第10話 それぞれの想い

ガラガラガラ——。


玄関の引き戸が開く音。家主の帰宅に気づいた少年は、未だ女の書斎から動けずにいた。


(ここから出なきゃ)

そう思っているのに、身体が動かない。酷い眩暈と耳鳴りに苛まれて立ち上がれない。いや、そもそも立ち上がろうとする気すら起きなかった。座り込む少年の周囲には散らばったアルバムの数々。これでは何をしていたかなど一目瞭然だ。


「ただいまー」

一階から様子を伺うような女の声。どうやら少年を探しているようだ。


「部屋かな?」

そう呟く声と同時に、女は階段に足を掛ける。少年は開かれたままのアルバムを閉じもせず、ただそこでジッとしていた。そうだ、早くここに来ればいい。……あなたがぼくに隠していること、全部全部暴いてやる。思いっきり憤りをぶつけて、謝罪させてやる。この時少年は、自分でも驚く程凶暴な感情が湧き上がってくるのを感じていた。


……だってしょうがないじゃないか。大好きなあなたの名前は、あなたから直接教えて欲しかった。それだけじゃない。こんな形で知りたくなかった事がたくさんある。もしぼくの仮定が正しいのなら。あなたがぼくの妹だとしたら。こんな残酷な仕打ちはない。


女は少年の部屋をノックする。しかし返事はなく、中を覗いてもそこには誰も居ない。あれ? と不思議がりながらもとりあえず自室へと足を向けた。


ギッ……ギシッ……


時折床が軋む音。普段は気にならない音が、今の少年には苛つく程に耳障りだった。距離にしてたったの数メートル。女の歩くその時間がとてつもなく長く感じる。そして漸く部屋の前に立った女が躊躇なく襖を開けた。


「……え?」

その瞳に、予想だにしない光景が飛び込む。開いた押し入れ、散らばったアルバム。その中心に居たのは、まさに女が探していた少年であった。突然のことに唖然として言葉もない。


「な、にして……」

我に帰って、なんとかそれだけ言葉を発する。


「あぁ、おかえりなさい」

少年は背を向けたまま、首を捻って女を見る。昏い目に反して口元には小さく笑みが浮かんでいた。そのちぐはぐな不気味さに女はゾッとして後退る。


「すぐ片付けますね」

そう言いながら少年はアルバムを箱に詰め直していく。それが終わると箱を押し入れに仕舞い、襖を閉める。その間女は一言も発せず、部屋の入り口に立ったままその様子を見つめるしかなかった。


片付けが終わると両手の埃を払うようにパンパンと二度手を鳴らす。その音すら自分を責めているようで、女はビクリと肩を震わせる。それから少年はやけにゆっくりと振り返った。呆然と立ち尽くす女を視界に捉え、その女に向けてふっと嘲笑を浮かべる。


「どうしたんですか黙り込んで。勝手に入った事怒らないんですか」

その笑みを見て恐怖を感じた。この子は……兄はこんな顔をする人だったろうか。女の背にぞわぞわと悪寒が走る。すると返事の無い女に向け、少年は再び口を開く。


「聞こえてますか、ねぇ『晴さん』」

「!」

何故その名前を。そう思い動揺したのは一瞬だけだった。その一言で女は全てを理解したのだ。この子は気づいている。もしかしたら彼自身の事でさえも。


「どこまで知ってるの」

声が震え、そして上ずる。女は後悔していた。自分が肝心な事をいつまでも後回しにしてきたせいで、今こんな事になっている。彼を傷つけている。心を決めるのが遅過ぎたのだと。


「どこまでって……晴さんの事とか、お兄さんの事とか色々。夏彦さん、ぼくとそっくりですね」

少年は一層笑みを深くした。


「まさかぼくが夏彦さん、なんて事はないですよね?」

「っあ、あのね……」

「あれ、否定しない。本当にそうなんですか。凄いですねどんなカラクリなんですか」

「ねえ、聞いて」

「じゃあぼくは晴さんのお兄さんってことですよね。どうします、晴って呼んだ方がいいですか?」

「聞いてってば!!」


女は叫んだ。尋問を受けているかのような気分に耐えかねたのだ。肩で息をしながら、服の裾をギュッと握る。まるで責め立てるような、追い込むような、容赦の無い少年の言葉はそこで漸く止まった。口を閉ざしたその顔に、先程までの笑顔は既に無い。しかし何故だろうか、先程の強い語調とは裏腹にどこか悲しげにも見える。女を意図的に傷つける為に吐いた言葉は、同時に少年の心をも抉っていたのかもしれない。


