依頼 其の参 【真冬の鬼灯】どっちがいい? って聞くのは野暮
今年も残すところ数日となった。事務所の皆が年末で休みになったせいか、部屋の中が耳が痛くなるほどに静かだ。部屋の温度も心做しかいつもより低く感じた。
時折、窓の外の鳥が鳴く声が渇いた空気を痺れさせる。俺は家に帰る気になれずに事務所で年を越す。と、決めた。見上げた空は嫌味なくらいに青く、とても晴れた午後だった。おもむろに窓掃除を始めたのは良いが、拭いても、拭いても、一向に綺麗になる気がしなかった。タオルで拭き取った後がどうしても白く残る。タオルの毛羽立ちが憎い。どうしたものだろうか。頭を抱えて、窓を見上げて俺はため息をついた。青い空に白い息が上がっていく。冬は寒いが、こういうのは嫌いじゃなかった。
「全く…… ちょっと様子を見に来たらコレですよ。やっぱりというか、どうしようもないというか。橘さん…… どうします?」
ふわふわの山吹色のニット帽に紺色のナポレオンコートを羽織った西口が両腕を組み呆れた表情で、まるで助さんと格さんを連れた水戸黄門のように立っていた。
「西口…… 賢太郎に、橘まで…… もう今日から休みだろう。事務所に何しに来た?」
「別に。買い物の途中でちらっと寄っただけです。あきちゃんのことが心配で来たわけじゃないんですからね? お腹すいてないかなとか思って、パン屋さんなんて覗いてないし、美味しいコーヒーが飲みたいかなっていつもの珈琲豆屋さんに寄り道もしてませんからね? あ! この袋はあきちゃんのじゃないから勘違いしないでくださいね?」
「oh...... 西口ボーイ…… それじゃ様子を見に来たと言っているようなものですよ? それに並んでまでして買った年末特別焙煎の珈琲豆。時間に合わせて買った焼き立てのエピ。そこまでして買うほど、パンも珈琲も西口ボーイは好きじゃないですよね?」
「橘さん…… しめ飾りは入口に付けるんですよ? 中に飾っても意味がありません。買い出しは鏡餅とお世話になったお客様のお子様にお渡しするぽち袋だけでしたよね? 雑煮の餅はどうしますか? 今から餅つきしますか? 餅米ありますよ」
「ぇぇえ! お餅つきって僕やったことなーい! あきちゃんの手をついても良いんですよね?」
「跡形なく、思い切ってつくんですよ? これは見事な完全犯罪です」
「おやおや。貴方たちはまったく。完全犯罪が聞いて呆れますね。こういう計画は本人の目の前で言ってはいけませんよ」
――和ませる気で来たんだな。コイツらはまったく。
「オマエらはわざわざコントを披露しに来たのか? 年末の出し物か? それからこれくらい別にひとりでなんとかなるさ」
「あきちゃんの嘘つき」
「……蜂谷さん。窓が落書きされたように汚いですね?」
二人は見事に白残りした見事な窓を見て、ため息をついた。
「あああ。もう! なんなのオマエら揃いも揃って!」
――結局こうなるんだ。知ってた。
テキパキと動く賢太郎と橘は、俺の苦労を知りもしないであっという間に薄汚れた窓をピカピカにしてしまった。
「……で? 何故オマエはリビングのテーブルで優雅にお茶をしているんだ?」
「何処に行っても人だらけで事務所の方が落ち着くってワケです」
「……ほう」
まあ、年末年始とここ鎌倉は観光客で賑わう。大きな神社も観光スポットもカウントダウンも日の出を楽しみにしているんだ。最近の俺の年末は、炬燵でみかんを食べなから紅白歌合戦と笑ってはいけないを交互に見ていたけどな。人に紛れるのも悪くはないが、行列も寒いのも大人になってからはそんなに得意ではなかった。
「あきちゃんどっちを選びます?」
「プレミアムプリン」
「でしょうね…… じゃ僕がプレミアム!」
西口…… 今、何故聞いた? おう?
こうして皆で茶を飲みながら年末を過ごして行くのも、きっと悪くはないのだろうと俺は思う。
と、まあ、そんな簡単ではないだろう。うちの事務所だもの。
西口が気を利かせて、椅子に掛けたままの俺のジャケットをハンガーに丁寧に掛ける時に運悪く、折り畳みの鏡がポケットから落ちてヒビが入る。西口が気にしていたが俺は首を横に振ると、そっと西口の頭を撫でてやるとすっと肩の力を抜いた。それを見て安心した顔でハンガーを扉の横のラックに掛けてくれた。
この仕事を始まるきっかけになった折り畳みの鏡。悲しみを仕舞い込む鏡。もう数十人の悲しみを詰めた。その度に俺の心にも数十人の悲しみが流れ込み一粒の涙になる。供養とまではいかないが、話や傷を落ち着かせ、無くした忘れ物を持って逝かせる。そんなことが出来るようになったのは、実家の庭にあった鬼燈に何気なく話し掛けた高校三年の冬だった。あんなモノを見るなんて、気がどうかしていたのか? 何度もそう思った。
何故そう思っただって? それは半袖の半ズボンの利口そうな顔をした小さな男の子が庭の隅で座っていたからだった。それが死別した兄貴だと分かったのは、それからずっと先のことだ。「鬼燈は死者の魂を熟れた実の袋に入れる」なんて、昔に婆ちゃんから聞いていた。半信半疑で聞いていたあの話がまさか本当だとは誰が思う。言った本人ですら信じて聞いてるだなんて思っていただろうか?
「アンタが彰か?」
小さな男の子が俺の名前を、それも呼び捨てでボソリと呟くと、こちらを嫌な目付きで見る。暫くすると静かな表情で口元を緩めて笑う。やけに背筋が痺れる痛みに俺はその場から動けなくなっていただろう。もちろん言葉も出なかった。
「なんだよ…… こんな時にダンマリか? 別にいいけどね。なんなら最後まで黙っててもいいから、ちゃんと聞けよ」
男の子が俺に近づき、ズボンのポケットから折り畳みの鏡を出してそれをこちらに向けた。
「これアンタにやる」
そう言うと、俺の手に自分の小さな手で無理に持たせた。冷たい指先が俺の手に触れ、とても驚いた顔をしていたに違いない。男の子が鏡を持つ俺の顔を見ると、ほっとしたように力を抜いた途端に吹き出し笑い出した。
「これな俺にとって重いのよ。お母さんの気持ちは俺には分からない。この世に落ちる命は陽の光も見ずに消えたんだもんよ? 生まれなかった俺は、気持ちが悪いほどの母親の想いなんてどうしてあげることも出来ない。俺にとっちゃ鏡なんて貰ったって、なんの利用価値もないのよ。という訳でアンタが持ってろ。アンタにとっちゃ良いもんだよ。俺が持ってるよりもずっとな…… それで助けてやれよ。たくさんの迷える子羊をな」
言いたいことだけ言って、勝手に消えていきやがった。多分だが、アレが兄貴なんだろうなって思ったよ。親父に似てて、母さんにも似てた。勝手な癖に人一倍お節介で、人一倍、優しいんだ。
鏡の蓋の部分に書かれた「宗一郎」という名に俺は兄貴だと確信した。
折り畳みの鏡は鬼燈と同じように死者の魂を癒し、あの世に送れる不思議な力を持っていた。鬼燈は橙色の綺麗な色で夏の夕方みたいで好きだった。
この鏡の内側の色も鬼燈色でとても美しかった。
母さんの俺に向ける冷たい表情が緩まることは、きっとこれからもないだろう。宗一郎が居ない世界は永久になくならないのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます