生きる。

こが

第1話 はじめまして

庭に面して開け放たれた窓から、まだ幾分か涼しい早朝の風が吹き込む。頬をくすぐる柔らかい感触に、少年はもぞもぞと身じろいだ。


——ちりん。


微かに空気を震わせ耳に届くのは、控えめでありながら細く響く澄んだ音色。


(なんの音……?)


音の正体を確かめようと、微睡んでいた彼の意識が徐々に覚醒へと向かう。しかしあと一歩完全な覚醒には足らず、開眼には至らない。伏したまま耳だけで周囲の様子を伺っているうち、その音は立て続けに何度か鳴った。それはまるで早く起きろと催促しているようで、漸く少年は目を開くのだった。


(……綺麗)


視界に捉えたのは窓際に吊り下げられた、小さなガラス製の飾り。赤と白の金魚の絵があしらわれたそれを、少年は食い入るように見つめた。ぶら下がった紙の部分が、風を受けてくるくると回る。夏を感じさせる音色と絵柄は少年にとっても好ましいものだったが、何故だかチクリと胸が痛むのを感じて目をそらした。


胸をおさえ、首を傾げる。しかし思考するより前に、すぐに痛みはなりを潜めてしまう。何だったのかと戸惑いつつも、気を取り直すように、少年は周囲を見渡した。


(古い家だ。でも畳の良い匂いがする)


彼が居たのは見覚えの無い小さな和室だった。手入れが行き届いているのか、若干の古さはあるものの塵一つ落ちてはいない。どんな人が住んでいるのだろうかと、僅かに興味が湧いた。するとふと、隅に置かれた文机に目が留まる。机上には白い紙と、それが風に飛ばないよう置かれた梟の置物。こちらを見つめる丸い金色の双眸に引き寄せられるように、少年は布団を剥ぐと、側に行きその紙を手に取った。


“卵の収穫に裏の鶏小屋に行ってきます”


流れるような美しい筆だった。この家の家主だろうか。成る程、さっきから微かに聞こえる金網の軋む音はそれだったか。と少年は納得する。そして彼は窓の外に目を向けた。空は晴れ渡り、雲は高い位置をゆっくりと流れて行く。それをじっと見つめているうち、あやふやな自分など霧散して、雲の一部となってしまいそうだなと思った。


——今自身の立つこの場所。書き置きを残した人物。そして自身が何者であるのか。不思議な事に少年のそれらの記憶はすっぽりと抜け落ちていた。いわゆるエピソード記憶というものがまるきり消えていたのだ。ゆえに彼は自身を『あやふや』と例えた。しかし、そんな状況であっても彼の瞳に恐怖の色は無い。少しの戸惑いはあれど、慌てるでもなく、ただ静かに立ち尽くすばかりだった。


少年は再び視線を落とし書置きの文字をそっと撫でると、くすりと笑った。やけに落ち着き払った自分が可笑しかったのだ。


それから寸刻後。恐らく玄関の、引き戸がガラガラと開く音が聞こえた。家主が戻ったのであろうか。足音は廊下を進み、少年がいる二階の部屋に真っ直ぐ向かってくる。あっという間に部屋の前にたどり着いたそれは躊躇するように一瞬止まり、やがてスラリと襖が開いた。


「!」


刹那。向かい合う二人は時が止まったかのように錯覚した。襖の向こう、そこには驚いた顔で少年を見つめる若い女が立っていた。歳は二十半ばと言ったところか。黒く細い髪が、肩からサラサラと滑り落ちる。色白く儚げな印象さえある女が、片脇にザルを抱えて立つ様はいささかちぐはぐに思えた。


「目が覚めたんだ、良かった……私の事は分かる?」

言いながら女はゆっくりと少年の側に腰を下ろす。それを見て少年は初めて、自身が座り込んでいることに気がついた。


「あの、ごめんなさい。ぼく何も分からなくて」

遠慮がちにこぼす少年に、女はそう、とだけ返し僅かに肩を落とす。しかしそれは一瞬のことだった。


「あ……体調はどう?痛いところはない?」

心配そうな瞳に顔を覗き込まれ、少年は首を振って答える。すると女は安心したようにホッと息を吐くと、打って変わって笑顔を浮かべた。


「ならまずはご飯にしようか。見て、今採ってきた卵」

ずいっと差し出されたザルの中には、不揃いな大きさの茶色い卵がいくつか並んでいる。


「お米は炊いてあるから直ぐ準備出来るよ。立てる?」

女は先に立ち、腰を屈めて手を差し出す。しかし体調をおもんばかったのか、それともここに運ぼうかと提案するが、少年は大丈夫と答えて手を取った。そんな彼の脳裏に、ふっとある違和感がよぎる。しかしそれはほんの微細で、かつ不明瞭であったので口にするには至らなかった。


