第3話 縁(えにし)

——ちりん。


その音がまるで目覚めの合図であるかのように、少年は目を開けた。上体を起こし、窓から真っ直ぐに差し込んでくる陽光に目を細める。その光は風鈴の硝子を透過して、金魚の住処を天井へと移す。この日も例に漏れず、暫くの間風鈴に釘付けになるのだった。その名称も知らないままに。やがて襲うのは僅かな胸の痛み。正体不明の痛みを振り払うように目をそらすと、部屋を見渡し女の書き置きに目を留めた。……机上にあるのは白い紙と置物だけ。その場所から前日に読みかけていた本が無くなっている事など彼には知る由も無い。少年の記憶はやはり搔き消されていた。


一方その頃、外で作業をする女は考え事をしていた。


(そろそろ肉や魚を買いに行かないと)

なるべく外出をしないでも済むようにと始めた家庭菜園。その他にも作れる物は自力で賄っている。それでもこうして時々、どうしても買い出しに行く必要がある時がくる。その度に生活用品や食料品などまとめて買い込むようにしているのだ。その間少年はどうしているかと言うと、体調を気遣う風を装い大人しく部屋にいるようにと言いつけていた。勿論それで全ての不安が拭える訳ではないが。


もし敷地の外に出てしまったら。もし書斎に入ってしまったら。そうした不安はぐるぐると渦巻き、常に付き纏ってくる。それは外出しようとする女をいつも尻込みさせるのだ。


あの子を村の人に見られる訳にはいかない。見慣れない子供だと不審に思われる事は明白。それにもし『あの人』の名を出されたら。加えて私の書斎には、これまで何度も捨てようとして出来なかった思い出たちが溢れている。あの子がそれを見てしまったらどうなるか……脳裏にはつい一週間前の悪夢のような光景が蘇り、ぶるりと身震いする。


(はぁ……)

竹箒を握りながら、女は深い溜息を吐いた。大丈夫、これまであの子が言いつけを破った事は無い。それに、仕事の資料として手元に置いていた例の医学書も破棄した。今日もきっと大丈夫。もし何かあっても、夜になれば全て無かったことになるのだから——。


「ごちそう様でした」

朝食を終えた少年は食器を持って席を立つ。そして促されるまま居間に向かった。


居間に二人が揃うと女は話を切り出す。いつもと同じ問答。少年は女の作り話を素直に聞く。そして不安に身を硬くし、偽りの言葉に安堵し、最後には受け入れてくれる。女にとってこの時間は一日の中で最も憂鬱な時間だ。次いで苦痛を感じるのが眠った後の少年の部屋を訪れる時。その日の彼が生きた証拠を消す作業は、何度繰り返しても心を締め付けた。


漸く話しが済み、女は話題を変える。


「私ちょっと買い物に行って来るね。一人にして本当にごめんなさい。すぐ戻るから、君は部屋で休んでて」

「はい……分かりました。じゃあ先に失礼します」


そう言って少年は居間を後にする。彼の足音が階段を登り、部屋に入るのを確認すると女も立ち上がる。廊下に掛けてあった薄手の上着を羽織ると、足早に家を出た。






他ではどうか知らないが、この村の商店街は比較的早い時間から営業を始める。その為もう既に幾人かの買い物客が行き交い、客同士雑談に花を咲かす者も見受けられる。馴れ馴れしいとは違う、田舎特有の親しみやすさが感じられる雰囲気だ。しかし、視界を横切る女に声を掛ける者は誰一人として居なかった。


(当然よね。そうなるように振舞ってるもの)

滅多に家を出ない女を怪しむ者は多い。この狭い村では、きっと大半の者がそう思っていることだろう。それでもこうして下を向き、人を寄せ付けないようにすれば、余計な詮索をされる事は無かった。家に来客なども一切来たことが無い。女はこの村で一人、完全に異質な存在だった。


村にある唯一の学校、そこで共に学んだ仲間たちも同様である。その多くは村の外へと流れ、残った者も時折鉢合えば遠巻きに見ているだけ。女は当時から孤立しており、仲の良い友人などいた試しがない。


「……毎度あり」

会計を済ませて釣りを受け取る。店主は居心地悪そうに一言だけ吐き捨てた。それはまるで早く店から出て行ってくれと言われているようで、女はそそくさと立ち去った。


いくつかの店を周り買い物を終えた女は、大きく膨らんだ袋を両手に持ち、家路を歩いていた。そのあまりの重さに身体がふらふらと左右に揺れる。早く帰りたいのに、足が上手く前に出ない。


チリンチリン!


背後から自転車のベルの音。女は道の端に寄った。するとその自転車は女を少し追い抜いたところで止まり、地面を足で蹴って後退して来る。不思議に思い俯いていた顔を上げて見ると、乗っていたのは女と同じ年頃の青年だった。


(何だろう。誰とも関わりたくないのに)

女は歩みを止めず、その男を避けるように再び俯いた。男はというと、そんな意図に気付いているだろうに、全く意に返さない様子だ。しまいには自転車を押しながら声をかけて来る。


「それ重いだろ。入れなよ」

そう言って自転車のカゴを指す。耳に届いた予想外の言葉に、女は思わず立ち止まり、呆気に取られて固まってしまった。


(この人は私がどんな風に見られているか知らないのだろうか)

何も悩みなんて無さそうな、けろりとした能天気な顔。悪意を持って、物珍しさに声をかけて来た訳ではなさそうだ。女の事を知っているか否かはさておき、厚意で言っているのだという事は明白だった。しかし女はその申し出をぴしゃりとはねつける。


「結構です」

俯いたまま即答する。助力を申し出てくれた人物に対して、随分な態度だと承知の上での事だったが、以外にも男は食い下がってきた。


「そんなふらついてたんじゃ、そのうち土手から転げるぜ」

「大丈夫です。放っておいて下さい」


女は頑なに拒む。その様子に男は呆れたように言った。


「あんた見かけによらず頑固だな」

「っ用心深いだけです!」

「はは!そのまま持ち逃げされるかもって? ないない」


そんな事したらすぐ村中に悪評が広がるわ、と男は声を上げて笑う。確かに男の言う通りで、女は反論出来ずに唇を噛んだ。


「なら用心しなくて良いって分からせればいいんだな」

「は?」

任せろ。そう言うや否や男は進路を塞ぐように自転車を横向きに停めた。ハンドルに肘を乗せ、もう片方の手を腰に当てる。そうして眩しいほどの笑顔を見せた。


「俺は佐々木、26歳。佐々木商店ってとこの跡取り息子なんだ。よろしくな」

で、今は配達の帰り。と自転車の荷台に括られたロープの端をぷらぷらと振って見せる。


佐々木商店とは主に生鮮食品を扱う店で、女も稀に立ち寄る事があった。しかし元々頻度の少ない外出で、更に訪れる店を転々と変えているので互いに顔を知らないのも当然と言える。


「これで信用して頂けましたかね?」

そう言うと男は女の手から買い物袋をさっと奪うと、カゴに放り込んだ。一瞬の出来事に抵抗する暇も無く、女はされるがままになる。


「ほら、そっちも寄越しな」

もう一方の袋も渡すよう男は手を伸ばす。すっかり毒気を抜かれ大人しくなった女は、半ば放心状態になって素直に従う。そうして二人は連れ立って歩き出した。


からから、と自転車のチェーンが回る音。少し錆びているのだろうか。時折不規則になるその音を聞きながら、女は男の半歩後ろを歩いていた。


初めのうちはあれこれ質問してきた男だったが、女は頑なに口を閉ざしたまま。気づくと殆ど男だけが話している状態となっていた。はたから見れば何とも可笑しな光景だっただろう。にこやかに話す男と、俯いた無言の女。しかし男にとってはそんな事どうでもいいようで、なおも話を続ける。


「俺の名前成政なりまさって言うんだけどさ、戦国武将の名前から取ったんだって」

「……」

「苗字が一文字違いだからって面白がって付けたんだぜ。それでいいのかよ!って思うよな」

「……別に」


愛想の無い返答に男は憤るでもなく、呆れるでもなく、ただ喋り続ける。その後も何が楽しいのか、飽くことなく彼の一人喋りは続いた。


「もうここで良いです」

次の角を曲がると家が見えるという場所に来て、女は足を止めた。この男が善人なのはここまでに充分理解したが、それでも家を知られるのには抵抗があった。


「そっか。じゃあほれ」

男はカゴに手を伸ばし、預かっていた買い物袋を引っ張り出す。それを女に持たせてから口を開いた。


「随分外れに住んでるんだな。毎度この量の買い物してんなら大変だろ。今度からうちで配達してやろうか?」

「……考えておきます」


そう返すと男はにかっと笑う。そんな気も無いのに放った言葉に、女は僅かに罪悪感を覚える。そのせいだろうか。じゃあな、と残し来た道を戻ろうと背を向ける男を、思わず呼び止めていた。


「あ、貴方と同じ名前の武将……」

「ん?」


男はサドルに跨ったまま振り返る。


「確か最期は切腹させられたんですよね」

「なんだ、知ってるのか」


何もそんなやつの名前付けなくてもな、と男は苦笑する。違う、そんなことが言いたいのではない。女は慌てて言葉を続けた。


「色々と怖い逸話もありますけど、とても有能な人だったらしいですね。だから、その」

どう言ったものかと口籠る女を、男はじっと見つめる。急かすことなく待ってくれている。やがて女は弾かれたように顔を上げた。


「とても良い名前だと、思います……」

急に何を言い出すのかと不審に思われただろうか。しかし一度放った言葉はもう戻らない。女は激しい後悔に襲われ、再び俯いてしまう。しかし次の瞬間、頭上に降ってきたのは心底楽しそうな笑い声だった。


「もしかして俺、今励まされた?」

それは次第にクックッと奥歯で噛みしめるような笑いに変わる。女は返す言葉もなく、居た堪れない心地で立ち尽くしていた。


「はー笑った笑った。……じゃあ行くわ。気をつけて帰れよ」

漸く落ち着いたのか一度深く息を吐くと、男はペダルを漕ぎ片手を挙げる。返事をする間も無く、後ろ姿はどんどん小さくなっていった。背中が見えなくなるまでそうしていた女も、やがて踵を返して歩き出す。その足取りは軽く、両手に抱える荷物は当初よりも心なしか軽く感じた。






「ただいま」

ガラガラと玄関の戸を開けると、すぐに二階から少年が出迎えに降りてきた。


「お帰りなさ……わっ!」

少年はドサっと置かれた大量の荷物に驚いて声を上げる。赤くなった手の平をぷらぷらと振る女を見ると、申し訳なさそうな表情を浮かべて言った。


「大丈夫ですか? これ運びますね」

調味料のボトルや味噌が入った、より重そうな方の袋を両手で抱え台所へと向かう。その背中に、女は靴を脱ぎながら慌てて声をかけた。


「あ、いいよ私がやるよ!」

焦って脱いだ靴は逆さまにひっくり返る。それをきちんと揃えて置き直すと、残った荷物を持って後を追った。


(あれ……なんかいい匂いがする)

廊下を進むにつれ、その匂いは次第に濃くなっていく。台所に立ち入るとその正体はすぐに分かった。


「わ、美味しそう!」

食卓の上には野菜炒めの卵とじが綺麗に二人分並んでいた。火にかけられた鍋を覗き込むと中には玉ねぎとワカメのスープ。丁寧に白ごまも浮かんでいた。


「材料勝手に使ってごめんなさい」

「ううん、ありがとう! 助かるよ!」

女が頭を撫でてやると、それまで不安げにしていた少年は嬉しそうに目を細めた。


「君は料理が上手なんだね」

「覚えてはないけど、前からよく作ってた気がするんです。こういうの体が覚えてるって言うのかな」


「! そっか……」

そういう事もあるのか。これからは、あまり同じ事を繰り返しさせないようにしなければ。女は体温が急速に冷えていくのを感じた。確かにこれまでも一緒に台所に立つ機会はあった。二人で並んで料理するのは楽しかったし、女の手助けになると言って何より彼自身が嬉しそうだった。しかしやらせ過ぎも問題なのだと女は悔やんだ。つくられた仮初めの平穏は、僅かな綻びで容易く壊れる。懸念は全て排しなくてはいけない。そうでないと今の暮らしは維持出来ないのだから。


「どうしました?」

少年はぼうっとする女の眼前で手を振って見せる。それに対し女は、何でもないと力なく微笑んだ。


「食べようか」






午後になると女は書斎に篭り、執筆作業に没頭した。その間少年は部屋で読書に耽っているようだった。


そしてまた夜がやってくる。書斎を訪ねて来た少年と就寝の挨拶を済ませると、女は浴室に向かった。


ぱしゃん——。


ぬるめの浴槽に胸まで浸かって膝を抱える。髪の先からぽたりと落ちた雫が膝を濡らした。


(今日は久し振りに人と話したな)

