。これらの特異発現遺伝子群はその器官・組織特有の機能に関連していると考えられています。


 しかし最近の精巣内の特異発現遺伝子群の研究では、これら特異発現遺伝子群の多くは精子形成および精子機能には関与していないことが報告されており、その生物学的な意義については不明な点が多く、個別に詳細な解析が必要であることが示唆されています。私はこのような器官・組織特異発現遺伝子群の中でも――――」



 この模擬面接が決まってから、佐藤と話をしてから、ずっと考えていた。あの、9月の北海道でみたあのプレゼンテーションは、ってことを。


 もちろんそれは一つ一つのしっかりとした実験データと、それらが一つのストーリーとして、まるで悠然と流れる大河のように少しの澱みや滞りがなく、聴いている人間に無理なく説明できることであると思っている。


 でも、それは大前提の話であって、ほとんどの研究者は当たり前に出来ているはずなんだ。


 それでも、聴衆の心に残る研究と、そうでない研究が存在しているのは何故だろうか。佐藤の言っていた『まったく自分のことを知らない相手』に、『自分の研究を好きになってもらうように』話せる研究発表と、そうでない研究発表の違いは一体何なのだろうか、と。


 そう考えていくうちに、彼女が一つ一つの実験データを手元の原稿やポスターのテキストなんて見る必要もなく、自信たっぷりに話していたことと、聴衆からの細かい質問のなかで見せたバックデータの多さに気がついた。


 僕たちが"大前提"と考えていた実験データの収集の部分で、何度も何度も再現性確認を行って、一つの実験だけじゃなく、別の角度から見た実験でもそれを確かめて、それらは論文にはでない、あるいはsupplemental information(補足情報)となるようなバックデータなのかもしれないけど、その一つ一つが彼女に自信を与え、結果として、彼女は目の前の聴衆たちに集中して話すことが出来ていた。



 ――――結局、簡単なことだったんだ。


 日々自分の研究にしっかりと向き合って、着実に実験データを収集し、それをまとめて、聞いてもらう人のために、しっかりと伝えるための準備を、練習をする。相手に『自分の研究を好きになってもらう』のには、まず自分がそれを好きになれるまで理解しないといけないし、びくびくおどおどと話していたって、それは伝わらない。

 

 だから、その日から今日までの間、僕は図や写真、グラフの元になった実験ノートのページを何度も見直して、出来上がった発表スライドを使って、誰もいないゼミ室で何度も何度も一人で練習を繰り返した。何度も、何度も。



 勝ちたい。


 何としてでもこのコンペティションに勝って、常勤の大学教員としての第一歩につなげたい。そして――あの学会で優秀発表賞を取った彼女が立っていたのと同じ領域に立って、その景色を見てみたい。そう、僕は思ったんだ。



「……ありがとうございました。フロアからご質問は?」


 斎田先生の声がゼミ室に響く。大学院生がいくつか技術的な質問をして、僕はそれを丁寧に返す。新しく配属された学部学生たちは僕のスライドを見て必死でメモを取っているが、手を挙げる様子はない。新見先生は額に手を当て、何か考え事をしているようにテーブルの上を見ている。



「……それでは最後に私から。君は、のですか?」


 大学院生たちや新見先生が驚いたように反応して、ゼミ室がざわざわとする。僕自身も公募に応募したいと思ったからこそ、この模擬面接をしているのであって、わざわざその質問が来るとは考えていなかった。


「発表の研究内容紹介とは少し外れるかもしれませんが、あなたの研究内容は横浜工業大学斎田研のなかで上手くまとまっているようにも見えます。それなのに東都大学医科学研究所細胞生物学講座の教員になりたいと思う理由は、何ですか?」


 突然の一般的な質問に、まだゼミ室はがやがやとしたままだった。でも、斎田先生の目は真っすぐに僕の目をとらえたまま離そうとしていない。教授のその真剣な顔を見て、僕はこれは一般的な就活用の上辺の言葉ではなく、真剣な自分の言葉で答えないといけない質問だと、そう理解した。


「……現在進めている私の研究内容を、吉田研の豊富な研究ツールや設備を用いて発展させるとともに、これまでの研究手法を吉田研の研究対象に拡大してみたいというのが、私の今回の応募動機です。

