依頼 其ノ参【真冬の鬼灯】心ここに在らず

 つま先で地面を蹴って、力いっぱい前に進む。

 

 景色が流れて、あっという間に周りの音が聞こえなくなる。自分の息遣いだけが内臓を通じて、響いて聞こえる。心音も徐々に大きく聞こえてくる。髪にかかる風も、額から首にかけて流れていく汗も。


 全てが俺だった。これが全てだった。


 小さなころから走ることが好きだった。何よりも好きだった。取り柄なんて他になかった。けれども、それでもよかったんだ。

 

 遠くに白帯が揺れる。ゴールテープが見えて視界がゆっくりと崩れていく。その瞬間に耳を裂くように音が入ってきた。騒がしい音に交じった悲鳴も、慌ただしく動く人影も。何が起こったのだろう。



 俺は、走りたかった。

 もう少し、走りたかったんだ。



 ******



 最終章【真冬の鬼灯】


 

 戸惑いの吐息が傍で聞こえた。


 この仕事を始めて、人の悲しみと悔しさの涙を俺は初めて見たんだ。

 命の消える音。重ねていく想い。



「蜂谷さん。今、お暇じゃないですか?」


「月野には俺が暇なように見えるか」


「ええ。それはもう」


「落ち着いた低音のトーンで言わないでくれるか? 少し落ち込みそうだよ。ところで用件はなんだ」

「もう結構です」

「あ、そう」


 年末の大掃除で、いる書類といらない書類を仕分けしだしたのは良いのだが収拾がつかない。デスクはあっという間に散らかっていく。なんなら床にも書類は散らばった。


「蜂谷さん…… 苦手なんですね。掃除と整理整頓」

 それは嫌味のように俺の耳に流れ込んできた。が、事実。この有様だ。ああ、苦手だよ。あってるあってる。否定をすることもせずに俺は黙ったまま手を動かす。


「お昼どうします? どこかに食べに行きますか? それとも出前でも頼みます?」

 とても良いタイミングだな。西口。今なら褒めてやろう。


「ああ〜 ……なんですか、それ。冗談ですよね? 季節外れの台風が来ましたか? いやだな~ 彰台風」

 西口の冷たく、バカにするような声が鳥の歌声のように俺の後頭部に突き刺さる。オマエまで言うのか。西口よ。


「……今から、俺は本気だすんだよ」

 俺はテーブルの上の書類を一枚手に頭を下げてしまった。さすがに今年の終わりにこたえた。心底冷えきったよ、心が。


「あきちゃん、拗ねちゃいましたね」

「……ええ」

「徹さんは何が食べたいですか?」

「私は温かい物ならなんでも。賢太郎は何がいい」

「そうですね…… お蕎麦とかいいですね」

「僕は蕎麦せいろがいいです。温かい出汁の海老天と野菜天が付いていれば、なおのこと!」

「お蕎麦ですか……」

「気に入りませんか?」

「そういうことではないのですが……」


 橘そうだ! 蕎麦は年越しで食うもんな! もっと違う物が良いだろう! ほらカツカレーとか! なんかガッツリ系で行こうぜ!


「んん〜 そうですねえ…… 私の知っているラーメン屋に行きますか?」


 お! いいね〜 ラーメン!


「何処のラーメン屋ですか?」

「徹さん、良いところ知っているんですか?」

「ええ」


 おお〜 賢太郎も食いついたな! 何処だ何処だ?


「事務所からだと少し遠いですけど、いいですか?」

「いいんじゃないでしょうか。今日は午後からの依頼のお仕事入っていませんよ」

「わー! ラーメン!」

 橘が提案したことで賢太郎はキャメル皮の手帳を確認した。少し眉間に皺を寄せたがしばらくすると頬を緩ませる。西口はそれを隣で見て両手を上げた。


「橘さん、私が車を出しましょうか? それとも電車で行きますか?」

 はあ? ラーメン屋に行くのに車? 電車? そこまでして行く価値のある店なんだな? そこまでなの? そんなに美味しいの? 俺の心はいやおうなしに弾む。


「七里ヶ浜ですから江ノ電で行けますよ」

「行きましょう! 今すぐ行きましょう!」

 西口がコートを取りに行く姿に俺も椅子に掛けていたコートに手を伸ばそうと笑がこぼれた瞬間に橘から手厳しい言葉が聞こえてくる。


「彰さんはダメですよ」

 何故? 橘? え? 何故?


「書類がその状態では全くダメです。これ以上、私の仕事を増やさないでください。それと……」

 この状況での「それと」の後のセリフに良いことなど何もないだろう。


「日頃からキチンとしていただきたいです」

 ほらね。知ってた。俺、知ってた。


「うっっ」

「うっ。じゃありませんよ…… 蜂谷さんは少々反省をしてください」

 賢太郎まで…… いや、俺が悪いの。知ってるの。でも…… 腹が減ったら戦なんてできないの。負け戦なの。お願い! 俺もお昼に連れて行って。


「あきちゃん! 戦なんてしないでしょ! 我慢して! はい! ハウス!」

 西口…… こんな時に心を読むなよ。じゃあ、せめてお土産を何か買ってきてね?


 三人はコートを羽織ると扉を閉めてランチに行ってしまった。所長の俺を残して。


「忘れ物! 忘れ物~!」

 西口の声が聞こえて扉が開く。俺をちらりと見てハンガーに掛けてあったマフラーを手に取ると、にこりと微笑む。


「お留守番しっかりとお願いしますよ~ 電話と郵便物もよろしくね~ あきちゃん」

 満面の笑みで西口は指先を揺らす。


 今、少し期待した俺のバカ。


 いけすかない。



 ――case 3

「鬼灯 (鬼燈)」

 ナス科ホオズキ属の一年草または多年草。またはその果実。カガチ、ヌカヅチともいう。

 ホオズキ属にはアメリカ大陸、アジア、ヨーロッパに百種あまりが存在する。このうちホオズキ(physalis alkekengi var. franchehetii)は日本の北海道、本州、四国などを原産地とする一年草または多年草である。草丈は60cmから80cm位になる。淡い黄色の花を六月から七月頃に咲かせる。この開花時期に合わせて日本各地で「ほおずき市」が開催されている。

 開花と果実の見頃を含めると六月から九月。

 花の咲いた後に六角状の萼(がく)の部分が発達して果実を包み込み袋状になり、熟すとオレンジ色になる。食用と薬用としても知られ、ワイン醸造にも使われる。ただし、食用は腹痛が起きることがあり、特に妊娠中の女性には禁物である。

 日本の仏教習俗であるお盆では、ガクに包まれたホオズキの果実を死者の霊を導く提灯に見立て、枝付きで精霊棚(盆棚)に飾る。ほおずきに「鬼灯」の字を当てるのは、盆に先祖が帰ってくるとき目印となる提灯の代わりとして飾られたことに由来する。


 

 子供の頃、庭にあった鉢植えのホオズキに手をつけては怒られたものだった。祖母と母が丁寧に育て上げたホオズキはいつも葉が青々とし、立派に玄関先に並べられた。俺が生まれる前に亡くなった兄の道標にお盆に用意されていたのだと話されたのは俺が高校生の時だった。それまで俺は兄がいたことすら知らなかったのだ。実家の玄関先には夏前になると鉢植えが並べられる。水滴が玉のように転がる青々しい葉が俺を出迎えてくれる。命は儚い。ナマエも知らなかった兄を俺はこの先も愛せないのだろうか。


 枯れた葉が庭先で風に踊らされてカラカラと音を立てる。


 今年は俺は帰省しない。そう決めていた。










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