依頼 其ノ壱【冬虫夏草】それほどいいってこともなく

 ――何かに寄生するのって楽しいのよ



 「彼女は知人に向かって、こんな怖いセリフをサラりと言い放ったのよ。嫌な女よね、まったく……」と、隣の女性は嫌味な口調で口元を片手で覆った。


 ボーイッシュなショートカットに前髪を短く切りそろえた彼女は、湯水を変えるように周囲を利用したと、良くない噂話が聞こえてくる。知人も親友も男も、使えなくなれば変わりを準備出来たとも。なんとも嫌な話だった。


 あどけない笑顔に少し舌っ足らずな喋り方と甘い声。華奢で小柄な彼女は「思わず支えたくなる」と、はじめは誰もが言うのだ。

 彼女は性別問わずにとても人気があった。そして、彼女はモテた。異常な程にモテた。その分、嫉妬も絶えなかった。甘い恋愛をたくさんしたと噂も流れた。

 だが、彼女が旦那様に選んだ男は予想外だった。周囲が口を揃えてこう言った。



「なぜ? どうして、その人なの?」


 世間一般にイケメンと言われる男ではなく、素敵と言われるルックスの男ではなかったのだ。そんなものは、人の匙加減だろう。好きに言ったものだと、俺は少々嫌気がさす。


 旦那様は仕事も出来るというよりも普通といった感じだった。それだって人の取りようで裕福とも言えるのだ。基準など、あってないものなんだと俺は思う。


 そして、やはり周囲は首を傾げてこう言うのだ。



「なぜ? どうしてなの?」

 また世間とは嫌なものだよ。良くないと一度思えば、尖った言葉をぶつけるのが、皆、お好きなようだ。


 だが、彼女は澄んだ目をして決まった台詞を吐いた。さして世間の声も気にした様子もなかったそうだ。


「彼の良さは、私にしか分からないのよ」と。



 歳を重ねる毎に、彼女は笑い皺が増えていった。ベランダに小さな菜園をつくり、虹が出れば、眩しくそれを見上げる。彼女は誰が見ても幸せな時を過ごし、絵に描いたような理想の家庭を築いていくはずだった。



 なのに、彼女はある日、突然。

 ベランダで首を吊った。


 前触れもなく、遺書もなく。

 愚痴ひとつ、誰も聞かなかったのだ。



 幸い、ベランダで首を吊った。と、家主が伏し目がちに言った。部屋は綺麗なままで、ベランダもそこまで悲惨な状況にならずに、体液等は丁寧に洗い流し、タイルを張り替え、はじめから何も無かったような美しいベランダに生まれ変わった。


 彼女が自殺をしてからも家主は引っ越すことなく、五年間、何もなかったように住み続けた。

 が、海外勤務が決まり、泣く泣くマンションを手放すことになったのだ。本当ならば、彼女との思い出のこの場所にずっとずっと住み続けたかったと、涙ながらに不動産に売却したそうだ。


 それから数ヶ月。当たり前だが、そうあっさり買い手が見つかるなどということは無かった。内覧は沢山の方が訪れるが「告知事項」を知った途端に顔色を変え、帰っていく客が多かった。玄関先で足を踏み入れることもなく、帰るなどということも少なくはなかった。


 余談だが、事故物件というのは何処からどこまでが当てはまるのだろうか。


 殺人。

 ダントツにコレが一番の事故物件だ。人数は関係なく、人が人を殺めた時点でアウトだ。


 転落事故。

 コレも事故物件だ。そりゃまあ、不吉でしょうね。故意に落ちたわけでなくともだ。若干、モヤモヤするが仕方ない。


 じゃあ、自殺は?

 これだって十分なほどに事故物件だ。それにどんな理由があっても、自殺には変わらないのだ。無理心中とか、もってのほか。


 ねえ? 孤独死ってのはどうなんだ?

 コレもか? 好きで死んだわけじゃないけどね。


 事故物件。

 なんとも、実に嫌な世の中だ。


 病死は? とか言い出したら、キリがないね。


 人間、生まれてくれば死ぬのは当たり前だ。そうじゃなきゃ、地球は人で埋め尽くされる。住む場所もなくなってくるだろうね。そうでもなれば、もうちょっと生き辛い世の中になるかもだ。今のままでも十分に住みにくい世の中だというのにね?



