依頼 其ノ参 【真冬の鬼灯】鍵っ子の睨めっこ

 あのことが起きるまで、俺は飽きることなく走った。迷いない眼で走った。


 あの頃の俺は毎日がきらきらだった。自分のイメージと共に走った。こうなりたい。ああ、なりたい。夢は世界一の陸上選手だったんだ。疑いもせず。なれると、思ってたんだ。


 毎日が楽しくて、俺は走った。朝練の前に運動公園で三十分。朝練で一時間。みっちりと走りきる。周りは俺を陸上馬鹿なんて呼んでいた。それでも良かった。それでも嬉しかった。


 あの事故が起こるまで、俺は夢は叶うと思ってた。息を切らして走るのが死ぬほど好きだったから。


 ある日、俺は駅伝部の部長と顧問の石垣から声をかけられた。俺の通っていた学校はいわゆる運動校というタイプのものだった。人数も多く、一学年で三百人超え。校舎もグラウンドも無駄に広かった。そんなに学校の駅伝に他の部活に声が掛かることは、珍しいことではなかった。秋にさしかかる一歩手前の、まだ夏の暑さが残る午後。俺は一年で補欠選挙として呼ばれることとなった。ありがたいことではあったが本来の部活にあまり顔が出せなくなるのは残念だった。だが、走ることが出来るならいつもとさして変わらない。トレーニングのメニューが少し変更するだけだと、俺は快く引き受けた。


 朝練。午後練。と、回を重ねるごとに知り合いも増えていった。これだけのマンモス校だ、こういう時でもなければ話をする機会もないであろう部活の人もちらほらといた。

 陸上部。ハンドボール部。野球部。サッカー部。バスケットボール部。バレーボール部。この辺りがやはり助っ人として呼ばれることが多い。が、今回の助っ人で一番縁遠い部活動の人と知り合いになれたことは俺にとって新鮮だった。いちばん仲良くなれたのは、とても人懐っこい体操部の俺と同じ一年生だった。小さくて華奢なように見えて、俺よりも整った身体に驚いた。脱げば詐欺か? と言いたくなる身体だった。彼は鉄棒と跳馬を得意だと笑って俺に話してくれた。聞いたことの無い世界。見たことのない世界に驚くばかりだった。彼は小学と中学で趣味のようにグラウンドで走り、時間のある日にはサイクリングをしていたそうだ。十五キロくらいなら朝飯前だと笑う。俺と彼が親友になるのに時間はいらなかった。運動以外にはゲームが好きだと、全くゲームが分からなかった俺にあっという間に色々とレクチャーされていく。いつしか、夜にネットを通じてゲームをするようになった。マイクを使って会話をしながら手分けして敵を倒していく。彼の戦法は優れていた。言ったことはないが「諸葛亮孔明」か「竹中半兵衛」だなと、俺は思っていたくらいだ。


 体育祭の練習もプラスされ、部活も駅伝の練習も体力が限界を超えそうだった。


 そんな時に事故が起こった。

 とても器用で体操部のホープだった彼が組体操の練習で落ちたのだ。ピラミッドの天辺からまるで、校庭の地面に叩きつけられるように落ちたのだった。

 彼は、すぐに病院に運ばれた。脚を骨折した彼は入院をすることになった。もう、前のように走ることは愚か、体操をすることも、最近始めたという男子新体操の夢も散ってしまった。断裂した脚は元のように戻らないと彼は絶望の淵に立たされた気持ちだっただろう。俺が同じ立場になれば、きっと立ち直れる筈などないと思った。無理だと分かったことに未来など見えなかっただろう。

 何度も入院先の病院に俺は行った。彼の好きそうな本を持って何度も足を運んだ。

 だけど、一度たりとも病室には入れてもらえなかった。面会時間は守っていた。面会謝絶ではなかった。けれども、彼は心を閉ざし、、心が誰もから謝絶したのだ。

 退院をしたと分かったのは、病室が綺麗に整頓された誰も居ない部屋を見た時だった。


 それ以来、彼は学校に来なくなった。もちろん、ゲームも繋げた形跡すらなかった。噂では、海外の大きな設備の整った病院でリハビリをしていると聞いた。それを聞いたのは高校三年生の秋だった。そう、俺の脚がいうことを効かなくなった、あの秋だ。




「彰さん? 電話ですよ。ねえ、彰さん!」

 西口の声が遠くから聞こえる。俺は少し居眠りをしていたようだ。


「ああ、帰ってきていたのか。すまないな」

「いえ、それよりも電話……」

 西口は少し心配げに眉を寄せると、受話器を俺に渡す。俺は無理に口元を緩め、西口から視線を窓際の揺れるカーテンに移した。窓枠が結露で濡れ、今にもカーテンが吸い寄せられそうになるのを指先で引っ張った。意識を電話に移すと受話器の向こうの声は母親だと気がつく。こんな時に、今、いちばん話したくない相手だった。


「彰さん…… あなた年末はお帰りになるの?」

 母の声が年老いた声に思える。それに、用意された台詞。どうせ、帰っても居場所など無いというのに。


「……いえ。今年も帰れそうにありません。すみません……おかあさん」

「そう…… 分かったわ。気が向いたらいつでも帰ってらっしゃい。宗ちゃんに会いに来てあげてね。お線香のひとつでいいのよ。貴方の大事な兄弟でしょ?」

「……はい。帰るときには、連絡を入れます」

 俺の声に西口が扉にもたれ掛かった状態でもの哀しげな視線を床に落とした。電話を切った俺はデスクに突っ伏した。すると、後ろで靴音が聞こえる。デスクにコトリと小さな音がすると、低く心地良い声がした。


「あたたかい飲み物でもどうですか? まだ掃除も途中ですからね。気持ちを変えませんか? 彰さん」

 その声に顔を上げると、橘と賢太郎が二人が揃って立っていたのだ。なんだかとても心配をさせた様だな。と、俺は眉根を下げて無理に笑ってみる。


「…………」

「蜂谷さんのデスクがまだ終わってないので、私たちはまだまだ帰れそうにありませんね」

「……手伝ってくれるのか?」

 俺の言葉に笑を浮かべ、橘が頷く。隣で賢太郎は、まだ真新しい畳まれた数枚の段ボール箱を手に持ち、珍しく笑みを零した。


「ご褒美はプリンで良いですからね? ああ、そうそう。コンビニのでも僕は大丈夫ですから…… 今のコンビニのプリンもバカに出来ないそうですよ?」

 ソファーに相変わらず持たれたままの西口は俺と目を合わせずに、ぶっきらぼうに言葉をこぼした。


 やっぱり、俺は今年も帰れそうにない。





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