立ち上がりながら少年は思考する。彼女の事や自身の事について早く事情を尋ねたいという思いは当然にあった。しかしそれもこれも空腹の前にはどうにも萎んでしまう。ここは素直に従っておこうと女に続いて歩き出すと、二人で部屋を後にした。


階段を降り、廊下を無言のうちに歩く。やがて突き当たりのガラス戸を開けると、そこは台所だった。すぐ側には簡素な食卓もある。顔を覗かせ様子を伺っていた少年は女に促されてから中に入った。


「ご飯好きな分だけ盛って。今ハムエッグ作ってあげる」

席に並べられた食器と、窓際の壁に面して置かれた炊飯器を示して言う。少年は頷くと、言われたようにしてから席に着いた。その間、女は作ってあった味噌汁を温めながら、採れたての卵を拭いて冷蔵庫の奥の方に仕舞う。そして既に仕舞ってあった卵を二つ手に取った。


「え?」

思わず声が出る。少年はしまったと思い口を覆うも、女にはしかと聞こえていたらしい。彼女は一瞬振り返ると、くすくすと笑いながらまた背を向けて言う。


「卵ってね、うみたてよりも何日か置いた方が美味しいんだって」

お婆ちゃんが生きてた頃教わったの、と続けながらも手際よく手を動かす。少年は感心しながらてきぱきと動く女の手元に釘付けになっていた。


程無くして、ほかほかと湯気を立てる食事が眼前に並べられた。ハムの焼けた芳ばしい匂いと味噌汁の匂いが、より一層空腹を誘う。その他にも梅干しや漬け物、具沢山な切り昆布の煮物もある。これは前日の残り物だろうか。味がしみてほんのり色を変えたチクワがそれを物語っている。それらを並べ終えた女も自身のご飯を盛ってから、少年と向かい合って座った。


「どうぞ、食べてみて」

女の言葉に頷くと、少年は手を合わせた。


「いただきます」

箸を持ち、まずは味噌汁に口をつける。具は小さめに切られた豆腐と、茄子とネギ。熱い汁を啜ると、やや薄口の優しい味が口いっぱいに広がった。


「美味しい……」

独り言のようにこぼしたそれににこりと微笑むと、女もまた手を合わせて箸を持った。それからは食事が終わるまでこれといった会話は無く、静寂の空間にかちゃかちゃと僅かな音だけが響く。しかし不思議とそこに気まずさは無かった。小川のせせらぎのようにただひたすらに穏やかな時間だけが流れていた。


食事を済ませると、女は食器を片付けながら言った。


「隣が居間になってるの。そこで少しゆっくりしてて。洗い物終わったらお茶持って行くね」

「はい。ありがとうございます」

少年は席を立ち、暖簾で仕切られた隣室に入る。するとそこは10畳程はあろうかという和室になっていた。しかし片側の壁に沿って本棚や戸棚が並ぶお陰で、広さの割に意外にも賑やかな印象を受ける。その他にも薄型のテレビと、中央に大きな座卓が置かれていた。太い脚とサイドに彫刻が施された立派な物だ。見るとその周りに座布団が二枚敷かれており、少年は窓側の方に腰を下ろした。


「お待たせ」

少しして、女が盆に湯呑みを二つ乗せて入ってきた。視線を落とし、空いた方の座布団に膝をつくと、少年に湯呑みを差し出す。礼を言ってそれを受け取ると、女はにこりと笑った。


