第8話 黒百合の呪い

—成政 side—


あの日、自分と会っていた事を内緒にしてくれと言った少年と別れた後。俺はすぐにでも友人に連絡しようとしたのだが、生憎あいにく仕事中なのを思い出した。よって一度は手にした携帯を仕方なくポケットに戻す。それから近くのお客さんの家で用事を済ませた後店に戻った。


(電話は夜までお預けだな)

いや、だからと言って何も出来ないという事は無い。俺は絶えず訪れるお客さんたちに聞いてみる事にした。しかし……。


「支倉さん……あぁ、あの女の子?」

「はい、たまに来て凄い量まとめ買いしてるみたいで。大変そうっすよね」

「あらそうなの? 話した事も無いから知らなかったわ」


このように、詳しく知る人は誰も居なかった。客足の途絶えた隙にがっくりと肩を落としていると、店の奥からダンボールを抱えた親父が出て来た。親父は落ち込む俺を見て開口一番に言う。


「おいおい、客商売やってる奴がしけた面見せんなよ」

ぼやきながらどさっと置いた箱の中から、出した野菜を手際よく陳列していく。俺はそんな親父の背中に向かって諦め半分に声をかけた。


「なぁ親父、支倉晴って子知ってる?」

こうもハズレ続きなんだ。いくら顔の広い親父でも駄目だろう。そう思ったのだが。


「あ? 晴ちゃんがどうした」

「え、知ってんの?」

「だからそれがどうしたって」

親父はこちらを振り向いて呆れ顔を向けてくる。まさかこんな近くに情報源が居たとは。俺は思わず親父に詰め寄った。


「何でもいい、そいつについて知ってること教えてくれ!」

「お、なんだ。お前晴ちゃんにホの字か」

親父はにやにやしながら言う。


「違うわ!」

そーかいそーかい、と何かを察したような顔。悪いがその勘は恐らくハズレだぞ。いいから、と急かすと親父は咳払いをしてから話し始めた。


「晴ちゃんなぁ……色々大変だったみたいでな。それであんな変わっちまったのかね」

「変わった?」


それから親父が言うには、あいつは幼い頃両親を亡くし、この村に越して来た。初めは落ち込んでいたが、引き取ってくれた祖母、絹江さんのお陰で徐々に元気を取り戻していった。その絹江そんに連れられて当時も何度かこの店に来たことがあると言う。しかし一年程した頃から、時が戻ったようにまた笑わなくなってしまった。それからはめっきり見かけなくなったのだそうだ。


