第11話 蛍となりて

ガチャ。


『はい佐々木商店』

「あの、支倉晴です。先程はお邪魔しました」

少年の頼みで佐々木商店に電話をかけた女は、成政が始めに出た事に胸を撫で下ろした。彼には既にみっともないところを見られているからだろうか、他の人よりは遥かに話しやすい。もう少し周りに打ち解けようと考えを改めたところだったが、やはりまだどうしても緊張が前に出る。自然と振る舞えるようになるまでは、長い目で見る必要がありそうだ。


『おう、どうした』

ほんの数時間前まで共にいた女からの電話に、何かあったのだろうかと訝しむ。それに対し女は朗らかな声で返した。


「兄に全て話しましたよ」

何を、とは言わなくても伝わっているだろう。それを勧めたのはこの成政自身であったのだから。彼は女の雰囲気から悪い話ではないと察したのか、幾分か気を緩めて相槌を打つ。それから女は、少年と交わしたやりとりについて事細かに説明した。ひと通り話が済むと、それまで黙って聞いていてくれた成政が口を開く。


『良かったな』

かけてくれたのは一言だけ。けれどそのたった一言に彼の優しさが詰まっている気がした。褒められているような、慰められているような、不思議な心地がした。


「……はい」

女も同様に一言。それだけ呟いた。


「わざわざそれ報告しに電話くれたのか?」

二人の間に漂うふわふわとした空気。それが気恥ずかしかったのか、茶化すように成政は言った。その言葉にハッとした女は、そうだったと思い出したように本題を告げる。少年が成政に会いたがっている事と、それは今日これからでも構わないかという事。それに対し彼は別に構わねぇが……と言い淀む。


『またえらく急だな』

「すみません、せっかくのお休みの日に」

『いや、いいさ。俺もお前の兄ちゃんに会いたいと思ってたとこだ。じゃあ今からそっち行くわ』

「え? あ、はい。ありがとうございます!」


お待ちしてます。そう言い終わると同時に成政が先に通話を切る。女も遅れて受話器を置いた。まさかすぐ来てくれるとは思わなかった。それにしてもあの子は彼と会ってどんな話しをするのだろう。思わずそんなことを考え込むが、まぁそれも彼がくればすぐに分かる事だと顔を上げる。そして女はこのことを少年に伝えようと居間に戻った。






それから約30分後。来客を報せるベルが鳴って女は居間を出て行った。


「すみません、わざわざ来てもらって。どうぞ」

「ああ」

成政は律儀にも軽く会釈をして玄関へ入る。そして女は彼を少年の待つ居間に通した。


「こんにちは。お兄さんが佐々木さんですか」

中に入ると、少年は立ち上がって頭を下げる。それを見て成政はやや面食らったようだったが、同様に頭を下げる。それもそのはず、二人は既に面識があったのだ。思いもよらない再会に、お互い動揺を隠すように口角を引きつらせて笑った。


「お、お邪魔します。佐々木成政です」

「あはは……こんな子供に敬語なんていりませんよ。どうぞ座ってください」

少年の乾いた笑みはどこかぎこちない。あの時自転車の後ろに乗せてくれた男が、まさか女の言う人物だったとは思わなかったのだろう。あの時の! そう言って指をさしそうになるのを抑えながら、自分の正面の座布団を示す。女はその場所の隣に座った。皆が座ったのを確認すると、少年は咳払いした。


