アルバイト初日です

「はあ……なんてことになってしまったんだろう」


 家に帰った菜奈はコスメボックスの前の鏡をのぞき込みながら首元の模様を何度も確かめていた。こすっても、爪でカリカリとしてもとれそうにない。良く見ると、入れ墨ともまた違っているようだった。


「こんなものが付いちゃって……」


 菜奈はクローゼットの中からスカーフを取りだした。それをくるりと首に巻く。


「こうするか、ハイネックの服を着るしかないわね……本当に三ヶ月で取ってくれるのかな」


 菜奈は一瞬心配になったが、なんとなくタカラは嘘は言ってない気がした。


「猫カフェ店員かー……まだ失業保険あったんだけど。しかたないね」


 本音を言えば、ただ家でごろごろするのにも少々飽きていたので、猫ちゃん付きのちょっとしたアルバイトなら大歓迎なのだが……。


「……お嫁さんって」


 菜奈は自信満々でそう言い放ったタカラの顔を思い出した。


「口説く……って」


 菜奈がバイトをする三ヶ月の間に、タカラは菜奈を口説く。確かにそう言った。一体どうするつもりなんだろう、そう考えると菜奈はなんだか頬が熱くなっていくのを感じた。


 そう思い悩みながらも次の日が来た。菜奈は白いシャツにスカーフを巻いて猫カフェ「いぬがみ」へと向かう。


「おはようございます」


 そう菜奈が言いながら猫カフェの中に入ると、すでに白玉は出勤していた。


「菜奈さん、おはようございます。このエプロン使ってください」

「はい」


 白玉から菜奈は焦げ茶色のエプロンを渡されて、それを身につける。


「では、まず清掃からお願いします。ここからこのへんまでを」

「はい」


 フロアに掃除機をモップをかけて、テーブルなどは消毒して拭き掃除。なんだ、普通だなと思いながら菜奈は仕事をこなしていく。


「うむ。感心感心、働き者なのにゃ」


 せっせと掃除する菜奈にキャットタワーの上からのんびりとした声が聞こえてきた。黒猫のカリンだ。


「おや、驚かないのかにゃ」

「……なんか昨日でなれちゃいました」

「そうかー、つまらんにゃー」


 カリンはごろんと腹を出してしっぽをゆらゆらさせた。


「ほれ、なでてもいいにゃ」

「仕事中なので」

「……真面目なのにゃ、菜奈は」


 カリンはちょっとむくれた様子でぺろりと前足を舐めた。


「カリン、新人いびりはよしなさい」


 すると白玉がやってきて、容赦なくカリンをキャットタワーから引き摺りおろしてコロコロをかけた。


「にゃにゃ! 暴力反対! 人権侵害にゃ」

「……人に変化できるようになってからそういうことは言いなさい」


 白玉はそう冷たくカリンをあしらうと、奥のスタッフルームへと消えて行った。


「ねぇねぇ、菜奈。お掃除はもういいよ!」


 そう菜奈に声かけてきたのはぶち猫のアズキだ。彼女はふわふわの長毛猫である。


「それより、腰のあたりになにかひっついてとれないのー。見てくれない?」

「はい……あら、シールが」

「嫌だわ。いつのまについたのかしら。いやぁねー」


 菜奈はきょろきょろとカフェの中を見渡した。シールなんてついている所は……。


「……ああ、カウンターのメニュー表につけたシールかしら」

「わあやだ……早くとって。そっと、そっとね……」

「はいはい」


 菜奈はアズキのキレイな毛が引っこ抜けないように、慎重にシールを剥がした。


「取れましたよ」

「ありがとう」


 アズキはおでこをコツンと菜奈に擦り寄せると満足そうに去っていった。菜奈は思わず頬が緩みそうになる。そんな菜奈の背中をポンと肉球で叩いたのは虎猫のキリだった。


「菜奈殿、そろそろ開店時間だ。掃除道具を片付けた方がいい」

「あ……そうね。ありがとうキリさん」

「む……俺の名前を覚えているのか」

「ええ、皆さん挨拶してくれたでしょ。黒猫がカリンでさっきのはアズキで、そちらの灰色猫さんはマイケル」


 菜奈が猫たちの名前を呼ぶと、それまで遠巻きに見ていたマイケルが寄ってきた。


「僕の名前を覚えてくれてありがとう。僕はロシアンブルーと日本猫のハーフなんだ」

「キレイなグレーね」

「ああ、ママ譲りさ」


 菜奈はマイケルににこっと微笑みかけるとその頭を撫でて立ち上がった。


「皆さん、今日からよろしくお願いしますね!」

「にゃーあ」


 菜奈の挨拶に猫たちは一斉に答えた。


「さて、掃除道具を片付けないと……」


 菜奈は掃除機とモップを持ってスタッフルームへと向かった。すると白玉は一人でお茶を飲んでいた。


「……あ、掃除終わりましたか」

「はい。白玉さんも今日からよろしくお願いします」

「どうも。仕事内容は働きながらおいおい教えていきますね」

「分かりました!」


 元気に挨拶する菜奈を見て、白玉はなぜだかため息をついた。


「あの……もうちょっと肩の力を抜いていいんですよ」

「えっ、あ……」

「ここはのんびり猫とお茶を楽しむ店なので」

「そ、そうですね……」


 気合いと根性と奉仕の精神を、がモットーのブラック企業出身の悪い癖が出てしまっていたらしい。菜奈はちょっと恥ずかしくなった。


「すみません……」

「謝らなくてもいいですよ。ちょっとそのテンションだともたないかもって思ったんで。ほら、よく考えて。まだオーナーも出勤してないんですよ」

「あ、本当だ……」

「まあそのうち来ると思いますけど……」


 白玉にそう言われて、菜奈はタカラがまだ姿を現してないことに気付いた。三ヶ月の間に口説くと豪語する割に初日からこれである。


「じゃあ、そろそろお店あけましょうか」

「はい」


 時刻は十一時。定刻通りの開店である。白玉は店の表に出ると看板の下の「CLOSE」をくるりと「OPEN」にひっくり返した。


「それでは、猫カフェ『いぬがみ』開店です」

「はーい」


 こうして菜奈の猫カフェ店員一日目は、肝心のオーナー不在のままスタートしたのだった。

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