第9話 真実

(何があったんだろう)

少年は部屋で一人、自分が書いたと思われる日記と睨めっこしていた。そこには次のように記されている。


“8月14日”

今日は不思議な事があった。晴さんは畑に水撒きに行ったっきり暫くどこかへ行ってしまったみたいだった。大きな声が聞こえて外に出てみたけど、もうそこに晴さんは居なかった。代わりに近所の人達が集まっていたからぼくはすぐに家に戻った。それから暫く待ってたけど、帰ってきたのは夕方頃。泣いた後みたいに目が腫れてたけど、何故かとても機嫌が良かった。夜寝る前に部屋に行った時、今度会わせたい人が居るって言われた。誰だろう。今までは誰にも会わせないようにしていたみたいなのに。


今日はこの日から既に2日経過している。女の腫れあがった目も既に元通りになった。それに伴い憑き物が落ちるように、日増しに晴れやかな顔をするようになっていた。何しろ今日この日は佐々木成政の仕事が休みの日なのだ。先日の別れ際、タオルを返しに行くと言って実は次の休日を確認していた。しかし女の機嫌が良いのは、その男に会えるからというだけの理由ではない。女は別れ際にこうも話していた。


『その時、少しお時間いいですか。貴方の言う子供の事も全てお話しします』


女は覚悟を決めていた。この人になら話しても悪い事にはならない。寧ろ協力してくれるかもしれない。そう考えたのだ。長年一人で抱えてきた物を誰かと共有する事が出来る。その事が女は嬉しくて堪らなかった。


「じゃあ行ってくるから。ちゃんと約束守るのよ」

女は予め出かけることを説明していた少年に、再度念を押してから家を出て行った。


(……ごめんなさい)

少年は心の中で謝罪する。約束とは例の言いつけの事である。家を出るな、書斎に入るなという二つの約束事。これのうち一方は既に過去の自分が破っている。そして今日。これから残るもう一方も破ろうと画策していた。


玄関の戸が閉まるのを確認してから、少年は女の書斎へ向かう。家の中には自分以外誰も居ないのだが、それでも彼はそっと襖を開けた。


中を覗き込むと、そこは何の変哲も無いただの和室。ただ他と違うのは、文机でなく普通の机と椅子が置いてある事だけ。その上には仕事用と思われるノートパソコンが一台乗っていた。


パソコンの触り方について一切の知識を持たない少年は、まず手始めに押し入れを開ける。そこは二段になっており上段には布団が、下段には大量の段ボール箱が仕舞われてあった。少年は膝立ちになり下段を覗き込むと、最も手前にあった箱に手を掛ける。


(……本?)

いや違う、アルバムだ。本と比べて大きさも重みも桁違い。それに1ページが厚紙のように分厚い。どうやら写真を直接貼り付けるタイプの物のようだ。少年はその中でも初めに目についた、臙脂色えんじいろのアルバムを手に取った。表紙から裏表紙にかけてぐるりとフワフワした生地で覆われており、不思議な温かみが感じられる。その表紙には“unforgettable memories”と金色の刺繍が施されていた。


——どくん。


心臓が大きく跳ねた。やけに喉が渇いて、ごくりと唾を飲み込む。そして……遂にそれは開かれた。


「……え」

表紙を開いてすぐのページにそれはあった。一枚の写真と真下に書かれたメモ。見覚えのある名前が少年の目に飛び込む。


“夏彦10歳 晴8歳 家の裏にて”


そこに写るのは確かに晴だった。今よりずっと幼いが艶のある黒髪と、切れ長でありながら優しげな目元に面影がある。ではこの隣で笑う人物が夏彦であろうか。写真の中の晴にとてもよく似ていた。恐らくは晴の兄だろうと少年は考える。彼は晴に兄が居た事にも驚いたが、それよりも別の理由から身を強張らせた。


(……ぼく?)

