依頼 其ノ参 【真冬の鬼灯】チョコレートは濃厚で甘くて ときどき苦くて

 ホオズキ。地下茎、及び根は酸漿根さんしょうこん という生薬名で呼ばれている。

 ナス科植物の例に漏れず、全草に微量のアルカロイドが含まれている。特に酸漿根の部分には子宮の収縮作用があるヒストニンが含まれており、妊娠中の女性が服用した場合、流産する恐れがある。

 平安時代より鎮静剤として利用されており、江戸時代には堕胎剤として利用されていた。現在でも咳や痰、解熱、冷え性などにも効果がある民間薬として、全草を干して煎じて飲む風習がある地方が存在する。



 ******


 迎えた扉を開けた時にご近所さんからの音が、耳を擽る。

 どこか小気味いい音楽と乾いた空気に甘い香の匂いが記憶を呼ぶ。俺の心の隅に置かれた何かがこの時を待っていたんだ。忘れていた記憶は引きずり出されほくそ笑む。これはね、忘れていたわけじゃない。逃げていただけなんだ。俺は自分に甘く、自分にだらしがない。ただ、それだけなのだ。


「鴻野さん…… 大変失礼なのですが、私はあなたの旦那さんに心当たりがないのです」

 俺は失礼がないように言葉を探りさぐり丁寧に選んだ。これが正解か不正解か分からなくて、俺は女性の表情を恐る恐る見る。表情ひとつ変えずに女性は俺の顔を澄んだ目で見てくる。時折、ゆっくりと瞬きされる長いまつ毛が揺れ、開かれた瞳さえも潤んで揺れているように見えた。


「……本当に失礼ですわね。ですが、それが正しいお言葉なのでしょうね」

 そう言って女性が少しだけ表情を柔らかくする。


「鴻野様の奥様。それはいったいどういうことなの?」

 西口がゆっくりとした口調でテーブルにお茶とお茶請けを用意する。


「良い天気とはいえ、外はとても寒かったでしょう? そんな場所ではなんでしょうからおふたりともこちらへどうぞ」

 賢太郎が丁寧にお辞儀すると椅子を引く。それを見て女性がゆっくりと歩み寄り賢太郎が誘導する椅子に腰を掛ける。女性が腰を下ろすと俺はその前に置かれたソファーに腰を掛けた。


「すいません。まったく私は気が効きませんね。ところで先程の言葉はいったい。どうして私が分からなくて当たり前なのでしょうか?」

「大丈夫です。そんなにお気になさらないで。……ええ。鴻野というのは私の姓でございます。ですから主人の旧姓は違うものですから」

 なるほどね。それは分からなくて当たり前だろうな。


「主人の旧姓は寺岡と申します」

「寺岡……」

 旧姓を聞いて俺は驚きが隠せないで言葉につまった。高校生のあの時間に引き戻されそうになった。青い空の下で風を切って走る姿に。寺岡という名に。あの無邪気な笑顔に。


「和弥の奥様だったのですね」

「ええ」

「和弥は…… 彼は元気なんですか?」

「ええ、それはもう。先日、日本に帰って京都のご実家に問い合わせたのですが、蜂谷さんが京都にはいらっしゃらないとお聞きして。お母様からこちらの住所を聞いて主人はどうしても貴方に会いたくて年賀状を送ったのです。ですが、昨夜急に大事な仕事が入ってしまって、今頃は……そうですね成田空港にいる頃だと思います。それで私がこちらに伺ったというわけです。驚かせるつもりはなかったのですが、急のことでこちらの事務所の電話番号も分からず、私が代わりに」

「そういう事だったんですね」

「ええ。ですから言付けだけをお伝えに上がった次第ですの」

「それは急ですね。俺も和弥にとても会いたかったです」

「そうですか。貴方との学生の頃のことを…… よく主人が思い出を楽しそうに私に語ってくれます。それは本当に嬉しそうに」

「……そうですか。嫌われていなかったんですね。俺は」

「蜂谷さん…… 主人は蜂谷さんに会ったことで楽しい時間と学生生活を送れたと笑って言うのですよ。嫌うなんて滅相もないです。その反対ですよ。自慢できる親友だと聞いています」

 俺は嫌われていなかったんだ。それだけで鼻の奥がつんとした。

 和弥の奥様が帰った後に俺は何かを思い出す。胸の奥の濁りきったよどみが溶けていくようだった。思い立ったら吉日。今会わないでいつ会う気だ? 今のこの気持ちでまた時が流れてしまえば忘れてしまうのだろう。この想いに今度は次はいつ会えるんだよ。そう思った俺は大きな音を立てテーブルを叩いていた。


