化け猫カフェ『犬神』へようこそ!~コーヒー香る街・清澄白河ものがたり~
高井うしお
犬の猫カフェ屋さん
「菜奈、菜奈」
誰かが私を呼んでいる。ここは……ああそうか、あの日の葬儀場だ。
母の棺が焼き場の焼却炉に入れられると、菜奈はなんだか母の死が現実のものではないような気になってしまった。うなだれる父を置いて、青くさい雑草の緑に囲まれた葬儀場で私は誰といたんだろう。
「……ずっと一緒にいてくれる?」
そう言うと――その子が頷いた気がした。あれは一体誰だったんだろう。
***
菜奈は、その日また五時に目が覚めてしまった。何か昔の夢を見ていた気がしたが、もう覚えて居ない。
「あー、もう。こんな時間に起きる必要ないのに」
目覚まし時計を見て文句を言う菜奈。彼女の無職生活二ヶ月目の事である。身についた習慣というものはげに恐ろしいものだと菜奈は思った。
「もうちょっと寝よう……」
菜奈はごそごそ布団に潜り込んだ。
「ふいー、お布団さいこぉ」
菜奈はこれくらい大目に見て欲しい、と思った。この約五年間、朝五時に起きて夜の十時まで働くという生活を続けて来たのだ。そんな生活を続けていると、風邪や体調不良がやたら増えたかと思うとある日バタリと職場で気を失ってしまったのである。
「その病人に向かって『明日来られるよね』だもんねぇ……」
いい加減職場に嫌気の差した菜奈はその言葉を聞いた瞬間に退職を決意した。そうして今、無職を漫喫しているのである。しばらく貯金と退職金、それから失業保険でだらだらしてやるーと菜奈は決意しつつ、再びまどろみのなかに吸い込まれていった。
「……お腹空いた」
しばらくして菜奈は空腹で目を覚ました。時計は十二時を回っている。残念ながら菜奈は一人暮らしでご飯を作ってくれる人はいない。仕方なく恋しい布団から出る事にする。
「カップ麺があったはず」
パジャマにパーカーの姿で台所を漁るが、どうも見当たらない。ふとテーブルの上を見るとそこには最後の買い置きのカップ麺がからっぽで鎮座していた。
「仕方ない、散歩ついでにお昼ご飯食べよう」
菜奈は着替えて軽く化粧をすると、スニーカーをつっかけて外に出た。
「うーん、気持ち良い」
季節は春。柔らかい日差しがポカポカと降り注いで、あたたかい。菜奈の済むこの街は深川の清澄白河という所で寺院も多い静かなところだ。そして近頃は美術館や公園のまわりにお洒落なカフェが点在する不思議な雰囲気の街になってきている、
「ランチ……」
このあたりにはけっこうあちこちに美味しい店がある。菜奈は最近おきにいりのインドカレー店、『ナンディニ』に向かった。ここは南インドのカレーが食べられるのだ。南インドのカレーは野菜が豊富で味付けも優しく、いくらでも食べられそうだ。お米もこだわりのインド米でカレーによく合う。
「ごちそうさまー」
菜奈はそのままプラプラと散歩をする事にした。そんなことをするようになったのも、退職してから。新卒からこの街に住んでもう長いけれど、忙しすぎてこんなノンビリと家の周囲を見て回る事は無かったのだ。
「ランチの後は~お茶でもしましょうかね~」
菜奈は開放感からちょっと不審者一歩手前のようにふらふらしながら気の向くままに足を伸ばした。
「……何これ」
菜奈はふと足を止めた。と、いうのも住宅街の突き当たりの辻には不釣り合いなものがそこにあったからだ。
「猫カフェ……まじで?」
菜奈が凝視している看板には『猫カフェ いぬがみ』と書いてある。猫なのか犬なのかよく分からないな、と菜奈はドアを覗き混んだ。
「ほ、本当に猫がいる……」
その次の瞬間、菜奈はその猫カフェのドアを開いていた。菜奈は動物ならなんでも大好きだった。
「いらっしゃいませ」
