第2話 日常
朝食を終えた二人は揃って畑に出向いていた。と言っても大層なものではなく、庭にある小さな畑なのだが。しかしそこは手狭ながら丁寧に整えてあり、丸々と太った野菜がたわわに実っていた。それら全て女が手ずから育てたものだ。
凄い、と感嘆の息を漏らしつつ少年は水撒きや草取り、野菜の収穫の仕方などを教わる。始めは体調を気遣っていた女も、元気そうに働く少年を見て安心したようだった。
「日中に水をあげるときは上からかけないようにね。ついた水が熱くなって葉が火傷しちゃうから」
女の言葉に頷きながら、茎の根元に水をたっぷりとかけていく。それから鮮やかに色づくトマトや茄子などの野菜を一緒に収穫した。次いで鶏小屋に場所を移すと飼料の出し方を教わり、少年はふんふんと頷く。記憶を失くした少年がするすると知識を取り込む速度は、それこそ乾いた土壌が水を吸収するようだった。そうして一通りの指導を終えた女は唐突に口を開いた。
「じゃあ私は仕事があるから、残りの草取りお願いしていいかな」
「え、これからですか?」
時刻は10時を回る頃。こんな時間から出掛けるのだろうかと首を傾げる。すると女は違う違う、と手を振りながら続けた。
「小説を書いてるの、もちろん家でね。何冊か本にもなってるんだよ」
「そうなんですか……」
少年は驚き、そしてどこかホッとしたように返した。そんな様子に気付いたのか女は笑って肩をすくめる。
「私が家を空けることは滅多にないから大丈夫。安心した?」
言いながら目線を合わせるように腰を折る。からかうような笑みの中にも、そこにはどこか優しさが溢れていた。しかしそんな子供扱いを素直に喜べない少年は、どう答えたものかと押し黙る。すると女は唐突に自分の麦わら帽子を脱いで少年の頭に乗せた。
「これからうんと暑くなってくるから、これ被って。私は部屋にいるから何かあったら直ぐに呼んでね」
そう言い残し、手を振りながら野菜を待って家の中へ入って行く。その背中が視界から消えると、一人残った少年は帽子の角度を直しながら畑の側にしゃがみ込んだ。
(お姉さんは作家さんなんだ)
あの人が書く物語はどんなだろう。優しい書き手と同様にきっと本の中にも温かな世界が広がっているに違いない。少年は女の書く物語の事を考えながら、黙々と草取りに励むのだった。
蝉の音が徐々に勢いづく頃、汗が頬を伝って流れる感覚にふと顔を上げる。女の言う通り、日が高くなるにつれ次第に暑さが増してじりじりと肌を焼いた。一度出来た道筋を辿るように次々流れる汗を、軍手を外した手の甲でぐいっと拭う。ふう、と息を吐いた丁度その時だった。家の方からおーいと声が聞こえてくる。
「そろそろお昼にするよー!」
声の方に振り返ると、女が縁側に立って手を振っていた。少年はずり落ちた麦わら帽子を押し上げて返事をする。そしてぱたぱたと女の元に駆け寄った。
「随分綺麗になったね、ありがとう」
庭を見渡して言いながら、はいこれ、とグラスに入った麦茶を差し出す。少年はそれを受け取って口をつけた。喉が渇いていたのか一気に飲み干すと、グラスを女に返す。
「ありがとうございます」
一瞬で空になったグラスを目を丸くして受け取る女は、堪らず吹き出す。それを見て少年はきょとんとするのだった。
「お疲れ様。手と顔洗っておいで」
余程可笑しかったのか、女は未だ肩を揺らしている。そうしながら少年の頭から麦わら帽子を取った。
頷きながらも頭上に『?』を浮かべる少年がとても可愛らしく見え、その後も女の笑いは暫く収まる事は無かった。
少年が台所に入ると、食卓には瑞々しい冷麦が大皿に乗って準備されていた。側の小皿には先程収穫したトマトを切ったものが並んでいる。
「簡単でごめんね。薬味は色々あるから、好きなの乗せて」
そう言っていくつかの小鉢を示す。中には海苔、しそ、ネギ、ミョウガ、白ごま等。少年は迷い無く海苔としそを麺つゆに混ぜ込んだ。
「やっぱりしそなんだ……」
「?」
女は何か呟いたようだったが、その内容までは少年には聞こえなかったらしい。女は慌てて何でもない、と首を振った。
「そうだ、お姉さんが書いてる小説ってどんなお話しなんですか」
少年は箸を止めて尋ねる。途端、女の肩がピクリと震えた。
「どうして? 気になるの?」
「はい。お姉さんは優しい人なので、きっと素敵なお話しを書いてるんだろうなと思って」
「そう……」
笑みを浮かべながらも、女は答えるべきか否か思案しているようだった。やがて自身の口の前で人差し指を立てると含みのある笑みを浮かべて言った。
「内緒」
その返答に少年は些か不満げに頬を膨らませる。
「最後まで書き終えたら、そのとき読ませてあげるから」
「えぇ〜……」
そんなの、その時までぼくがここに居るか分からないじゃないですか。と口を尖らせる。
「大丈夫。絶対に読ませてあげる」
女はまるで確信があるような口ぶりだった。と同時に、なんだかこれ以上踏み込んではいけないような気がして、少年は押し黙る。
「じゃあ約束して下さいね」
それだけ言って、諦めたように再び麺を啜り始めた。
「うん。約束」
微かに呟く女はいつに無く真剣な表情だったが、それに少年が気づくことは無かった。
「「ごちそう様でした」」
食後二人は揃って手を合わせる。すると少年は先に立ち上がり、食器を流しに運びながら言った。
「洗い物ぼくがやりますね」
その流れるような一連の動作に、女は止めるのも忘れてあっけに取られた。それから慌てて自身も立ち上がる。
「いいよ、午前中沢山働いて貰ったし。少しゆっくりして」
女の使用した食器も下げようと手を伸ばす少年を柔く制止する。居候の身だからと気でも遣っているのだろうか。そんな必要は無いのに、と女は思う。このような子供にされるがままになるのは、なんともむず痒いというか、居心地が良くない。そんな女をよそに少年は言う。
「じゃあこれが終わったら少し休ませて貰います」
にこりとまだあどけなさの残る笑顔が向けられる。その顔を前に、女は抵抗する気を全て削がれて敗北した。
「それじゃあ甘えさせていただきます」
観念して座り直すと、食器の片された卓上に頬杖をつく。そうして台所に立つ小さな後ろ姿を静かに見つめた。
(変わらないなぁ)
窓から差し込む陽光と穏やかな空気。流れる水音。それらは子守唄となって女を包む。適度な満腹感も手伝って次第に遠退く意識の中、懐かしい景色の片鱗を見た気がした。
『——…ッ!』
誰だろう、誰かが私を呼んでる。
『———……ッ!!』
この声はお婆ちゃん? 聞こえてるよ、どうしたの?
焦ったような呼び声に返事をしようにも、なぜだか声が出せない。それどころか手も足も、何一つ自分の意思では動かせなかった。
仕方なしに、私はかろうじて目だけを動かして自分の周りを見る。そこには、何かキラキラした物が無数に散らばっていた。これは……硝子だ。何故こんな物があるのだろう。
『——……』
私を呼ぶ声が徐々に小さくなっていく。それはどんどん薄れ、やがては聞こえなくなってしまう。それと同時に、突然動くようになった手を目一杯伸ばして叫んだ。待って、まだ行かないで。私を一人にしないで!
私は泣いているのだろうか。景色が滲む。しかし、そこでふと気づいた。
違う。私はもう一人じゃない。だって貴方が帰ってきてくれたのだから。貴方は私を置いて逝ったりしないから。だからもう、私は大丈夫だよ。
——そうだよね。
「お姉さん!」
「……っ」
肩を揺すりながら呼ばれ、女はゆっくりと目を開けた。顔を上げると側には心配そうにこちらを覗き込む少年が立っていた。一瞬、まだ夢の中にいる心地で周囲を見回すも、そこに硝子の破片はなかった。
「ごめんなさい起こして。なんだかうなされてたから」
どうやら少年を見ているうち、いつの間にか眠ってしまったらしい。暑さのせいかうっすらと寝汗をかいていた。
「疲れてるならちゃんと部屋で休んだ方が……」
「大丈夫だよ。洗い物ありがとうね」
女はさて、と大きく伸びをして立ち上がる。
「私は仕事に戻るね。君はどうする?……そうだ、もし本読むなら置いてあるの好きに読んで良いから」
「あ、じゃあ何冊かお借りします。鶏の餌やりと畑の水撒きは後でぼくがやっておきますね」
お仕事頑張って下さい、と少年は笑う。本当に良く出来た子だ。女は礼を言ってそのまま廊下に出ようとしたところで、思い出したようにはたと足を止める。
「そうそう、うちの敷地内はいいけど、門から外には出ちゃだめよ」
「? 分かりました。けど、どうしてですか」
「そんなの、迷子になったら大変だからでしょう」
口角を上げて意地悪く笑うと少年は、なりませんよ!と声を上げた。
——それから暫くして。少年は壁の時計を確認すると、読みかけの本を閉じた。
(そろそろ行こう)
部屋を出て、玄関に向かう。そこで端に揃えて置かれた白いスニーカーを履いた。午前中にも一度履いた物。女曰く、少年が始めに身につけていた物だと言う。今着ているこの服もそう。これからここで世話になるのなら、この他にも色々と揃えなくてはいけないだろう。
(早く思い出さないと)
いったいあの人に、どれ程の迷惑をかける事になるのか。考える程に逸る気持ちを抑え、少年は後ろ手に戸を閉めた。