「……聞いて。全部話すから」

逃げ出したくなる気持ちを堪えて少年と目を合わせる。


「分かりました。ただその前に、先に話しておきたい事があります」

意外にも静かな声で話す彼に女は、何? と憔悴しきった顔で尋ねた。


「実はぼく日記書いてたんです。それを頼りに色々調べました。家の外にも一度出た事があるんですよ。そこであなたがこの村に来た理由とか、ぼく以外の人と関わらないようにしてる事とか聞きました」

女は言葉を失う。日記は一度処分した筈。まさかそれ以降も続けていたと言うのか。そしていつの間に外に出たのか。全く気がつかなかった。


「夏彦さんの事を知ったのは今さっきです。10歳以降の写真は無いし、話題にも上がらないからもしかしたら亡くなってるのかなって。でもそれならぼくは誰なんだろうって考えました。ぼくもちょうど10歳くらいですよね。顔は夏彦さんにそっくりで……それで、あれ、まさかって」


彼の話を聞いて女は驚愕した。この子は本当に賢い。生前の兄もとても賢い人だった。やっぱり記憶が無くともこの子は兄なのだ。女は嬉しさにも似た感情を覚え、込み上げる涙をぐっと堪えて次の言葉を待つ。そして少年は心からの問いを口にした。


「本当にぼくは支倉夏彦なんですか」

その目には怒りも悲しみも無い。凪いだ夜の海のような静けさがあった。


「そうよ。貴方は私の兄の夏彦」

その言葉は少年にとって最早予想通りだった。それでも、それを聞いた彼はその場に崩れ落ちる。


「……教えて下さい。全部」

力なく項垂れる彼の前に女も腰を下ろす。その肩に触れようと手を伸ばし……やめた。そして語り出した。自身の事、家族の事、そして夏彦は一度死んでいるという事を。その話を彼はどんな顔で聞いているのか気になったが、俯いたままでは前髪が邪魔をして見ることは叶わなかった。そうしてそれら全てを語り終えると、女は恐る恐る尋ねる。


「許せないよね。こんな勝手な事されて」

「はい。怒ってます」

はっきりと少年は言った。覚悟はしていたがやはり堪える。女はそうだよね、と力なく呟いた。しかし少年の言葉はそこで終わりではなかった。


「もっと早く教えて欲しかったです。自分で調べるのではなく、あなたの口から聞きたかった」

女は驚いて顔を上げる。そこには女とそっくりな切れ長の瞳が、薄っすらと滲む涙に揺れていた。


「ぼくが何で怒ってるか分かりますか。悔しいからですよ」

「え……」

「貴女は妹なんでしょう? 本来ならぼくが守ってあげなきゃいけないのに。どうしてぼくの方が守られているんですか。貴女の幸せを誰より願っているのに、そのぼくが貴女を苦しめていることが許せない!」

「……っ」

「『僕』は貴女の兄だ。なのに妹の事を忘れて、妹が苦しんでいるのにも気づかないで……それが悔しくてしかたないんだよ!」


あぁ……成政さんの言う通りだった。兄はこんなにも私を思ってくれていたのに。私は自分の事ばかり大事にしていた。恨まれるかもしれない、嫌われるかもしれない、そればっかり。これまで一度でもちゃんと兄の気持ちを考えた事があっただろうか。


「ごめんなさい、兄さん」

女は少年の小さな身体を搔き抱いた。それはまるで縋り付くように。


「あの時、助けてくれてありがとう。戻って来てくれてありがとう。ずっと側に居てくれてありがとう……兄さんは記憶が無くなってからも、ずっと守ってくれてたよ。だから私は今も笑えているの」