「そんで彼女が高校を卒業するちょっと前あたりに絹江さんも亡くなっちまってな」

葬儀もあったんだが、お前はその時ここに居なかったから知らんだろ。と親父は続ける。


「そこからはずっと一人で暮らしてる。何の仕事かは知らんが、家で出来る事して生活してるみたいだな」

そこまで言うと、一気に話して疲れたのか、親父は逆さにしたビールケースに腰を下ろす。


「ま、俺の知ってる事はこんくらいだ」

「あぁ、ありがとう」

確かに色々大変な思いをしているらしい。つまりあいつは天涯孤独ってやつなのだ。それは良く分かった。ただ一つ、今の話のどこにもあの子供が出てこないのが気になった。


「なあ親父、そいつ本当にずっと一人暮らしなのか?」

「安心しろ、晴ちゃんに男がいるなんて話は聞かねぇ。お前にもチャンスあるぞ」

「だから違うって!」

そいつと一緒に住んでるって言う子供と会った——そう言おうとしてやめた。内緒にするって約束したしな。


「すいませーん、これ下さい」

「はいよ、毎度!」

話が終わってから丁度やって来た客がレジの前に立つ。俺はその対応に向かった。


「じゃ俺も戻るわ。しっかりやれよ」

サボってると母ちゃんにどやされるからな。そう言って親父も裏の仕事に戻る。


女の事はかなり詳しく聞けたが、依然としてあの子供の事は分からずじまいに終わった。






そしてその夜。俺は携帯の電話帳から友人の名前を探し、通話ボタンを押した。その友人は数回の呼び出し音の後で電話に出た。


『もしもーし』

間延びした声。こいつは相変わらずだ。ちなみにこいつは農家を継いだので、今も村に居る。休みの日はしょっちゅう会う仲だ。


「急に悪いな浩太こうた。今良いか?」

『はいはいどうぞ、殿のご随意に』

そう言えば俺の事まだ殿って呼ぶの、名付けたこいつくらいだな。


「お前さ、二つ下の後輩に仲良いやついるか?」

『本当に急だな。いるけど、どうした?』

「んー話すと長いんだよな……ちょっと聞きたい事あってさ。仲介して欲しいんだ」

『成る程、訳ありか!』


いやまあそうなんだけど、何でこいつはちょっと楽しそうなんだ。こんなんでも陸上部主将だったんだから世の中分からん。


『まあ殿のご命令なら聞きますよ。今そいつの番号送るわ』

「ありがとな。今度飯でも奢ってやるよ」

『よっしゃ! 忘れんなよ! そんじゃまたなー』


そう言ってすぐに通話が切れる。それから間を空けずにメールが届いた。そこには後輩の電話番号と、他に短い文が添えてある。


“名前 遠藤えんどう洋介ようすけ

“この時間なら仕事終わってるはず”

“たぶん電話してもダイジョーV”


俺はふっと笑みを零す。こいつ意外とまめなんだよな。さすがは元主将か。そう思いながら番号を打ち、発信する。知らない番号からだけど、出てくれるだろうか。


『……はい』

そんな心配を他所に、彼はすぐに出てくれた。俺は警戒されないようなるべく明るく振る舞う。


「こんばんは。佐々木成政と言います。君の先輩の三上みかみ浩太の友達なんだけど」

『成政……あぁ殿様ですか?』

「!?」

『高校の時三上先輩とよく一緒にいた方ですよね』

「そうだけど、何故そのあだ名を知ってる……?」

浩太のやつ、後輩にまで変な事触れ回ってやがったのか。やっぱり奢りは無しだ。次会ったら問い詰める。


『よく言ってましたよ。俺たちは殿って呼ぶけど、お前ら下々の者は敬意を持って殿様と呼ぶようにって』

呼ぶ機会は無かったですけど。そう言って洋介は笑う。それを聞いて、俺は盛大に溜め息を吐いた。


「まあ何でも良いけどよ。突然で悪いんだが君、支倉晴って人知らないか?」

『そいつなら、一年の時同じクラスでした。ちなみに小、中学校でも何度か同じクラスになってます』

元々生徒数少ないですからね、と付け足す彼に、俺はマジか! と返した。やっぱり世間は狭いな。と言うよりこの村は本当に狭いな。


「そいつについて知ってる事何でも良いんだ。教えてくれないか」

『はぁ。構いませんけど。殿様、支倉の事好きなんですか?』

お前まで、何でどいつもこいつもそればっかりなんだよ。もう何でも良いよ。


「あー……後でちゃんと説明するよ。とにかく、頼む」

そう言うと、彼は分かりましたと答える。次いで大した事は話せませんよ、と前置きしてから話し始めた。


『支倉は小学校二年の時に、俺のクラスに転校して来ました。確か親が亡くなったとかで』

俺はああ、そうらしいなと相槌を打つ。


『最初のうちはずっと落ち込んでて……まあ当然と言えば当然なんですけど。けど少しすると明るくなってきて、その頃は友達も結構居ましたよ』

親父に聞いた通りだ。確か婆ちゃんの絹江さんのお陰とか言ってたな。


『けど三年生の夏だったかな、支倉の兄さんが亡くなったらしいんです』

「っあいつ兄がいたのか!?」

『はい。殿様と同じ学年な筈ですよ』

……支倉なんて奴いたか? いや待て、あいつが三年なら俺は五年生。その夏って言えば。


「俺骨折して入院してたのがその頃だったような……」

転校して一年くらいしか居なくて、恐らくクラスも違う。しかも入院してる間に居なくなったのなら、忘れててもおかしくは無い、か? まぁ小学生なら通夜だの葬式だのに呼ばれる事も無いだろうし。先生も詳しくは説明しないだろうし。だから大して話題にならなかったのかもしれない。


『その歳で骨折って、何したんですか』

「山でターザンごっこして川に落ちた」

『……そうですか』

なんだよそのスンッとした声は。笑いたきゃ笑えよ。いや、そんな事はどうでも良い。あいつに兄が居たとは驚きだ。


『まぁとにかく、その兄さんが亡くなってからまた最初に戻ったと言うか……寧ろ更に暗くなったんですよね』

分からないでもないですけど、と彼は言う。そりゃそうだ。両親を亡くして、ようやく立ち直ったと思ったら今度は兄が亡くなった。それは一体どれだけのショックだったか。俺には想像すら出来ない。


『その先の事は何も知りません。たまに同じクラスになっても暗いままだし、話した事も無いし』

「そうか……いや充分だ。ありがとな」

『あ、そういえば。あいつ顔は良いんで結構モテてましたよ』

そんなどうでも良い情報の最後に、頑張って下さいね、と付け足す。何を頑張るんだ。俺は適当に返事をして電話を切った。


(……兄か)