外は日が傾き始め、暑さも幾分か落ち着いていた。恐らく熱帯夜にはならないだろう。この分なら葉の上から一気に水撒きしても良さそうだ。そう思ってホースを伸ばし、水道の栓を捻る。手元のレバーを握ると、始めは熱湯のように熱い湯が出るも、それはすぐに水に変わる。ノズルを調節し、シャワーのように優しく吹き出す水を畑に向けた。
手首を左右に捻りながら万遍なく水を降らす。葉や野菜の極彩色が水をはじいて雫を滴らせる。ポタポタと落ちるそれらはさらに下の葉や土にぶつかり、小気味良い音楽を奏でた。
手元には小さな虹が浮かび上がる。しかしそれを少年は、半ば茫然としながら視界に収めるのだった。
(寂しい)
夕焼けの朱に彩られた周囲の景色。この色を見ると無性に寂しさが込み上げた。この朱に誘われてもうじき夜がやってくる。ひょっとしてぼくは夜が怖いのか? 少年は自問するも、記憶の無い彼は未だ夜を経験したことがない。よってその答えなど分かる筈もなかった。
その夜。食事や入浴を済ませ、寝支度を整えた少年は女の書斎前に立った。少年の部屋と同様に二階にある部屋だ。
コンコン
襖の縁をノックすると、すぐに返事が聞こえ、すらっと開いた。今の今まで執筆をしていたのか、眼鏡をかけた女が微笑んだ。
「もう寝るの?」
「はい。おやすみなさい」
挨拶とともに軽く頭を下げる。すると、女の片手が挙がるのが気配で分かった。
「?」
その手は少年の頭に下ろされ、ゆっくりと左右に動いた。まるで割れ物を扱うかのように撫でる優しい手付きに、不思議そうに頭を上げる。
「おやすみ」
女はぽつりと呟いた。
「……はい」
手が離れると少年は再度頭を下げ、自室に向けて踵を返した。ほんの一瞬、女の表情に影がさしたように見えたのは気のせいだろうか。
部屋に入り電気を点けると、枕元にある読みかけの本が目についた。寝る前に続きを読もうと思い、置いたままにしていたのだ。しかし突如、そんな気が失せる程の抗い難い眠気が少年を襲った。
(大して遅い時間じゃないのに……)
疲れているのだろうかと思い、読書は諦めて今夜は大人しく休む事にした。
(また明日読めばいいか)
少年は本を机の上に置く。それから電気を消し、布団に潜り込んだ。目を閉じると眠気がより強くなる。
(あ……あれお姉さんに訊かなきゃ)
不意に思い出したのは、窓際で揺れていた飾りの事。そんなに珍しいものには見えないが、何故だか少年はその飾りのことを知らなかった。そして無性に気になって仕方がないのだ。早く聞きたい。そうして明日を待ちながらじっとしていると、微かに聞こえてくるのは蛙の声。ささやかな歌声に誘われるように、少年は夢も見ない程深い眠りへと沈んでいった。
——カタン
女はペンを置き、帳面を閉じて立ち上がる。時刻は午前0時。憂鬱な気持ちを抑えながら、彼女はそっと書斎を後にした。
少年の眠る部屋の、その襖を僅かに開ける。眠っている事を確認すると中に入り、女は机の上の本を手に取った。栞の紐は最終章の手前に挟められている。
(また最後までは読めなかったんだね)
女は悲しげに目を伏せる。これまで何度もこの子に本を貸した。選ぶ物はばらばらだったが、読みかけのまま夜を迎えることはざらだった。
(記憶障害の事、教えるべきなのかな)
それを知れば、きっと最後まで読み切る事が出来るだろう。時間の使い方を見直し、知り得た事を書き控え、そうして学習していく。一話完結だったこれまでの日々と違い、一日一日を積み重ねていくようになるだろう。それはまさに『あの時』のように。
(もしそうなれば……)
女は少年の側に座った。静かに寝息を立てて眠る彼の頬を撫でる。もう全て忘れた頃だろうか。それとも朝までに少しずつ忘れていくのだろうか、と思案する。それを知る術は持たないが、いずれにせよ今日を共に過ごした彼はもういない。この先も二度と会う事はない。
(閉じた時間に生きていたこの子が、もし前に進み出してしまったら)
この子は賢い。そうしたらきっといつか私の愚かさを知る日が来る。その時この子はどうするだろうか。思い描いたもしもの未来に恐怖し、女は固く目を閉じた。僅かに生まれた心の揺らぎを収めるように、膝の上で拳を握る。
(だから隠すって決めたんじゃない。何を今更迷っているの)
自身を叱咤し目を開けると、そこにあった揺らぎは既に消えていた。女は本を抱えて立ち上がる。
「おやすみ」
また明日、あの紙を持って来るからね。そう胸の内で呟き、女は部屋を出た。
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