やっと言えた。遅くなってごめんなさい。一人生き残ってしまった罪悪感から口に出来なかった沢山の『ありがとう』は、今ようやく兄に向けられた。秘められていたそのたった一言は長い時間の中で、様々な意味を持ってしまった。ごめんなさい、怒らないで、嫌わないで、置いて行かないで。純粋過ぎた思いは悲観的な言葉に塗り潰されながら心の奥の深いところへと追いやられた。そして気づいたときにはもう、容易く取り出せなくなっていたのだ。だけど兄さんのお陰で思い出したよ。いざ口にしてみるとなんてことはない。余分なものを取り除けば、そこに残るのは実にシンプルな言葉。こんなにも温かい言葉だった。


「晴さんこそ、今までずっと守ってくれてありがとうございます」

二人はお互いの背に腕を回し、強く抱き締め合った。そうして女は思う。


変なの。今腕の中にいる『この』少年とは今日初めて会ったばかりなのに。記憶が戻った訳ではないのに。それでもやっぱり分かる。この子は紛れもなく、私の大好きな兄さんその人だ。


女はこれまで空けていた心の距離を埋めるかのように、暫くの間、小さな肩の上で涙を流した。






嗚咽を吐きしゃくり上げる女がようやく落ち着いた頃。少年はそっと身体を離すと、照れ臭そうにポツリと呟いた。


「さっきは言えなかったんですけど、もう一つ言いたい事があって……」

「え、何?」

「その、妹に身長越されたのがちょっと悔しいし……恥ずかしいなって」


最後の方は尻すぼみになり、殆ど声になっていなかった。本当は言う気などなかったのに、場を和ませるためにあえて話してくれたのでは。それに気づいた女はフッと肩の力が抜けるのを感じた。この子はどんなに賢く大人びていても、まだたった10歳の子供だ。こうした年相応な顔を目の当たりにすると改めてそう感じる。


脳裏に蘇る記憶の中の兄は誰よりも頼もしかった。しかしそれには虚勢も少なからずあったのだろう。当時は大きく見えていた兄の背中は、実際はこんなにも小さいのだということに今になって気づく。恐らくは親を亡くし、幼い妹を抱え、強くならざるを得なかっただけなのだ。


(私を守らなきゃ、か)

女は先刻の少年の叫びを思い出す。兄はそうして、知らず知らずのうちに自分を追い込んでいたのかもしれない。だからあの時……私に血を流させてしまった事で、あんなにも傷ついてしまったのだろうか。


女は自分の額にそっと触れる。そこはあの時、兄の投げた風鈴によって怪我を負った箇所だ。何が原因だったのかなんてもう覚えていない。きっと些細な事だろう。それくらいごくありふれた、ただの兄妹喧嘩だった。しかし兄がそうまで怒ったのだから、きっと私が何かしてしまったのだと思う。硝子片が散らばる中で、私はおばあちゃんに名前を呼ばれながら気を失った。その直前、降りてくる瞼の隙間に兄の涙を見た。それは両親の葬儀でさえ見せなかったものだった。


(あれだけは綺麗さっぱり忘れてくれたら良かったのに)

女は少年へ目を向けた。


「26歳の兄さんも見てみたかったな。きっと私よりもうんと背が高かったと思うよ」

少し茶化すように言うと、彼はますます顔を赤らめた。どうやら子供扱いがお気に召さなかったらしい。それを見て笑みをこぼした女だが、何かを思い出したのか途端に顔を曇らせた。


「その、本当のこと全部知ったわけだけど……私のせいで死んじゃった事とか、身体の事とかは怒ってないの?」

「え、何で怒るんですか?」

きょとんとする少年。ある程度の罵倒は覚悟していた女は、その反応に面食らった。そして心底分からないといった様子で少年は続ける。


「ぼくはその時の事を覚えていませんから何とも。でも、覚えててもきっと怒りはしませんよ」

少年は思う。生前の自分は妹を守った事を後悔なんてしていない。一人遺す事になったのは心残りだけど、それでもやっぱり生きててくれたことを喜ぶ筈だと。


「さっきも言ったけど、あなたの事を忘れたのは悔しいし、あなたに守られるばかりの今の自分は情けないとも思います。でも、もっと一緒に居たいって気持ちはぼくも……夏彦さんも同じです。それを怒る訳無いじゃないですか」