「えっと、じゃあまず始めに。晴さんに一つ謝らないといけない事が」

「へ?」

「実はぼくたち、外で一度お会いしてるんです」

そうですよね、と少年は成政へ視線を向ける。それを見た彼は無意識に上がっていた肩の力を抜き、深く息を吐く。そのまま少し仰け反って後ろに手をついた。


「あーそうか。もう隠さなくていいんだったな」

いやぁ驚いたと苦笑する彼の横で、一人状況が飲み込めない女は、彼らの間で視線を彷徨わせる。その様子に二人は顔を見合わせて吹き出した。


「悪いな。おまえの兄ちゃんに内緒にしてくれって言われてたんだ」

「そうだったの……」

「だから佐々木さんが良い人なのはぼくも知ってますよ。晴さんは人を見る目がありますね」

「な、何言ってるの!?」


本当にそういうのじゃないから! と女はあたふたし出す。そんな彼女に少年はにこにこと笑顔を向け、その後でふっと真剣な表情になって言った。


「すみません、ちょっと佐々木さんと二人で話しさせてくれませんか」

女は不思議がりつつも、ほんのり赤く染まった頬に手をやったまま頷く。立ち上がり、終わったら声かけてねと言い残して部屋を後にした。


女が居なくなると、その空間は途端にしんと静まりかえる。成政は何の話だろうかと少年の言葉を待った。しかし切り出し方を思案しているのかなかなか口を開こうとしない。やがて痺れを切らし、先に静寂を破ったのは成政だった。


「今日あいつが俺に会いに来てたのは知ってるか。その時にな、全部教えられたよ」

パッと顔を上げた少年は頷く。


「お前、凄いやつだよな」

「凄いのはぼくでなく夏彦さんですけどね」

少年は笑う。嘲笑などではなく、それは心からの尊敬を孕んだものだった。彼自身もまた夏彦の気高さを素直に称えていたのだ。


「お前も充分凄ぇよ。記憶も無えのに殆ど自分で調べ上げちまったんだってな。それに……」

「それに、何ですか」

「あんな話し聞いて、変わらず笑ってられるのはお前の心が強いからだと思うぞ」

成政は女から聞かされた話を反芻しているのか、目を伏せたまま複雑そうな笑みを浮かべた。『あんな話し』。それが具体的に何を指すのか理解した少年も、どこか悲しげに微笑んだ。——そうだ、この男は全て知っているのだ。夏彦が死んだ時のことも、再び目を開けたときのことも。果たして生きていると言えるのか定かでない今の自分のことも。


「ぼくのこと気持ち悪くないですか」

少年は微笑みを浮かべたまま、目を合わさずに問いかける。どんな言葉が返ってくるのか、少しだけ怖かった。


「何でだよ。さっき凄いって言っただろ。それが本心だ」

成政は少年の不安を鼻で笑い飛ばすように言った。そして続く言葉に少年は目を丸くする。


「まぁ始めは信じられなかったよ。蛍と合体して生き返りました、見た目は子供でも中身は俺と同い年です、だもんな。けどさ……なんか納得したんだ」

「納得?」

「そう。お前らとそれぞれ会った時、なんか色々抱えてんなって思ったからさ。それにあいつワンワン泣いてた。こんだけのものを一人で抱えてたんならそりゃあ泣いて当然だと思ったよ」


本気で怒って、本気で泣いて、そんなやつの言うことが嘘な訳ない。それにお前ほど格好いいやつを見たことがない。気持ち悪いなんて誰が思うかよ——成政は正直な思いを少年にぶつける。そして最後に、少し間を空けてから尋ねた。


「俺と会った時のこと、本当に覚えてねぇのか」

興味本気ではなく、まして怒っているわけでもない。ただ微かに寂しげな目が少年を見ていた。それを真っ直ぐに受け止めてコクリと頷き返す。成政はそうか、と呟いて目を閉じた。今彼は何を思っているのだろう。頭の中を整理しているのか、それとも事実を受け止めようとしているのか。


少年はそんな彼にどうしても聞いて欲しい事があり、口を開く。元々女に退室を頼んだのはこの話しをする為だった。


「全部の話しが終わってから晴さんに聞かれたんです。怒らないのかって」

妹の代わりに自分が死んだ事。不本意な形での黄泉帰り。そして今のこの身体。これらについて少年は本当に怒りなど感じてはいなかった。それは恐らく夏彦も。


「怒ってないって答えました。でも本当は少し悲しかったんです」

少年は俯いて手元を弄りながら続ける。


「夏彦さんが死んだ事を当時の晴さんは受け止めきれませんでした。まだ8歳なんだから当たり前ですよね。小さくて弱い子供だったんです。あぁ、あの日のぼくはそんな弱い子を一人にしてしまったんだって」

机の上で拳を握り締める少年を、成政は何を言うでもなく静かに見つめていた。


「それがきっかけで晴さんは今日まで、ずっと一人で苦しむ事になりました。こんなことならあの時庇わなければ良かったのかな。どうせ死ぬなら妹も一緒に死なせてあげれば良かったんでしょうか」