「私ね? とてもとても、幸せな寄生をしてるのよ」

 そう笑った彼女は、マンションに深く深く根を下ろす。彼ではなく、地に根を張って両目を閉じた。翼を休める天使のように微笑みながら。

 

 亡くなったあと、彼女がベランダから手すりに手をかけて、何度か外を物悲しそうに眺めているのをマンションの住人が見ているそうだ。遠くを見る瞳の感情は、誰も読み取ることは出来ない。たとえ道路からベランダ越しの彼女に声をかけたとしても、自害した彼女に声が届くはずがないのだ。

 そうして、世間が嫌な噂をする前にと、主人と仲介屋から俺のところにこの話が来たのだろう。


「というわけか…… 面倒だな」

 書類の一部を声に出して俺が読む。


「ありゃりゃ〜 僕が今回の担当助手だって時に。本当に厄介子ちゃんな淑女様で」

 黙って頬杖を気だるく付き、彰の言葉を聞いていた西口がソファーの端に腰を下ろし直すと両手を組んだ。



「子なのか? 様なのか? はっきりしないとそこはダメだな〜 西口」

 そこに半笑いで缶入りのクッキーを片手に月野 賢太郎が横はいりしてきた。


「はあ? なんでダメなのさ?」

 賢太郎に西口は小首をかしげた。


「故人でも、女性には変わりないさ。優しくするのが男ってもんでしょ?」


「ああ…… なるほどね」

 ありきたりな答えに、さも「素晴らしい」

 と、小さく拍手をすると西口はまた両腕を組み、目を閉じて頷いた。


「それじゃ、私はひと足お先に事務所に戻っていますね。ちゃんとお仕事は終わらせて帰ってきてくださいね? お二人共」

 賢太郎はクッキーの缶を鞄に詰めると髪をかきあげる。なにか納得した様子で緩やかに微笑むと、マンションの部屋から出て行ってしまった。彼はとてもマイペースに仕事をこなす。あの無精髭と極度の甘党さえなければパーフェクトなんだろう。そこそこの色男だというのに何故かモテない。まあ、それは今はどうでもいいことだ。



「アキちゃんはこの流れが全然分かってないよね? その表情…… また余計なことばっかきっと考えてるからね。賢太郎さんが帰っちゃうのそんな残念? 僕だけじゃ不服?」


「御明答。おまえだけでは不安だな。それでも…… 俺が居れば御茶の子さいさいってアレだな?」

 彰は両腕を組むと自慢げな表情になり、褒めてもいいんだぞ? と目線を送った。



「誰も褒めやしないですよ」


「そりゃどーも」

 西口は呆れた表情で声を出したが、彰は変わらず西口を見て、ベランダから入る風に柔らかい笑みを浮かべた。



「ねえ…… いい加減に二人で話すのやめてくれる? これでもアタシは客なのよ? 手厚く御奉仕しなさいよ」

 少しキツめの口調で声を出す彼女が二人の会話に滑り込むように入ってきた。ベランダの壁に身体を預けるようにもたれる彼女のスカートが、緩やかに吹く風にふわりと揺れた。


「ああ〜、はいはい」


「ハイは一回でいいの、一回で」


「なんだよ、母さんか?」


「何よ! 私よりおっさんが聞いて呆れるわ!」

 彰は怖がりもせず、驚きもしない。そんな飄々とする彰にむかって、彼女は軽快なリズムを奏でるように話し出した。




「で? 貴女はどうしたいの?」


 彰が彼女の目を見て微笑むと、部屋の温度が変わっていくのが西口にも伝わった。説得とか、愛情とか、全部ひっくるめて、お節介の押し売りをする。


「此処はもう…… 貴女の場所じゃなくなる。新しく住む相手に譲るべきだよ。分かるかい?」

 彰の低く腹に響く声に彼女が首を横に振る。


「どうして…… 私はずっと此処に居たいだけなのよ」


 彼女は泣き真似をするのが精一杯だった。いや、泣けないのか? 全てが出払った空っぽのカラダだからか。必死で顔を押さえて甘い声で泣く。


「貴女の気持ちがどうであれ、此処は貴女の旦那が売り払った。それは変わらない事実だよ。知っていたかい?」


「……嘘よ。此処は私の場所じゃなくなるの…… そんなの嘘よ! うそうそ!」

 彰は少し目を伏せて、さらに低い声を漏らす。


「……そうやってワガママを言っても、俺がこの場から貴女を剥がすよ。無理矢理にでも、少々強引で手荒な方法でもね」


「どうして…… そんなのってひどいわ」


「……酷いのはどっちかって言うと、貴女だよ? 茉莉花さん」

 彰の目は優しく、そして柔らかい表情で口元が緩く笑う。


「そういう目をして話さないでよね。どうしてアタシが酷いの? どうして?」


「もう時期、ここは貴女が居ちゃ困る場所になるわけさ」


「どういうこと?」

 彰の言葉を聞いた茉莉花は怪訝な表情になる。


「ここには新しい家族が引越してくるんだよ」


「そんな…… 私の唯一の救いの居場所なのに…… ゆるせない……」


「それだよ。それ。それが問題なのさ。もうここには貴女の居場所がなくなる」


「そんなこと言わないで…… ひどいじゃない……」

 茉莉花が大きな声を上げると彰の身体が軽く後ろに吹き飛んだ。その弾みで、かけていた眼鏡が鈍い音を立てて落ち、彰は痛む身体を両手で支え、体制を横にして床に転がった。


 その瞬間に、彼女の顔にへばりついていた笑顔が、ゆっくりと剥がれ落ちていくのを彰は冷たい床で見つめていた。


 彼女の手塩にかけた小さな庭は今は何もない。今はもう、何ひとつ。月に照らされてできた、彰と西口の影だけが濃くベランダにのびていた。

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