何かありそうだな。今の話では支倉兄妹は小学生の時からこの村に居た。なら幾ら何でも家の近所の人ならもう少し何か知っているかもしれない。丁度明日は休みだ。あの辺りまで行ってみよう。そう考え、俺は部屋の電気を消す。今日は早めに寝て明日に備える事にした。






翌日。俺は自転車を走らせ女の家へ向かった。あの近辺には鈴木さんという常連のおばちゃんが住んでいる。この時間鈴木さんはよく家の前を掃除していた筈だ。


10分程走った頃、予想通り箒を持った鈴木さんを発見する。運が良い事に他のおばちゃん達も集まって井戸端会議の真っ最中だった。


「おはようございます。今日も暑くなりそうっすね!」

俺は自然な感じでその輪の中に入る。こういう時顔が広いと便利だ。


「あら成政君おはよう」

「いやぁ若い子は朝から元気でいいわねぇ」

いやいや、お母様方には負けますよといつもの調子で返した。それに皆は気を良くして笑い出す。


「こうも毎日暑いと、配達が大変で大変で」

「そうよねぇ。頑張ってるところ良く見てるわよ」

「あ、配達と言えば。こないだ支倉さんとこのお嬢さんに配達サービス提案したんすけど、断られちゃって」

会話の流れから自然と女の話題を持ち出す。それを聞いた主婦達は顔を見合わせた。


「晴ちゃんね……成政君もあんまり関わらない方が良いわよ」

「?」

何のことだか分からず首を傾げる。すると一人が厄介者を見るような目で、女の家の方をちらりと見た。


「だってなっちゃんがね……」

それに呼応して周りの人らも声を潜めて続ける。


「そうそう。あの家色々と良くない噂聞くじゃない」

「怖いわぁ」

口々に女の事をそう話す。怖いと言いながらもどこか茶化すような色を滲ませるそれは、聞いていてあまり気の良いものではなかった。しかし情報を得る為、それをぐっと堪える。


「なっちゃんってのは誰すか?」

「晴ちゃんのお兄さんよ。夏彦なつひこ君の事」

「あぁ、亡くなったって言う……」

あいつの兄はどうやら夏彦という名らしい。支倉夏彦。俺と同い年の転校生。思い出そうと頭を働かせるも、やはりその名に覚えは無かった。


「そう、そのなっちゃんね。亡くなったのは事故らしいんだけど」

「私見ちゃったのよ。あの日晴ちゃんが血だらけのなっちゃん背負って家に入って行くところ」

「泣きもしないで静かなもんだったんでしょ? 本当何考えてるんだか分かんない子よね」

繰り広げられる会話のなかなか衝撃的な内容に、俺は相槌すら忘れて絶句していた。ようやく内容が頭に入った頃に浮かんできたのは、面白がって噂する彼女らに対する怒り。


何考えてるか分からないだって? そんなの、悲しかったに決まってるだろうが。悲しくて悲しくて、涙が枯れるまで泣きはらした後だったのかもしれない。背負って来たのだって、携帯も持ってない子供だぞ。自分が何とかしなきゃって思っての事かもしれない。人を呼びに行くにしても、そんな状態の兄を一人置いて行けなかったのかもしれない。それを何故こんな風に言われなきゃいけないんだ。


そんな事を思いながらも、なんとか笑顔だけは崩さないように拳を握りしめる。そんな俺に気づかない彼女らはなおも続けた。


「成政君知ってる? 実はなっちゃんって晴ちゃんに殺されたんじゃないかって噂があるの」

あの女の事を考えていた俺の耳に、そんな無情な言葉が届く。それを聞いて思考が一瞬で消し飛び、俺の中の何かが切れた。


「違っ——……」

違う、そう叫ぼうと思った。しかしその言葉は最後まで発せられる事なく喉の奥に消えていく。俺を遮るように、同じ言葉を叫んだ者が居たからだ。


「違う!!」

振り向くと、そこには女……支倉晴が立っていた。






— — —


「違う!!」

女は叫んだ。黙って聞いていれば好き勝手な事を。そう思って声を張り上げた。


この少し前、女は庭仕事をしようと家の外に出ていた。するとどうだろう。少し離れたところで近所の住人が集まり、自分と兄の事を噂していた。時折聞こえてくるのは下卑た笑い声。それでも始めのうちは黙って聞いていた。こんなのいちいち相手にする必要は無い。好きに言わせておけば良いと思っていた。しかし。


