依頼 其ノ弐【万華鏡】解ろうとしないと何も解らない

 結局、西口はあの後、駄々をこねる子どもみたいに仕事に着いてくることを拒んだ。なんというか、普通の会社ならとっくにクビだろうな。代わりに橘 徹が同行する形になった。橘は、正直言うと「この手の案件は少々苦手です」と、ここに来るまでの車の中でぼそりと零した。海沿いの道をなだらかに海風が吹いていく。海の匂いが心地よくて、もうすぐ冬だというのに窓を開けて俺たちは車を走らせた。


「橘にも苦手なことがあるんだな」

「ええ……」

「病院が苦手なのか? 子供が苦手か?」

「……どちらも ……ですね」

「……そうか。それなのに無理を言って着いてきてもらって、悪いことをしたな」

「いえ、仕事です。それにたいしたことではありませんから、お気になさらないでください」

「そうか……」

「ええ……」

 俺は運転をしながら時々、橘を見る。流れる景色を何を考えて見ているのか、まったく読めない表情をする。橘が俺の事務所に来た時とまるで同じだった。無理に笑ってお世辞を言う気持ち悪い奴よりは、はるかに人間らしいと俺は思う。心が濁って無駄に張り付いた嘘より、素を出す橘が俺は嫌いじゃなかった。


 車が海沿いの目的地にゆっくりと順調に進む。もう一度橘を見る。遠くを見る目が少し濡れたように潤んでいるように見えた。そして、時折、風に揺れる髪が水の中で漂う美しい熱帯魚のようだと何故だか俺は思った。


 今回の案件は前回のような霊ではなく、生きているが、話すことも笑うことも出来ない女の子だった。

 彼女はプールで溺れた。運悪く足首につけていた紐状の物が排水溝に流れていき絡まったことで取れなくなった。数分もがき苦しみ気を失って息が出来なくなった。助けた時には心臓はかろうじて動いていたが、長く酸素を送れなくなった脳が機能しなくなり、脳死と医者は苦渋の決断をしたのだ。植物のような状態で眠り続ける彼女は静かに息を呼吸器ですることを許される。

 と、まあ、ここまでが表向きの話。


 ここからは俺たちに依頼された話。

 彼女の眠る病院に奇妙なことがこの数ヶ月続くという。壁に掛けてあった千羽鶴が糸が全て切られたように外れ、床に落ちた鶴はズタズタに切り裂かれていたそうだ。ここまでならば悪質な悪戯と思うだろうが、部屋には奇妙なことが何度も起こるのだ。花を入れた花瓶が何度も落ち、花は踏みつけられたようになる。しかも、決まってある友達の子が持ってきた花だけが酷く壊されるそうだ。

 ある時は、夕方に飾られた花が翌朝には、枯れて花瓶の水が濁り悪臭を放った。いつしか看護師が、あの病室は気味悪いと噂をするようになった。

 この依頼を受けて、俺たちが部屋に来たときに辻 英太と名乗る同級生の男の子が彼女のベッドの横で、簡易されたパイプ椅子に座っていた。彼は第一発見者で、彼女の親友で毎日のようにお見舞いに来ているそうだ。

 