「そっか……うん。そうだね」


女が兄と過ごせたのはたった8年間だった。確実に覚えている期間とするならばもっと短い。しかしどんなに短くとも、それは濃密で何にも変えがたい宝物のような時間。もちろん人並みに喧嘩もしたし、ひとりっ子を羨んだこともあった。けれどそんな一瞬一瞬のどれもこれもが愛おしくて堪らない。もう戻れないと思えばこそなのだろうか。そんな遠き日々に想いを馳せて女は幸せそうに笑った。そんな女に、少年はどこか言いにくそうに申し出る。


「お願いがあるんですけど……ぼくの事は兄さんって呼ばないで貰えますか」

「え……どうして」

「ぼくにはあなたの兄だった記憶がありませんから。だからあなたの事は大切だけど、どうしても妹とは思えないんです」

それは少年の本心だった。どこか突き放すような物言いになってしまったことを申し訳なく思いながら、真っ直ぐな瞳で女を見つめた。


「人はきっと身体と魂の二つだけで出来てはいないんですよ。生きていく中で培った経験や思い出、受けた愛情なんかで出来ていると思うんです」

つまりいくら身体と魂を同じくしていても、夏彦と自分は全くの別人である。これが少年の考えだった。だから自分の事は、夏彦さんにそっくりなだけの他人だと思って接して欲しいと告げる。その言葉を受けて、戸惑いながらも頷いてくれる女を見てほっと安堵の息を吐いた。


「夏彦さんは、やっぱりあの日亡くなったんですよ。晴さんも、もうそれを受け入れられますよね。格好良くて勇敢な、夏彦さんの妹なんですから」

少年はにこっと笑いかける。兄としてではなくただの居候の子供として。


「……ずるいよ。そんな事言われたら頷くしかないじゃない」

そういうところは兄さんそっくり、と頬を膨らませる女に、少年は声を上げて笑った。






取り敢えずは一件落着だと二人は揃って部屋を出る。泣いて叫んで、互いに酷い顔だったが、そこには晴れやかな笑顔があった。特に堰を切ったように泣き続けた女は、泣き疲れたのか足元がふらついていた。それを少年が支えて歩く。それから居間でゆっくり茶を啜りながら、少年はおもむろに口を開いた。


「晴さん今朝言ってましたよね、会わせたい人がいるって。実はそれがずっと気になってて」

「あぁそういえばそうね。朝から家を空けてたのはその人に会いに行ってたの」

「恋人さんか何かですか」

違うよ! と女は顔の前で手を振り慌てて訂正する。その様子を見て、何を勘違いしたか少年はにんまりと目を細めた。


「たった一人、その人にだけよ。全部話したの。兄さんが生きてたとしたら同い年の人よ」

とっても良い人なの、と女は話す。


「あれ、もしかして冗談でなく本気で好きだったりします?」

「だから違うって!」

「俺の目の黒いうちは、とか言っておいた方がいいのかな……」

あたふたする女を尻目に少年は顎に手を当てて考え込んでいる。もし兄が生きていたらこんな会話をすることもあったのかもしれないと、女の表情はどこか嬉しそうだ。そんな彼女に、少年はその人に会わせて欲しいと申し出る。それも今日これから会いたいのだと。本気で交際について何か言うつもりなのかと思い、女は全力で拒否する。しかしそうではないのだ、と真剣な表情で少年は話した。


「明日になればぼくは全て忘れてしまいます。そうなる前に『ぼく自身』からその人に話したいことがあるんです。会わせて下さい」

この時、少年はあることを決心していた。自分が為すべき事をしようと。しかしそれをするのはどうしても今日が良かった。少年の真剣な眼差しを正面から受け止めた女は、何か理由があるのだろうと頷く。


「連絡してみるね」

そう言って足早に部屋を出て行った。

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