「晴ちゃんに殺されたって——」

それを聞いて、もう駄目だった。道に飛び出し叫ぶと、皆が一斉に女の方を向く。


「は、晴ちゃん……」

しまったと口に手を当てる女たち。しかしそんなもの女の目に映っていない。彼女が見ていたのはその中心にいた一人の人物。


確か佐々木成政。以前少し話した事のある男。


「聞いてたのか」

その男は焦った顔で女を見る。あぁそうか、やっぱりあなたも皆と同じ。あなたと話して楽しかったと感じたあの時の気持ちは、きっと勘違いだったのだ。そうして落胆している自分に驚き、そして愕然とする女に、成政は手を伸ばしながら一歩近づいた。それを避けるように女も一歩引く。


「ち、違う! 私じゃない……殺してない!」

怯えるように肩を震わせて女は言う。成政が更に一歩踏み出した時。それを合図に女は身を翻し、逃げるように走り出した。


「おい、待て!」

成政もその後を追う。後ろで自転車が倒れる音がしたが、彼の耳には既に聞こえていなかった。






互いに息を切らして走る。そうして山の麓に差しかかった頃。成政は漸く女の腕を掴んだ。女はその手を振り解こうともがきながら、息も絶え絶えに叫び続ける。


「違う、違う……っ」

髪を振り乱し、壊れた玩具のように同じ言葉を繰り返す。


「お前がやったなんて思ってない。落ち着け」

成政は女の細い両肩を掴んで正面を向かせた。しかし女は目を合わせず、殆ど錯乱状態のまま。一体何が原因だ。確かにキツイ事を言われていたが、あれはあくまで噂だ。ここまでになる程何がお前を追い詰めているんだ。混乱する成政は、兎に角落ち着かせようと声をかけ続けた。しかしそんな男に対し、女は言い放つ。


「嘘だ! だってお前は『成政』なんだから。早百合さゆりの時のように噂に踊らされる馬鹿な男なんだ!」

「早百合……?」

「どうせ私の事も信じて無いくせに。だったらもう放っておいてよ!」


女はそう言うと遂に膝から崩れ落ちた。成政も一緒に座り込み、泣きじゃくる彼女を前に途方に暮れた。


(早百合ってのは確か、佐々さっさ成政なりまさの側室だ)

俺は以前自分の名前の由来となったこの武将について調べた事がある。その彼の逸話の一つに黒百合伝説というのがあったはず。


その内容はこうだ。側室ながらも成政の寵愛を受けて妊娠した早百合を妬んだ女たちによって、腹の子は他の男との子であるとの噂が流された。それを信じた成政は早百合とその一族を殺してしまうというもの。


「しっかりしろ、俺は佐々木だ。お前の言う男じゃない」

諭すように語りかけるも反応はない。これでは埒が明かないと、成政は女の両頬を挟んで無理矢理上を向かせた。


「!」

「ちゃんと俺の目を見て、話を聞け! 俺はあんな噂信じてないんだ!」

「う、嘘だぁ」

「嘘じゃない!!」

成政は女の頬を掴んだまま目を閉じて上を向くと、一つ息を吐く。そうして熱くなった芯が冷えるのを感じた頃、再び女と目を合わせた。


「聞いたよ。親を失って、次は兄を失って。そんで婆さんも居なくなって……」

聞きながら女は徐々に落ち着きを取り戻していく。大丈夫だ。俺の声はちゃんと届いている。成政はそう感じていた。そして、そうやって見つめる女の目からは先程までの痛々しい涙とは違う、悲しげな涙が静かに流れた。


「辛かったな」

「っ……う」

成政は手を離し、今度はそれを女の背へ回す。そして子供をあやすようにゆっくりと上下にさすった。久し振りに感じる誰かの優しさにタガが外れたのだろうか。女はそれこそ何年分も溜めていたかのように暫く泣き続けたのだった。






「落ち着いたか」

成政が声をかけると、女はズズッと鼻を啜って頷いた。


「……ごめんなさい」

俯いて照れ臭そうに言う。よしよし、大丈夫そうだなと成政は微笑んだ。


「そんだけ泣いたら脱水になる。ほれ、さっさと帰るぞ」

そう言って女の手を引いて立ち上がらせる。


「大丈夫です。それより何故何も聞かないの?」

「ん、聞いてもいいのか?」

成政の返答に、それは……と口籠る。その顔が可笑しかったのか彼は吹き出した。


「いいよ。言いたくないんだろ」

確かに何故ああも取り乱したのかは気になるところだ。そして出来る事ならあの少年の事も。聞きたい事は山ほどある。それでも成政は女の心情を優先して欲求を飲み込んだ。そんな彼の思いを察した女は、やがて意を決したように口を開く。