「うん……今からならまだ間に合うな。亡くなった兄さんに会ってくる。京都の実家にもちょこっと顔を出してくるよ」

 腕時計を見ると俺は壁にかけたコートとストールを手にする。それをテーブルに一度置くと靄がかかったあいつの顔がゆっくりと鮮明に思い出された。それと、やっぱりきちんとしなければいけないと感じていた。蟠りがあるから夢を見るんだ。知らないなんて横を向いたままでは、これから先が思いやられる。


「西口……」

「え?」

「こんな俺に、今まで着いてきてくれてありがとな」

「え? ……彰さん? 何言って……るの?」

 ジャケットに袖を通して彰は今までに見せたことのない笑顔で、小さな箱を西口の居る場所へ柔く弧を描くように投げる。それを慌ててキャッチすると西口は彰のいた場所を見た。からんという音が聞こえ冬の冷えた空気が変わりに西口の頬を撫でた。


 小さな箱を手のひらに乗せたまま、しばらく身体が沈んでいくように床にぺたりと座った西口が閉まった扉を見つめていた。


「ちょこっと京都って……どういうこと? これは何? 手切れ金みたいに渡したこれって? ありがとうってどういうこと? それじゃ何? もうここに帰らないみたいな言い方じゃない! 彰さん……どういうことなの?」


 同じ場所でぐるぐる廻るように西口は早口で誰に言うわけでもない言葉を吐き出す。そんな西口を黙って見ていた賢太郎が先に痺れを切らして西口の側で声をかけた。

「ルイくん。蜂谷さんを追いかけなくていいんですか?」

「賢太郎、それは他人が言うのは野暮ってもんでしょ?」

「ですが…… 橘さん」

「西口ボーイ。その箱に見覚えはありますか?」


 きちんと包装された手に収まる箱は西口が前にわがままを言った物だった。

 ショコラテ ロミ・ユニの可愛らしい家のかたちをした箱に入ったボンボンショコラに西口が惚れ込み食べたいと店の横で駄々をこねたチョコレートだった。若宮大路にある人気ジャムのお店のいがらしろみさんのお店なんだそうだ。西御門の閑静な住宅街の奥にある一軒家でまるで知り合いの家を訪ねたような気分になる親しみのあるお店。お店にはキュートな箱が棚にたくさん並び、店のモノ全部ください! と言いたくなること間違いなしだろう。ショーケースの中をキラキラと丁寧に造られたボンボンショコラが贅沢に並ぶ。一粒から手軽に買えるのも嬉しい。その中でもチョコレートをまとったサブレに西口の心が虜となった。可愛らしいモノと甘いモノは性別も年齢も関係なく心がホッとする。彰は西口にナイショで買いに行ったのだろう。照れ屋で不器用なのに、と賢太郎と橘が微笑んだ。


「彰さん、僕があの時わがままいったの覚えてたんだ」

「本当にあの方は。とても粋な計らいですね」

「西口ボーイどうされますか?」

「徹さん! 彰さんは何処に行くって言ったの」


「新幹線に乗るために新横浜まで向かうそうですよ」

「新横浜だね。分かった!」

「今から新横浜まで行く気ですか? ならばワタクシが車を出しますか」

「橘さん。車が混み出す時間になる前に急いで」

「ありがとう。賢太郎」

「徹さん…… 車をお願いできますか?」

「もちろん。ボーイの頼みならば」

「ねえ、賢太郎さんは?」

「私は御三方が帰られた時に美味しいものをすぐに食べられるように。腕をふるってごちそうをご用意して待っていますよ」

「わかった。おなかいっぱい減らして帰ってくるからね」

「ええ。御二方とも気をつけて行ってください」


 橘が西口のコートと自分のコートを手にするとふんわりとした笑顔をこぼす。


「ボーイ。大丈夫ですよ。蜂谷さんは今は此処が我が家だとおっしゃっていらっしゃいました。ですから、必ず大丈夫ですよ」

「……うん」

 車がゆっくりと落ちていく陽を追いかけるように走る。西口の手に小箱があるのを橘は確認すると静かに微笑んだ。



「しまったな。俺…… 終点駅まで起きない自信ある」

 電車の揺れに俺は弱い。休みの日に乗る江ノ電を二往復しかけたことがある。これは自慢じゃない。断じて違う。そう思った俺は座席に座らずにゆっくりと陽の落ちていく外を見つめていた。

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