 私の所属する横浜工業大学には大規模な動物飼育施設がないため、どうしても哺乳類を使った個体解析の部分で、実験が手薄になりがちです。また、その解析ツールも十分ではありません。これまでの研究結果で明らかになった点を、吉田研の個体の表現形解析、特にライブイメージング技術と組み合わせることで、さらなる発展が期待できるのではないかと思っています。また、同時に私が現任地で行ってきた研究手法を、吉田研がメインで行っている研究対象に拡大することも、自分がこれまでに培ってきた手技、経験で可能だと思っており、こちらにも興味があります」


 斎田教授は「ありがとうございました」と静かに言うと、一瞬だけ、目を閉じてから「……他にありませんか?」と続けた。ゼミ室がまた静かになる。


「それでは今週のラボミーティングは以上です。中村さんは来週の月曜日の朝9時に教授室に、藤山君は9時半に来てください。それではこの後、このゼミ室は鈴木研が使うそうなので、大学院生と学部生の皆さんで片付けをお願いします……新見先生はちょっと教授室へ。よろしいですか?」


 斎田先生は誰も手が上がらないのを確認してから、そう言うと新見先生と一緒にゼミ室を後にする。僕は――きっと中村も、その二人の後ろ姿を不安な気持ちのまま、見送った。



 次の週の月曜日は3月も後半だというのに、とても寒くて、都内でも雪がちらつくところがあるらしい。僕は厚手のセーターと黒のダッフルコートを着込んで、ポケットに手を突っ込んだまま登校する。何人かの大学院生がもう出てきていて、僕はどこかそわそわしながら、一言、二言、挨拶を交わす。


 9時30分になって、教授室のドアを開けるといつもの通り、スーツ姿の斎田先生が待っていた。デスクの椅子から立ち上がり、僕の近くまできた斎田先生の手には大学の名前の入った封筒が握られていて、それを手渡される。裏には厳封の判子が押印されている。


「……よく出来た発表でした。本番もしっかりと頑張ってください」


 その瞬間、手に持ったその薄っぺらい封筒がぽかぽかと温かく感じて、胸のあたりがふわふわとする。僕は「ありがとうございます!」と頭を下げ、封筒をお腹のあたりで抱きかかえたまま、教授室を後にする。


 自分のデスクのあるスタッフ部屋に戻ろうとしたその時、廊下の隅、ロッカーの陰になっているところで、僕の目に入ってきたのは


 ――――声を上げて泣いている中村とそれを黙って見守る水上だった。



 その瞬間、僕は新見先生の言葉を思い出す。


『誰かの想いや思惑をその身に受けつつ、確実に誰かが働いていた居場所や、誰かが渇望していたポジションを奪い取って生きていく。教員を望んでる人数より、用意できてるポストの数が少ないんだから、それは確実にだ』


 ついさっきまでふわふわと温かく感じていたあの封筒が、今度はずっしりと重くのしかかる。僕が勝ったということは、中村の望んでいたポジションを奪ったということなんだという現実を突きつけられて僕がうろたえていると、僕の姿に気づいた水上がきっとこちらを睨みつける。


 僕はその敵意の込められた視線を受けて、スタッフ部屋とは逆方向の階段に向かって走り出す。


 そのまま建物の外に出ても、走って走って、走って――息が上がって、足がもつれたりしながら、大学の前の長い坂道を上星川の駅の向こう、あの川べりにある広場まで走った。心臓がばくばくと周りの車の音よりも大きく聞こえるような悲鳴を上げて、僕を締め付ける。



「何なんだよ、そんなに後悔するなら、何でもっと練習してこねぇんだよ!!」

 やっとの思いでたどりついた誰もいない広場で僕は声を上げる。

「何だよ、学科ミーティングのスライド使いまわして、それさえもまともに説明できないでいるとか、なめてんのかよッ!! 何でそんなに練習してこねぇんだよ! そんなんで負けたから恨むなんて、ホント何なんだよッ!!」

 そう叫んだのと同時に、気持ちが悪くなって朝に食べたものを地面にぶちまけた。


 僕は知らなかったんだ。


 戦うことが、勝つことがこんなにも苦しいことだったなんて。研究者のポジションを勝ち取るということは、誰かの居場所や望んだものを奪い取ることで、それがこんなにも苦しいことだったなんて。




 でも、それと同時に僕はそれでも誰にも譲りたくない――――そう、思ったんだ。



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