お互い茶を一口啜って息を吐く。湯呑みを置き、先に口を開いたのは女の方だった。


「何から話したらいいかな。聞きたい事沢山あるよね」

少年も湯呑みを置き、小さく頷く。そして一瞬の逡巡の後、最大の疑問を口にした。


「じゃあ……ぼくは誰ですか。ここはどこなんですか」

もはや予想通りではあっただろうが、その問いに女は目を伏せる。湯呑みを両手で包み、揺れる水面をじっと見つめていた。その様子に、少年はハッとする。先刻抱いた言い知れぬ違和感はこれだったのだと。あの時、彼は何も分からないと言った。対して女は落胆はしても驚きはしていなかったように思える。それはまるで、初めから少年の状態を知っていたかのような——。しかしまだ幼い少年では、不思議に感じつつもそこまで思い至ることは無かった。そんな彼の様子を知ってか知らずか、女は俯いたままつらつらと問いに答えた。


「昨日、家の前に君が倒れてるのを見つけたの。怪我は無いし疲れて眠ってるだけみたいだったわ。それで目が覚めるまでうちで休ませる事にしたの」

この村には医者がいないから、と付け加える。


「……覚えてない」

それは本当に自分の事なのだろうか。まるで身に覚えのない話しに愕然とする。ここに来て、初めて焦りにも似た表情を浮かべた。それを見た女は手を伸ばし、落ち着かせるようにその小さな手をそっと握った。


「大丈夫。帰るところを思い出すまでここにいて良いから」

その言葉に、一度は安堵したように女を見つめる。しかし、一瞬ののちに再び表情を曇らせてしまった。


——いつまでかかるのだろう。そもそも本当に思い出せるのだろうか。彼女は数日のつもりで言っているのかもしれないが何年、何十年、この先ずっとこのままという可能性だってある。その時自分はどうなるのか。手に負えないと手放され、警察や病院の世話になるのだろうか。


少年はぞくりと背を走る恐怖に身を震わせる。そんな不安を敏感に悟ったのか、女は一層強く手を握った。


「大丈夫、大丈夫。ゆっくりでいいから。なんならこの家の子になっても良いんだからね」

そう言って柔らかく微笑んで見せる。私はこの広い家に一人だから、君がいてくれれば寂しくない。そう話す女の瞳に嘘は無かった。


次第に少年の強張っていた手から力が抜ける。彼の安堵した顔を見て、女はそっと手を離した。少年は離れていった温もりを何故だか無性に名残惜しく感じ、そんな感情を抱く自身に僅かに驚いた。そうしていると女は、打って変わって明るい声で言うのだった。


「何も分からないって言ってたけれど、具体的に何をどこまで忘れてるのかな?」

それによってどこまでお世話しても良いのか変わってくる、と楽しそうに女が尋ねる。世話好きな性分なのだろうか。その様子に少年はいくらか表情を緩めた。


「えっと……物の名前とか、今が夏だって事とか、当たり前の事は分かります。その、たぶん自分の事は自分で出来ます。でも」

少年は女の目をジッと見つめて続ける。


「ぼくが誰なのか、どこから来たのか、ここがどこなのかは分かりません」

言葉にすると途端に申し訳なさが込み上げた。真っ直ぐに交わる視線から、思わず目を逸らそうとする。しかし先にそれをしたのはなぜか女の方だった。


「そっか……心細いよね」

家族の事も覚えていないのか、とその声は僅かに同情を孕んでいる。しかしそれに少年は首を振って否定した。


「いいえ、一人じゃないので。お姉さんが居てくれてるので平気です」

その言葉にハッとしたように、女は再び視線を合わせる。その顔は様々な思いが混ざり合ったような、酷く複雑なものだった。しかし最後にはそれら全てを飲み込んで微笑んだ。その思いが何であったのか。まだ幼い少年には分かる筈も無かったが、つられるように、はたまたお返しのように、笑みを浮かべて言った。


「これからよろしくお願いします。お姉さん」






—another side—


ピピッピピッ……


いつも通り、目覚ましの音をきっかり二度目で止める。とは言ってもすっかり習慣づいた起床時刻だ。目覚ましが無くとも自然と起きられただろう。あの子が目を覚ますのは決まっていつも同じ時間だから。そう、私の行動は、全てあの子を軸にしたものになっている。あの子の起床に合わせて私の一日が始まるのだ。


