『文車妖妃』

「ここですか?」

「ああ」

「どうするんです、オートロックですよ」

「あやかしにそんなもの関係あるものか」


 タカラはそのまま自動ドアの前に立つ。すると、勝手にドアが開いた。


「こっちの部屋だ」


 エレベーターに乗って、タカラは迷いもなく廊下を歩いて行く。菜奈と白玉はその後を追う。そしてとある部屋にたどり着くと、タカラはその部屋のドアノブを掴んだ。バチッと不自然な音がしてドアが開く。


「行くぞ、なにしてる」

「あ……はい」


 今のは鍵を壊したのだろうか、完全に不法侵入だよね、などと考えている菜奈をタカラは急かした。


「やはり……」

「あっ!」


 そこには男性がうつ伏せに倒れていた。


「この人……あの写真の……」

「菜奈さん、近づいてはいけません」


 駆け寄ろうとした菜奈を白玉が制止する。その間にタカラが床に落ちていた何かを拾った。


「大本はこれか……」


 それはピンク色の可愛らしい封筒と便せん。ただ異様なのは、それが床を埋め尽くすくらいに1DKの部屋を占領していたことだった。


「う……」


 その時だった。倒れていた男性が呻いた。菜奈は部屋の隅からその男性に声をかけた。


「大丈夫ですか?」

「ううう……」


 すると男性はうめきながら起き上がった。良かった生きていた、と菜奈がほっとしたのも一瞬、ずるずるとその男性の髪が伸びていく。顔は歪み、口は裂けるように大きく開かれ、引き摺るような女物の着物を頭から被った姿に変化した。


「鬼……!」


 白玉は耳と尻尾を現して、菜奈の前に立った。


「はぁ……はぁ……人……」


 その口からだらだらとよだれを流し、鬼は菜奈をぎょろりとした目で見据えている。


「その肉を寄越せ!」


 そしてダンッと床を蹴り上げて、菜奈に飛びかかってきた。


「きゃあ!」


 菜奈はあまりの恐ろしさに壁まで後ずさった。白玉はそんな菜奈を庇うように覆い被さると、牙を剥きだしにして鬼に向かって叫んだ。


「ナウマク・サマンダ・ボダナン・キリカ・ソワカ」

「ぐ……」


 白玉の唱えるなにか呪文のようなもので、鬼の足が止まる。


「どけ、猫又ふぜいが……」

「ただの猫又と侮るな。白玉は富岡八幡の出世稲荷の加護をうけた猫又だ」

「ぐぐ……」


 何か見えない膜のようなものが、白玉と鬼の間にあるようで、鬼は菜奈に近づけないで居る。鬼は必死にそれを打ち破ろうともがいている様子だった。


「そんなに菜奈の肉が欲しいか」


 その時である。静かに、しかし怒りを孕んだ声が部屋に響いた。


「生まれたてのあやかしには人の肉は容易に力になるからなぁ……ただ、菜奈は俺のものだ。残念だったな」


 そう言うタカラは犬神の姿に変化すると、もがく鬼の頭を後ろからつかんだ。


「……なぁ、『文車妖妃』ふぐるまようひ

「ぎゃあ!」


 タカラに鷲づかみにされた鬼はバタバタともがく。タカラは弄ぶようにブンブンとその鬼を振り回した。目の前で鬼になったものの、元の倒れていた男性の姿を見ていた菜奈はぎょっとしてタカラに向かって叫んだ。


「タカラさん! ちょっと! その人どうする気ですか!?」

「この鬼は『文車妖妃』と言う。女の手紙に宿った執心が、この男にとりついて鬼に変えた」

「でも、その人被害者ですよ」

「ああ……だからその執心は俺が食らってやる」


 タカラの髪が、ざわりと逆立つ。ぐんぐんと牙が、爪が大きくなり、部屋を埋め尽くしそうな巨大な犬がそこに姿を現した。


「があああああ!」

「タカラさん……」

「菜奈さん、あれが犬神の本当の姿です」


 人の姿の片鱗はもう無い。菜奈はタカラの姿に恐怖を感じた。そんなタカラは口を大きく開けると頭から文車妖妃を飲み込んでしまった。


「タカラさん!?」

「菜奈さん、大丈夫ですよ」


 巨大な犬の体内に鬼が飲み込まれたのを見て、菜奈は立ち上がった。その肩を白玉は掴んで宥めた。


「うああああああっ! があああああっ!」


 タカラは呻きながら苦しげに身をよじる。その声はタカラの声そのもので、巨大な犬の化け物の姿に最初は恐ろしいと思っていた菜奈も、だんだん彼が心配になってきた。


「タカラさん、タカラさん!」

「うう……」


 白玉に制されて、菜奈はただタカラの名を呼ぶことしかできない。しばらくするとタカラは口からベッと何かを吐き出した。それは元の男性の姿に戻った先程の鬼だった。


「もう……大丈夫だ、菜奈」

「タカラさん!」


 菜奈は白玉の制止を振りほどいて、タカラに駆け寄り、巨大な犬の姿のまま息を荒くしているその胸に抱きついた。


「大丈夫ですか?」

「ああ……菜奈。俺が恐ろしくはないのか」

「それは……」


 確かに最初は恐ろしいと思った。だけど何故だか菜奈にはもう恐怖心は無かった。


「足手まといになって……何もできなくてごめんなさい……」


 無理について行くと言ったのは菜奈だ。こんなことになると、タカラはある程度予測していたに違いない。菜奈はタカラの胸の被毛に顔を埋めた。


「いい……名前を呼んでくれたろう……タカラ、と」

「名前くらい……名前」

「ああ……」

「タカラ……たから……」


 菜奈の中でパズルのピースがひとつ、ぱちりと嵌まった。


「たからなの……?」

「そうだよ。菜奈がつけてくれた名前だ。大事な物だから『たから』、と」

「あ……」


 この毛の感触、日向のような匂い。菜奈は昔、悲しいことがあるとこうして顔を埋めていた。


「どこに行っていたの……すごく探したのよ……」

「ごめん……」


 そう、あの日。母を喪った葬儀場で出会った一匹の犬。菜奈はすっと寄り添ってきたその犬を拾って『たから』と名付けた。母のことを思い出した時も、学校で嫌なことがあった日も、そばに居てくれた薄茶の犬。ところがある日ふっと姿を消してしまった。


「また会えるなんて……」

「また会う為に……離れなきゃならなかったんだ」


 タカラはそう言うとするりと菜奈から離れて人型に戻った。


「ごめん、菜奈」


 そう言って、泣きそうな顔で笑いながら。

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