依頼 其ノ壱【冬虫夏草】春の雨は優しく降り注ぐ

「気が済んだかい?」

 


 彰は床に落ちた眼鏡を拾うと、グラスに亀裂を見つけ、それを指でゆっくりとなぞった。そうして、何もなかったようにその眼鏡をかけ彼女を見て微笑みながら髪をかきあげた。

 その仕草を斜向かいで黙って見ていた西口には彼女の姿が見えていない。だが、西口は背筋が痺れる感覚に襲われていた。そして、慌てふためきながら急いで口を両手で押さえた。そうしなければ、きっと悲鳴を上げてしまっていただろう。


 それはカーテンを付けていない大きな窓に街灯の光が白く反射して、彼女の冷たく薄ら笑いを浮かべた顔が見えたのが理由だったからだ。本来、彼女が居るであろう場所には当然、彼女の姿は見えない。だが、ガラス窓には彼女はしっかりと映っている。白く清楚なレースのワンピースに長く細い足が伸びていた。きっと、首を吊った時の彼女の姿なのだろう。お世辞にも美しいとは言えない、寂しげな表情を浮かべた初老の女性が彰に手を伸ばしていた。西口は目を背けたくなったが彰の表情を再度確かめると、誰にも聞こえないほどの小さな呼吸をゆっくりとする。視線をもう一度だけ窓に向けると、今度は彼女の目が西口を恨めしそうに見つめていた。


「お嬢ちゃんは若くて、可愛くて。どうせ…… 苦労のクの字も知らないんでしょ?」


 将来がまだまだこれからの若者に酷く冷たい言葉を浴びせたが、もちろん彼女の声は西口には聞こえない。代わりに彰は苦笑いをした。

「お嬢ちゃん…… だってさ。西口くん」

「……まったく。彰さん、あとで僕にスペシャル珈琲とケーキセットを奢ってくださいよ? それで全てチャラにしてあげますから」と大声で言い放った。


 西口の言葉に彰は呆気に取られ、少し力を抜いた後に口を噤む。彰は唇を緩ませ、冷静な大人の優しい目になった。


「西口の好物。みよしの野菜天ぷらと鶏天の温かいうどんを奢ってやってもいいぞ! もちろん、追加のヤングコーンの天ぷらもつけていい! お坊っちゃんには、それくらいご褒美がないとな」


「お坊っちゃんって…… 彰さん? 男に二言はありませんね? 絶対ですよ! そうですね、三時のおやつには雲母のきな粉たっぷりの白玉も奢ってくれちゃってもいいんですからね!」


「いや、それはずるいと思うぞ? それに観光客が多い時期だ…… って、まあいいか」

 その言葉を言って、いつもの彰に戻っていることに西口はホッと肩を揺らした。


「そんなことは後回しだな。話を戻そうか。旦那さんが困っていた時にアンタは傍で支えてやらなかった。悲劇のヒロインぶってこの場で寄生を選んだ。そうだよな?」


「なによ! 分かったような言葉を並べないでよね…… なんにも知りもしないで……」


「俺らは横浜のとある場所で話を聞いてきたんですよ」

「僕も側に居ました。その時に書類のコピーもいただいていますよ」

 西口がクリアファイルから数枚の紙を出してヒラヒラと揺らしながら彼女が居るであろう場所に見せてみた。

 そのセリフと西口の手にある紙に彼女はピクリと眉を動かした。


「旦那さんの会社が上手くいかなくなって悩んでいる時に、アンタは傍でなんて言った?」


「あ、あなたに…… 関係ないじゃない……」


「そう…… 今の、そのセリフと同じだな。私には関係ないって、その時も言ったらしいな。困るとアンタはそのセリフを吐く癖があった。支えることもせず、目を合わすこともせずに自分の寝室に逃げ込んだ。アンタは元々2LDKだったマンションを部屋に仕切りと天井までの棚を業者に頼んでつけてもらい今の3LDKにした。そうだよな?」