 俺たちが部屋に入った途端に、壁に掛けてあった額縁に入れられた寄せ書きが落ち、ガラスが飛び散って橘が頬を怪我をするところだった。熱烈歓迎だな。


「あらら。誰もケガしなかったのね。残念。目ぐらい潰れちゃえば良かったのに……」

 悪戯っぽく笑いながら、幼い女の子の声で残酷な言葉が耳元で聞こえてきた。


「おやおや。頼んでもいないのにそちらから出てくるとは。ご丁寧にどうも。しかも、その歓迎プレゼントに感情という名のリボンまでつけてご用意してくださるとはね」

 彰は苦笑いをしながら片手でネクタイを緩めた。


「うそ…… 私の声が聞こえるの? 厄介ね」

「声だけじゃないさ。生霊になった君の姿まで、俺にはしっかりと見えているよ」

「へえ。はじめてだわ。人と会話するのも久しぶり」

 彼女はベッドに寝ている姿と同じピンクのパジャマ姿で、俺の斜向かいで両手を広げて笑っていた。

 俺は少しの驚きも彼女には見せなかった。いや、見せてはいけないのだ。


「その素敵な役目に授かりなんとも光栄なことですね」

「思ってもないくせに嫌味を言わないで」

 このやり取りは、橘と英太くんにはとても不思議だっただろう。と、思ったが橘は表情ひとつ変えずに飛び散ったガラスを丁寧に拾い集めていた。恐れ入るよ。まったく。

 やはりというか、英太くんは目を大きく見開いて両手で口元を押さえていた。これが普通の反応なのだよ、橘よ。もう少し驚くとかないか? ないのか? そうか。


「何かが言いたくて、こんなことを繰り返しているんだろう? 教えてくれるかい? 出来れば物理攻撃は止めてくれると嬉しいなと、俺は思うんだが」

 俺は床に落ちたガラスを指先で拾い、それを俺は彼女に見せた。


「おじさんなんなの?」

「おじ……」

 まだ、ぴちぴちの四十代だ。おじさん……は正直まだイヤだ。もう少し、オブラートに包んでいただきたい。


「彰さん。ここはいくら悔しくても認めてください。それに、十分なくらいに僕等はおじさんですよ」


「そうね〜 おじさんですよね〜 認めましょうねって…… 聞こえてたのか! この会話!」

「……ええ」

 冷静な橘のセリフになんだか胸が少し苦しい。嫌な表情ひとつせずに橘は俺を一瞬見ると、ため息をついた。気を取り直し、俺も彼女に視線を戻す。彼女は呆れたようにゆっくりと首を傾げる。


「……で?」

「君の想いを聞きに来たんだ」

「想い? はあ? 気持ち悪い」

 まあ、それも普通の反応だな。もうこういうことにも慣れたよ。大概は心など、そう簡単には見せてはくれない。だんまりを決め込む奴も居るほどさ。


「おじさんに言いたいことなんてないわ! そこのアホ面さげた英太には言いたいこといっぱいあるけど…… まあ、言っても無駄だろうけどね」

「馨ちゃん。何? ちゃんと言ってみて。なんでも言って。僕はここにいるよ! 聞こえているよ!」

 呆れた。彼にも彼女の声が聞こえていたのか。


「私からは見えているもん。知ってるわ」

「よかった……」

 彼は彼女の消えそうな声にホッと胸を撫で下ろすと、床に置いた花束をそっと両手に持つと彼女に見せたくて高く上げる。すると、花束が彼の手から吹き飛んだ。


「私は…… あんたなんか…… あんたなんか」

「へ?」

「あんたなんか…… 大嫌い! ずっとずっと嫌いだったのよ」

「……どうして」

 英太は床に落ちた花をゆっくりと拾い上げると、悲しげに空を見る。馨はとても嫌そうにその姿を見下ろし発狂に近い声を上げる。


「やっぱり…… そういうことを言うのよね」

「ぼくたちは…… 友達だよね」

「最初はね」

「最初はねって……」

「いつもいつも元気で誰からも好かれて……悩みもなかったんでしょ!」

「そんな」

「私はそんなあんたが無性に苛立ったのよ! 嫌いだった…… 大嫌いだった」

 床で花粉が飛び散ったことで馨には噎せ返るほどの花の匂いに感じたのだろう。吐き気を感じ慌てて口元を覆った。


「……子供の嫉妬ってやつですね」

「ああ、そうだろうな…… それもかなり繊細で思春期真っ最中のな。健康で外の世界を行き来できて。なおかつ、素直で、あの見た目だ。誰からも愛されて、すくすくと育ったんだろう」

「……そう、でしょうか?」

「うん?」

 橘の言葉に俺は首を傾げた。


「欲しいものがすべて手に入るって、どれだけ後になって後悔するかも知らなくて…… 気がついた時はペラッペラの薄い感情で繋がったものだけが残るのは果たして幸せでしょうか?」