二重ドアを開けてくれたのは長い黒髪の着物姿にエプロンの女の子だった。菜奈は一瞬ぎょっとしたけれど、彼女にはとても似合っていた。
「まず、こちらで手を消毒してください。あと、ワンドリンク制で30分700円の自動延長になります」
「はい」
そう、着物の従業員に丁寧に説明を受ける。菜奈は言われるがまま、手を消毒した。
「飲み物は何にしますか?」
「あ、じゃあ珈琲で」
「かしこまりました」
中に通された菜奈はあたりをキョロキョロと見渡した。部屋の中には四匹の猫が思い思いにくつろいでいた。客は今の所菜奈しかいない。
「猫……猫ちゃーん……」
菜奈は目の前の黒猫に恐る恐る手を伸ばした。もふっと指が毛に埋まる。
「おおお~、猫ちゃん……」
菜奈はただただ鼻の下を伸ばして猫を撫でていた。
「その子はカリンと言うんですよ」
「おはっ」
無心に猫を撫でているところに急に声をかけられて、菜奈はへんな声が出た。
「こちら珈琲です」
「あ、はい」
さっきの女の子にカップを渡される。蓋付きのマグカップは猫と移動してもこぼれないようにしてあるらしかった。菜奈は何気なくカップの珈琲を一口飲んだ。
「……美味しい」
こういう所の珈琲だから味は期待していなかったのに、香ばしい香りとコクのある淹れ立ての珈琲だったのだ。
「これはいいとこ見つけたかも」
ゆったり猫とまったりできて、しかも珈琲も美味しい。珈琲党の菜奈にとってはここはまるで天国のようだった。
「おやー、お客さんか」
菜奈が置いてあるソファーで猫を眺めながらくつろいでいると、外から誰かがやってきた。声のした方を見て、菜奈は珈琲をこぼしそうになった。
「……いらっしゃいませ」
そう菜奈に会釈したのは、長めの髪はちょっとぼさぼさとしていたけれども、切れ長の目をしたイケメンだったのだ。
「……はい」
菜奈は顔がかーっと熱くなるのを感じていた。
「どうも、オーナーの犬神です」
「あ、お店の名前……オーナーさんの名字なんですか」
「そうです。安易につけたから何カフェだか分からなかったでしょう」
そういって明るく笑う、犬神。菜奈は何とか受け答えをしたものの、これで合っているのか分からなかった。どぎまぎとしてあたりを見渡すと、ある張り紙が目に入った。従業員募集の張り紙である。
「……あれ……」
「あれ、気になりますか?」
ニッコリと犬神は微笑んだ。その微笑みに菜奈は口ごもってしまった。
「は……あの、いや……失業中ではありますけど」
「そうですか、うちは大歓迎ですよ」
「あの履歴書とか」
「いいですよ、そんなの」
菜奈のよく分からないうちに話がどんどん進んで行く。気が付いたら週明けからここに通うことが決まってしまった。
「それじゃ、準備をしないと」
「準備ってなんの準備ですか?」
菜奈が犬神に質問すると、犬神は菜奈の手をとった。
「猫カフェの猫の気持ちをよく分かって貰わないと、ね」
そういって犬神は菜奈に突然キスをした。菜奈は訳が分からず目を白黒させて犬神の手を払った。
「な、なにをするんですか!?」
「ほら、張り紙を良く見て」
「え?」
菜奈が言われた通りに張り紙を見ると、『従業員募集』の下に小さく『お嫁さん募集』と書いてあった。
「!?」
「……ね?」
「ね、じゃないですよ!」
菜奈は思わず犬神をどなりつけた。すると、その時後ろから声がした。
「だーから言ったこっちゃにゃいにゃ」
菜奈は振り返って絶句した。そこには黒猫のカリンしかいなかったのだ。
「犬神様は強引すぎるのにゃ」
「ね、猫がしゃべった……!」
「そうにゃー、よろしくなのにゃー」
その声を聞きながら、菜奈は気が遠くなっていくのを感じた――。
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