毎日記憶を消して目を覚ますあの子。


あの子が目を覚ますより早くに起きて鶏小屋を掃除し、餌をやって、卵を採って帰ってくる。すると丁度良い頃合いになるのだ。そうして部屋を訪れると、いつも書き置きを手にしたあの子と対面することが出来た。さあ、その書き置きを用意しなくてはと、私は引き出しを開ける。そこから白い紙を一枚出して、ペンを走らせた。


“卵の収穫に裏の鶏小屋に行ってきます”


もはや書き慣れた一文。何度も何度も書いた。そして役目を終えたこの紙を、その都度ご丁寧に燃やして捨てた。万が一にもあの子に見つかってしまう事のないように。たった今書き終えたこれも、またすぐに灰となるのだろう。それを手にしてあの子の部屋へ足を向けた。


音を立てないよう、静かに襖を滑らせる。穏やかに寝息を立てるあの子の横をすり抜け、机上に紙と、小さな梟の置物を置く。そうしてから、暑さで寝苦しくないようそっと窓を開けた。


——ちりん。


風に揺られた風鈴が鳴る。ちら、とあの子へ視線を向ける。起きる気配が無い事を確認すると、私は再び横をすり抜けて部屋を出ると、襖を閉めた。


それから暫くして、外での用事を済ませ家に戻る。掛け時計に目をやると既にあの子が起きている時刻だった。あの書き置きにもきっと気づいたことだろう。私は卵の入ったザルを抱えたまま、二階の部屋へ向かった。


部屋の前で一度足を止める。ここを開ければ、そこにはいつものように真っさらになったあの子がいる。そして私はまたあの子に『はじめまして』の顔をするのだ。目を閉じ、浅く息を吐く。そして今度は躊躇わずに襖に手を掛けた。


予想通りあの子は目を覚まし、机の前に座り込んでいた。私は無理やり驚いた顔を作り、口を開く。


「目が覚めたんだ、良かった……私の事は分かる?」

僅かな期待を込めて尋ねる。


「あの、ごめんなさい。ぼく何も分からなくて」

しかしそれも、少年の言葉に容易く砕かれる。何度繰り返そうとも、答えが分かっていても聞かずにはいられない。いつか私の事を思い出す日が来るのではないか。そんな淡い希望をいつまでも棄てられない私は、きっと心が脆弱なのだろう。


朝食を終えた私は、あの子に居間で待っているように伝えた。これから、またあの説明をしなければ。そう思うと、泡のついた手が自然と止まる。


(いつまで)


そこでハッと我に帰る。いつまで続くのか、そんな不遜な思考を消し去るように固く目を閉じた。


(どの立場でこんな事考えるの)


どろり、と滲み出た自身に対する嫌悪感。私は私が嫌いだ。自分が招いた事態に背を向け、元通りになることを夢見ている。何も知らない、期待に反したあの子の言葉に勝手に落胆している。私はそんな自分が心底嫌いだった。


「お待たせ」

いつも通り顔には笑顔を貼り付けて、あの子の前に立つ。茶を啜り話を切り出せば、返ってくるのはやはりいつも通りの問いだった。


「ぼくは誰ですか。ここはどこなんですか」

真っ直ぐにこちらを見据える視線から逃げるように俯く。そして、身に覚えの無い話を不安そうに受け止める彼の手に、思わず自身の手を重ねた。そうしたまま、ここに居ても良い。ゆっくりでいいと告げるとその子は表情を和らげる。もう少しそうしていたかったが、私は手を離した。


話しながら、やはり真っ直ぐに届く視線からどうしても目を逸らしてしまう。つらつらと嘘を並べる自身が恥ずかしくて、惨めで堪らなかったから。


「そっか……心細いよね」

俯いたままそう漏らした私の言葉に、あの子は平気だと答える。私が居るから平気だと。何も知らずにそう答えるその子に、罪悪感と感謝と、他にもいくつもの感情が浮かんで綯い交ぜに渦を巻く。それら全てを飲み込んでなんとか微笑むと、返ってくる幼い少年の笑顔を受け止めた。


大丈夫。私はまだ頑張れる。この笑顔の為ならいくらでも嘘をつこう。醜い胸の内を隠す為ならいくらでも心を偽ろう。だからどうか、君は変わらずそこにいて。それだけで私は幸せなのだから——……。

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