「……どういう意味だ」

「私も彼と同じですよ。愛情という名のモノに囲まれた…… 偽りの世界かも…… ということです」

 橘は少し息を吸うと溜息をつく。再度こちらを見てゆっくりと橘が話し出した。


「彰さん…… もしかしたらなんですけどね?」

 少しだけ崩れた言葉になると、いつもの笑顔の橘の姿になっていた。彰はそんな橘を見てあることを思い出す。彼は幼少期に親が再婚し、数年後に妹が生まれた。妹は生まれながらに身体が弱く、毎日のように病院に通っていた。いつしかそれも限界がきて、長く辛い入院生活が始まる。妹は何度も繰り返し手術をしたことにより、美しい容姿とは程遠いものとなっていた。それでも両親は彼女を愛した。周りも彼女を腫れ物を扱うように、言葉も振る舞いも細心の注意をした。

 彼女の命がなくなるまで、それはずっと続くのだ。世界は彼女で廻っている。橘の目には悲しくも、そんな世界が見えていたのだ。


「……だけど、私は彼女が大好きだった。可愛くて仕方がなかった。彼女が笑ってくれるなら私は何でも出来ると思っていた。いや、今でもそう思っています。僕は彼女が大事な存在だからね」

 橘は彼女のベッドに手をゆっくりと下ろすと、髪に優しく触れる。馨はそれに嫌悪感を抱く。そしてきつく言葉を橘にぶつけた。


「それって…… お兄さんはそんな自分が好きなんじゃないの?」

「……馨ちゃん!」

「あんただってそうでしょ?」

「……違うよ! そんなふうに思ったことなんて一度もないよ!」

「……うそ! 学校の帰りに校庭の花壇でお花を選んで、走って病室まで来るのって優越感があったでしょ?」

「ないよ! 僕は少しでも笑ってくれたら喜んでくれたならって…… 花壇のお花ならって…… 少しでも学校を感じてくれたらって」

「そう言うと思った。お節介のヒーロー気取りの勘違い野郎よ!」

「……ひどいよ」

「どっちがよ? 私の世界はこの病室から見える景色と真っ白の壁なの…… 夜は天井を見上げて、朝はまたこの天井から始まるのよ!」

「…………」

「あんたなんかに分かるわけないわよね?」

「…………」

「で? 前にくれた、この覗き眼鏡」

「……僕の作った万華鏡」

「これがどれだけ私を孤独にして閉じ込めたか分かる? 分かるわけないわよね! 綺麗に彩られた四方を囲む万華鏡。その中だけでひっそりと美しさを演出するのよ? 同じ物が形を変えて違うものを創っていく。……皮肉なのよ」

 ぽつりと彼女は本音を漏らしだす。


 孤独とはなんだ。

 彼女は世間知らずなんかじゃないんだ。

 世間を遮断されたんだ。

 親が、自分が。全てが。


「可愛いも、良い子だねって言葉も…… 今の私には意味なんてないの…… だから、だからね。私はあんたなんか大嫌いなのよ!」

 馨は力強く万華鏡を両手で握ると、勢いに任せて投げる仕草をした。



「本当に嫌いなのかい?」

 彰が静かな表情になり、声のトーンを落とす。


「はあ?」

「ならば、その手に持った万華鏡は俺が貰ってもいいかい?」

「どうしてよ!」

「キミが閉じ込められる嫌なものならば、いらない物だろうと俺は思ったんだけどね」

「だからってなぜ貴方にあげなきゃならないのよ?」

 彰を強く睨みつけ、馨は鬼の形相に変わっていく。部屋は暖かいはずなのに彼女の怒りが温度を下げていくようだった。


「いらないなら私がいただきましょう。万華鏡。百色眼鏡。錦眼鏡。カレイドスコープ。どの呼び名でも美しさは変わらないからね」

 ずっと黙っていた橘が紳士のように彼女の手から万華鏡を手にする。彼女の怒りが万華鏡に触れていたことを忘れるほどに力が抜けていった。


「嫌いなんて嘘だよね? 馨ちゃんは英太くんが大好きなんだよね。だって本当に嫌いなら大事にしまっておかないさ。もうとっくに捨てていたはずだ。悔しい気持ちに、悲しみに。寂しさが心に隙を作った。だからって嘘は良くないよね」