顔を上げ成政を見つめる。賛成か否定か、どちらでもいい。何でもいいから答えを出して欲しかった。少年は縋るような目でじっとその時を待つ。しかし成政はそのどちらもせず、ただ呆れた顔で溜め息混じりに言うのだった。


「ったくお前らは似た者兄妹だな」

「え……」

「お前の妹にも言われたよ。自分一人が死ねば良かったってな。思わずビンタ張っちまったわ。悪いなお兄ちゃん」

成政は冗談めかして少年に手を合わせた。


「晴さんが、そんな事を……?」

少年は不意を突かれてぽかんと口を開ける。まさか彼女がそんな風に思っていたなんて。


「結局のところ、あれこれ考えたところで何も変わらねぇんだよ。もう過ぎたことだ」

そんなの当たり前だろう、悩むだけ時間の無駄だ。そう言ってやれやれと肩をすくめて見せる。


「変えられるのはこれから先のことだけだ。苦しませるのが嫌なら、幸せにしてやれる方法考えな。しゃんとしろよ支倉兄」

少年は目を見張る。そうだ。何を思ったところで過去は変えられない。自分は死に、妹は助かった。これが過去でありたった一つの真実なのだ。


「佐々木さん……本当にありがとうございます」

そう言って深く頭を下げた。少年の中に芽生えたある一つの可能性。つい先ほど決心したそれは、しかしまだどこか迷いがあった。それが今、彼の言葉で確固たるものになる。それをすることは本当に彼女の為になるのだろうか。また苦しめる事になるのではないか。そんな迷いはもうなかった。


「晴さんを呼びましょう。お二人に聞いて欲しいことがあります」






「えっと、話って?」

女は隣に座る成政、そして向かいの少年を順に見やった。


(と言うか二人っきりで何を話してたの)

仲は良さそうだったから変な事にはなってないと思うけど……。そんな女の考えを見透かし、心配ないと言うように少年は笑顔で話し出す。


「では率直に言いますね。……ぼくは今日で成仏しようと思います」

「「…………」」


そのあまりにもあっけらかんとした物言いに、女と成政は揃って沈黙する。


「あれ、聞こえてますか?」

そんな二人の眼前で少年は手を振って見せる。するとハッと我に帰った成政が言った。


「成仏ってどうやって……しようとして出来るもんじゃねぇだろ」

そんなコンビニに行ってくるみたいな軽さでいいのか。冗談か本気か分からない少年の言葉に、半信半疑で詰め寄る。


「今晩、夏彦さんが亡くなった場所に行ってみようと思います。蛍が集まって来たっていう時と同じ時間に。確証はないけど、何故かそれで正解な気がするんです」

少年の目を見て、意志が固い事を感じとった成政は焦り出す。せっかく兄妹分かり合えたところなのに、と。


「何も今晩でなくても……」

「いえ。きっと今そうするべきなんだと思います」

少年は胸に手を当て、穏やかにそう言った。そして彼の決意を聞いてから今まで、微動だにしていなかった女に微笑みかける。


「勝手に決めてごめんなさい。でも晴さんならもう大丈夫。佐々木さんと話してて思ったんです。あなたはもう一人じゃないんだなって。だから」

「……っ」

「だからもう、眠らせてください」

女にとってこれほど酷なことがあろうか。言っていることはこの上なく悲しいのに、少年は終始笑顔だった。まだたった10歳の子供が、どうしてここまで高潔であれるのか。成政はそんな彼を眩しく感じて僅かに目を細める。しかし女とっては容易く受け入れ難い提案だったようだ。


「なんでそんなこと言うの……やっぱりもう疲れた? こんな生活嫌になった……?」

女は双眸から大粒の涙を流す。何を言われても受け入れると決心した筈だった。それなのにいざ言われたらこの有様だ。この子はこんなにも強く気高いのに。自分はなんて情け無いのだろうと女は思う。そうすると涙は余計に溢れて止まらなかった。すると少年は立ち上がり、女のすぐ横に来て腰を下ろす。