「いえ、話したいです。聞いてくれますか」

「……無理はすんなよ」

してませんよ、と女は笑った。


「ちょうどこの山なんです。兄が命を落としたの」

そう言って女は後ろを振り返る。そんなに大きい訳ではなく、危険な獣も居ない山。確かにここは昔から子供の遊び場のようになっている。まぁ成政が骨を折ったのもまたこの安全な山だったのだが。そうなればもはやここは安全とは言えないのかもしれない。


「日陰もありますし、その場所に行ってみませんか」

「お前にとって気分の良い場所ではないだろう。大丈夫か」

成政の言葉に、やはり女は笑う。その晴れやかな顔を見て幾らか安心したのか、彼は分かったよと承諾した。しかしふとその步みを止めて女を呼び止める。女は不思議そうに男を見た。


「目真っ赤だぞ。これでも被ってな」

成政はズボンのベルトに引っ掛けていた白いタオルを差し出す。まだ使ってねーからと付け加えて。


「ふふ、ありがとうございます」

女は可笑しそうに、穏やかに笑った。


(何だ、やっぱり普通の女じゃねぇか)

成政もまた胸の内で笑う。それからゆっくりと並んで歩く二人の間には、穏やかな空気が流れていた。






山の中腹まで来た頃。女は足を止め、すぐ横に立ちはだかる崖を見上げて言った。


「ここです。あの上から落ちて兄は死にました」

言い終わると側にあった平らな岩に腰を下ろす。同様に崖を見上げる成政に、自分の隣に座るよう促した。そして彼が座るとほんの一瞬だけ迷ってから話し始めた。


「最初に足を滑らせたのは私なんです。兄はそんな私を助けようと手を掴んでくれました。けど……」

そこで一旦言葉を切る。そして大きく息を吸ってから再び口を開いた。


「子供の力では引き上げることは出来ず、そのまま二人共崖から落ちました。私は怖くて目を閉じていて……次に目を開けた時は何が起こったのか分かりませんでした」

女は目を伏せる。当時の事を思い返しているのだろうか。


「けどすぐに理解しました。私は兄の腕の中に居て、兄が守ってくれたんだと。そして、その兄はもう助からないと」

女はタオルで顔を覆った。まるで泣き顔を隠すように。


「兄は私が殺したようなものなんです。その思いは心の底に常にありました。先程そう言われた時も、図星を突かれたように思えて。だからあんなに取り乱したのかもしれませんね」

タオルから覗く口元は笑っていた。声も震えてはいない。しかし成政は女が泣いている事に気づいていた。彼は何を言うでも無く、ただ女の背を撫でる。気丈に振る舞う女を気遣うように暫くそうしていた。


やがて顔を上げた女は、照れ臭そうにはにかむ。


「急にこんな重い話ししてごめんなさい。でも話したら少しスッキリしました」

「そうか。なら良かった」

二人は揃って立ち上がり帰路に着く。一人で帰れると言う女に成政は、どうせ自転車回収しに行かなきゃいけないんだと笑った。


「なぁ、そう言えばさ」

「はい?」

「前におまえんちの前通った時子供の声がしたんだが……」

成政はそう誤魔化して質問した。大丈夫、約束は破ってない。しかしそれを聞いた女は目を丸くし、その表情は途端にかげり出す。成政はハッとして、取り消そうと口を開きかけた。しかしそれよりも早く女は答える。


「……それもいつかお話しします。だから今はまだ待っていて下さい」

「そうか、分かった」

込み入った話しはそれきり。そこからは取り留めのない話しをしながら歩いた。そして女の家の前に着く。彼女は成政を振り返り、深く頭を下げた。


「今日は本当にご迷惑をお掛けしました。タオルは洗濯して近いうちお返しします」

「別にそんなの良いんだけどな」

そういう訳には、と女は笑う。そしてもう一度丁寧に頭を下げるとぱたぱたと家の中に入っていった。


一人になった成政は女の家の全体を見渡した。この中に、恐らくあの子供も居るのだろう。その事を訊いた時、正直はぐらかされるかと思っていた。しかし女は言ったのだ。いつか話すと。


(良い方向に向かってるのかね)

そうであって欲しい。あいつはもう十分頑張ったと思う。だからこれからは楽しい事だけ、自分が幸せになる事だけ考えて生きて欲しい。成政はそんな事を考えながら、近くの塀に立て掛けられた自転車に跨った。

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