 橘の言葉に馨は下唇を噛むと、瞳を潤ませていく。言いたかった想いも聞いてほしかった言葉も。何も難しいことじゃないんだ。ただ、少しの勇気と少しの愛が足りなかっただけ。ただ、それだけ。


 彰は伏し目がちに部屋を見ると、大きな涙を一粒落とす。

「もうゆっくりとおやすみ。もう我慢しなくてもいいんだ」


 馨はゆっくりと瞳を閉じて、差し出された彰の手のひらに身を任す。病室の温度が元に戻るとベッドに横たわった馨がここに来た時と同じ姿で眠っていた。呼吸器の音だけが部屋に響く。眠姫は万華鏡をオルゴール箱に入れて安心した表情で眠り続ける。


 後日に、両親が心臓移植の登録をしたと、俺たちは聞くことになる。

 それは…… もう少しだけ、後の話。



 病院からの帰り道、英太くんが零した言葉が忘れられない。

「僕がもっと早く手を伸ばしていたら馨ちゃんは助かっていた? 排水溝に流れて取れなくなったミサンガを僕があげなきゃ馨ちゃんはああならなかった? 僕が馨ちゃんの代わりになっていれば……良かったのに……」

 彼は市の体操部に通っていた彼女に一目惚れをして、良い結果が大会で出せるように彼女のためにと編んだミサンガを今も悔やんでいた。

 引きちぎれば溺れることはなかった。だが、彼女はそうしなかった。練習ばかりで辛かった時に笑顔と嬉しい言葉をくれた英太に助けられたのだ。彼女はミサンガをとても大事にしていた。ちぎれない様に腕ではなく足首につけた。それが仇となった。誰のせいでもない。タイミングが悪かっただけ。俺たちは彼にその言葉をかける。別れ際の安心した彼の顔は清々しく澄んだ冷たい秋の空にぴったりだった。

 人の想いは強く儚い。すれ違って複雑に絡んだ想いは、いつしか憎悪に変わる。そっと悲しみと寂しさは汚れていく。目障りなほどに。

 

 怯えた愛が拗らせた結果だった。


 俺たちにはまだ分からないことは多くある。俺は曖昧に片付けずに心から向き合っていきたいと思った。



 事務所の扉の前で白く息が上がっていき、俺は胸が苦しくなる。橘がそこにゆっくりとインターフォンを鳴らす。白く長い指先が赤く染まっていたが俺をちらりと見る橘は表情を緩ませる。そして静かに俺はうなずく。


「おかえりなさい」

 扉の奥から慌ただしい足音が聞こえたかと思うと、西口がきらきらした笑顔で俺たちを出迎えてくれた。あれだけバタバタとするなといつも伝えていたのに。冬の日向はあたたかく胸の奥につっかえたモノがゆっくりと解けていくようで俺はホッとしたと同時に西口をふんわりと抱きしめていた。


「彰さん……どうしたの? そんなに僕に会いたかったの?」

 西口は瞬きを何度かして、目を大きく見開いて両手で俺を包み込むように背中に手を回す。西口の優しい声が俺の頭の上でする。


「しょうがないな〜」

 そう言った西口は橘を見る。橘が力を抜いたように困り顔で笑っていた。


「みなさんお疲れ様です。お茶にしましょうか」

 と、賢太郎が事務所の奥から出てくる。この状況にピンときたのかフッと笑いキッチンに靴の音を心地よく残して入っていった。


「お土産はあるんですよね?」

 西口の言葉に橘は顔色ひとつ変えずに人差し指を唇に当てると、何もなかったように自分の書斎に入っていた。


「ねえ〜え? 江ノ島プリンは?」

「……あ」


 このあとは、お察しの通りです。

 本日も変わらずにうるさい。ああ。

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