「そうじゃないよ。ぼくがこのままここに居たとして、それは晴さんの為にならないんだよ」

「そんな事ない!」

激しく首を振る女を、少年は静かな声で諭す。


「じゃあ晴さんはぼくが居るこの家からずっと離れないつもりなの? 結婚もしないで一生ぼくの世話をして暮らすの?」

それは駄目だ。せめて全てを知った『この』ぼくだったらまだいい。けど明日になったらまた全て忘れてしまうのだ。そのぼくに一から説明し直すのか。そしてそれを毎日毎日続けるのか。それとも——これまでのように何も知らせずにいるのか。どっちにしろそんな生活をさせる訳にはいかない。佐々木さんは言ったのだ。彼女を幸せにしてやれる方法を考えろと。これがその答え。


「晴さんは、自分の時間を生きて」

あなたにぼくは必要ない。あの時は駄目だったけど、強くなった今ならもう大丈夫。ぼくが居なくても生きていける。


少年の思いを理解した成政は、もう何も言わなかった。そしてそれは女も同様。もう泣いて縋ることはしなかった。


「分かった。分かったよ……ちゃんと見送るね」

涙は止まらなかったが、それでも女は精一杯笑顔をつくる。そんな女を見て少年は彼女を抱き締めた。


「大きくなったね。けど、泣き虫なのは変わってない」

「えっ」

女は耳を疑った。今のは誰の言葉だったのだろう。この子? それとも兄さん?


(ううん、どっちでも良い)

この子の中には確かに兄が居る。どっちがどっちとかじゃない。どちらも私の大切な人。もうそれでいいのだ。


「あったかい……」

離れ難い。こんなに温かいのに。動いて、息をしているのに。それでも離れなくてはいけないという現実がどうしようもなく胸を締めつける。けどもう時間切れだ。離れて、お別れして。それで私も貴方も幸せになろう。






その夜。少年と女、そして成政は暗い山道をライトで照らしながら進んでいた。成政が先頭を行き、その後ろで二人は手を繋いて歩く。そうして三人で他愛もない会話をしながら目的の場所を目指すのだった。


この時間であってもまだ蒸し暑さの残る中、吹く風はどこか冷んやりとしている。辺りは背の高い木々が生い茂り、重なり合う葉が風に揺られてサワサワと音を奏でた。


「あ、月が出てるよ」

左右に延びる木々の壁が創り出す細長い空。その一点を指差して少年が言った。皆が視線を向けると、そこにあるのは満月を僅かに削った十六夜いざよいの月。遮る雲はなく、煌々と輝きを放っていた。


この子が最初で最後に目にする月が美しいもので良かった。せめてもの手向けになっただろうと女は思う。


——やがて三人は砂利が広がる川原に出た。そこで、目的地への到着を報せるように先頭の成政は歩を止める。


「ここ?」

少年は女を見上げて問うた。彼女は何も言わずただ頷く。


「……そうですか」

小さく呟くと、少年は繋いでいた手を離す。そして『その場所』に誘われるように歩き出した。


すぐそばにそびえる崖の真下。そこに立って上を見上げる。それはまさに夏彦が命を落とした場所であった。少年はゆっくりと視線を落とす。あの日妹の身体を腕に抱き、自分が飛んだ軌跡を辿るように。そしてそれが自分の足元まで来ると、そっと目を閉じた。


——……ぼくの役目は終わった。晴さんももう大丈夫。だからぼくも、両親やおばあちゃんの待つところへ行きます。


誰にともなくそう告げる。すると、ふっと身体が軽くなるのを感じて目を開けた。


少年の身体は、蛍の光にも似た色に輝き出す。それはとても幻想的な光景で、しかし無情にも別れの時が近いことを意味していた。


少年が振り向くと、今にも引きとめに駆け出しそうになる女が、成政に肩を抱かれて立っていた。目に涙を溜めて、それでも決して泣き言は漏らすまいと唇を引き結ぶ。その姿に、少年は自然と笑みをこぼした。


「生きて、ね」






少年の身体はみるみる背景に溶けていく。その輪郭が曖昧になっていく様を、兄の最期の姿を女は目に焼きつけるように見つめていた。


ありがとう兄さん。大好きな兄さん。


貴方の言う通り生きてみるよ。自分の時間を。


そして貴方の居ない世界を——……




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