「旦那さんがとても悔やんでおられましたよ。もっとちゃんと向き合って話せばよかったと……」

 西口はクリアファイルの端を少しだけ強く掴むと、悲しげに床に視線を落とし、彼女がいるであろうベランダを見つめた。


「嘘よ! あの人は仕事ばかりだった! 私なんて見ていなかった! 私はあの人の飾りだったのよ! 着飾って綺麗にいつもして、隣で微笑んでさえいればあの人はそれでよかったの…… それであの人はよかったの……」

 今にも泣きだしそうな表情で下唇を噛むと茉莉花は口を噤んだ。


「言葉もまともに交わさずに分かって欲しかったはないんじゃないか?」

 彰は構わずに言葉を続ける。その言葉に続くように西口が口を開く。


「僕は、こうも言われました。子供が生まれていればキミくらいの子が居たと……」



「……知ったようなこと言わないで! つわりも酷くて…… 日常生活ですら辛かったのよ! 階段だって、買い物だって、私はずっとひとりだったの! 支えて欲しかったのは私だって同じだったのよ!」


「……そうだよな。見栄も外聞も全て捨てて選んだ人だもんな。本当に好きだったんだよな。悲しかったよな? 周りがアンタばかりをキツく言うんだもんな…… 大人のイジメは終わりがないから。妬み嫉みは終わらないもんな。でもな、ひとりで抱え込む必要はなかったんだよ。アンタは迷惑だと思ったんだろ? 迷惑っていうのはアンタが決めちゃダメだ。そういうのは相手が決めることだ」


 床にぺたりと座り込む茉莉花が思いのほか小さくなって彰は自分のジャケットを彼女の背にかけてやると声を上げる。


「アンタはひとりじゃないからな? 分かるかい? 理解出来ているなら、もうこの場所から出なきゃな? 用意された場所に行こうか」


「ごめんなさい…… 私ね、本当にあの人が、潤一さんが好きだったのよ」


「知ってるよ。貴女は嘘が下手だから…… 女性は男が守らなきゃ。ね?」

 彰が長い睫毛を揺らすと大粒の涙を一粒落とす。茉莉花は彰を見てキュッと胸元に手を置き、目を伏せて微笑む。



「偉そう……に…… ありがとう……」

 彼女はさっきよりも柔らかく微笑むと、ベランダから部屋にゆっくりと入った。小さく折りたたまれた鏡に彼女を入れて胸のポケットに仕舞うと彰はそっと胸を押さえて目を閉じた。彰を背に西口の目には彼女が居たベランダから見える、薄紅色のクロフネツツジが鮮やかに咲ほころんでいた。




「西口……」

「……なんですか?」

「俺も…… 雲母の抹茶白玉あんみつ食いたいわ」

「僕のきな粉白玉とわけっこするなら…… 考えてあげても良いですよ」

「やらねえよ…… ご褒美なんだよ、俺にも…… だからやらねえ……」

「彰さんのケチ!」



 ――これにて任務完了です。

 彼女は寂しかった。本当に好きになった相手なのに周囲に認められず、卑劣な噂も流されて、彼女は思うように笑えなくなった。頑張って婦人科に通い、やっと授かった子も流れた。夫を思うからこそ、部屋も別にして彼女は自分の心に籠るようになった。愛した故の間違いは取り返しがつかない所に行ってしまったのだ。口出しをしないようにと、良い妻をと、考えたことが仇となった。支えることもせず、遠くから見つめるだけの寂しさに心が耐えきれなくなり、彼女はベランダでひとりで命を絶ったのだろう。

 恨みなどなく。悲しみと寂しさに彼女は殺された。これが彰が出した答えだった。


 人は、ひとりじゃ寂しいんだ。

 どこかで誰かと繋がっていたいのだよ。

 それが例え、姿かたちが分からなくなっても。

 俺も…… そう思うよ。

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