少年以外の人間とまともに会話したのはいつ以来だったか。もっとも、あれをまともと言って良いのかは微妙なところだが。女は天井に張り付いた水滴を見つめながら、日中出会った男の事を思い返していた。


(ちょっと楽しかった、かも)

彼は何の遠慮も無く、ズケズケとこちらに踏み込んで来た。初めは鬱陶しいとしか思えなかったが、話を聞いているうちにまた違った印象を受けるようになった。能天気に見えてその実、彼は人をよく見ている。相手が話したく無い事は訊かないし、無理に会話に参加させようともしない。恐らく女が本気で拒絶したら、すぐに引き下がって行った事だろう。


(けどまあ、もう会う事は無いだろうな)

佐々木商店と言ったか。そこには今後決して行くまいと女は決意する。もうこれ以上他者と関わりたくはない。私は独りでいいのだ。あの子さえ居てくれればそれで……。


女は俯く。水面に浮かぶのは感情の無い自分の顔。それを掻き消すように勢いよく立ち上がると浴室を後にした。






女と挨拶を交わした後、少年は自室に戻り襖を閉めた。時計を見ると時刻は21時を指している。


少し早いが、もう寝てしまおう。明日は早く起きて、お姉さんの手伝いをしよう。そう思い少年は部屋の電気を消した。


布団に入るとすぐに眠気がやってくる。しかし、何度か眠りにつく寸前まで行くのだが、その度にじとじとした蒸し暑さに邪魔をされて目を開ける。堪らず布団を剥ぐも気休めにすらならず溜め息を吐く。少年は小さく唸り声を漏らしながら、右へ左へ寝返りを打った。


……カサッ


突如、耳元で音がする。それは寝返りを打つ度に続けざまに聞こえた。


(枕の中?)

柔らかい感触の中に時折混じる、チクチクとした異物感。朝起きた時は寝返りをしなかったから気づかなかったのか。少年は側面のチャックを開け、カバーの中に手を入れる。すると出て来たのは、くしゃくしゃに丸められた数枚の紙切れだった。破らないよう慎重に開き、中を確認して驚愕する。それは日記の切れ端のようで、次のように記されていた。


“8月2日”

朝食の後でお姉さんは、昨日ぼくを拾ったと言った。でもそんな筈はない。だって昨日もぼくはこの家にいて、同じ事を言われたのだから。昨日も一昨日も、その前も同じ事を言われた。ぼくはそれを覚えていないけど、この日記にはそう書かれている。それは確かにぼくの字だった。もしかしたら、ぼくは前の日の出来事を忘れてしまう病気なのかもしれない。


“8月3日”

朝目が覚めると、身体の下に隠すように挟まっていたこの日記を見つけた。中を読んで驚いた。全て書かれている通りの事が起こったから。今日も朝食後にあの話をされた。前のページにもある通り、ぼくは病気かもしれない。でもお姉さんは何で嘘をついているんだろう。明日のぼくへ、何かお姉さんから聞き出せないか試してみてくれませんか。


“8月4日”

昨日のページに書かれている通り、今日はお姉さんに質問してみることにした。ずっと前からぼくはこの家にいるよねって。そしたらお姉さんに、何でそんな事言うのって大声で怒鳴られてしまった。すごく怖かった。何でもない、そんな気がしただけって誤魔化したけど、お姉さんはずっと泣き止まなかった。よっぽどぼくに知られたくないみたい。この日記は、もしかしたらとても危ない物かもしれない。絶対に見つからないようにして。


一番新しい日付は8月4日。今日から数えて一週間前だ。この一週間は日記を書いていなかったのだろうか。そして、内容から察するにもっと以前から書き続けられていた筈だ。それなのに何故この三日分だけが破り取られ、枕の中に隠されていたのだろうか。


(だめだ、眠い……)

考えを纏めようにも、眠気はどんどん強くなっていく。時刻は23時になろうとしていた。


(っとにかく隠さないと)

お姉さんに見つからない場所。しかし明日の自分が確実に見つけられる場所。少年は上手く働かない頭で必死に考える。そして苦肉の策でTシャツを捲り上げ、腹の上に隠した。その上から布団を被る。もう目を開けているのも限界だった。


(朝になったら……全部、忘れてるのか……)

そう思ったのが最後。そのまま少年は寂しさを感じる間も無く眠りに落ちた。

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