似ているなんてものじゃない。そこに写る夏彦という人物は、もはや自分そのものの姿をしていたのだ。目を背けたい衝動に駆られるが、全身が縫いとめられたようにそこから動けなかった。何か言い知れない恐怖を感じて、アルバムを持っ手がガタガタと震え出す。と、そこで少年は過去の日記に記されたある文を思い出した。


“なっちゃんに似てると言われた”

“なっちゃんがあんなことになって、と話していた”


なっちゃん……夏彦。成る程、近所の人たちが言っていたのはこの事だったのだ。


少年は未だ震えが治らない手で、次々とページをめくる。


(これも、これも、これもっ……全部!)

最後のページまで辿り着くとそれを放り出し、手当たり次第、一心不乱に全てのアルバムを開いていく。それらの殆どに晴、夏彦、そして両親と思われる二人の大人が写っていた。少年は突如激しい眩暈めまいに襲われて畳に手をつく。その視界を占めるのは開かれたまま散乱したアルバムたち。切り取られた時間の中で幸せそうに笑う夏彦、夏彦、夏彦、夏彦——……


(き も ち わ る い)

大勢の自分が知らない顔で笑っている。込み上げる嘔気に拳を握りしめる少年の頭の中で、自分は聞いたことないはずの主婦たちの声がこだましていた。——あんなことになったって何だ。夏彦に何があった。まさか、死んだ? 確かに女から兄がいるという話しは聞いたことがない。写真も、初めに見た10歳のものより最近のものは見当たらなかった。


(でも、だって……じゃあ何で隠すの)

少年は必死に思考を巡らせる。


晴さんの亡くなった兄、夏彦。

彼と瓜二つな自分。

その自分は記憶を無くし、この家に隠されてきた。

そして自分にだけ隠された兄の死。


まさか。少年の脳裏に、あり得ない仮定が浮かぶ。そんなはずはないと笑い飛ばそうとするも、強張ったままの表情筋ではそれも叶わなかった。


もし。もしも。その兄が今も存在していたとしたら。死んだ当時の姿のまま、老いることなく。


そう考えると全ての辻褄が合うのだ。身体が成長しないということは、その日得たものが蓄積されないということ。つまり記憶も、翌日にはリセットされて然るべき。そこから導き出されるのは、たった一つの可能性。


——ぼくが夏彦だったら……?






—晴 side—


(まずは何から話そうかな)

私は佐々木商店への道すがらそんな事を考える。先日はあの人にとんでもなく迷惑をかけてしまった。泣いて暴れて、酷い事を言った。それでもあの人はずっと側についていてくれたのだ。お陰で決心する事が出来た。私は今日、全てを話す。あの人ならきっと受け止めてくれるだろう。


商店街に入ると、途端に周囲が喧騒に包まれる。少し前ならそれが煩わしくて仕方がなかったのに、今はもう気にならない。それどころか寧ろ心が弾むのを感じながら、到着した佐々木商店の前に立った。


「やぁ晴ちゃん、息子から聞いてるよ。上がって」

店の親父さんが私を見つけて声をかけてくれる。あの人は家族に、今日私が訪ねて来る事を話していたらしい。にかっと笑って快く迎えてくれた。


「ちっとも顔見ねぇし、たまに見ても人寄せ付けねぇ感じ出してるしよ。心配してたんだよ」

そう言って私の頭に手を置いた。誰かに頭を撫でて貰うなんていつ振りだろう。その温かさに、遠き日の父の手を思い出す。


「はい……気にかけていただいて、ありがとうございます」

じわりと涙が滲む。そんな私を見て親父さんは驚いて手を離した。


「俺はちっちゃい頃のお前さんを知ってるからな。もちろん夏彦君の事も絹江さんの事も良く覚えてる。一人で大変だったろ」

あぁ、やっぱり親子だな。あの人の優しさは父親から受け継いだものなのだろう。ぶっきらぼうな口調の中に覗く確かな気遣い。ふざけていると見せかけてその実、誰よりも人心に聡い。決して明け透けでない不器用な優しさ。それら全てに、凝り固まった何かがほぐれていく心地だった。


「俺だけじゃあねーぞ。同じようにお前さんを心配してるやつぁこの村に大勢いる。今度からはもうちっと頼って欲しいね」

「……っありがとう、ございます」

「おぅ泣け泣け! 全部出しちまえ!」


親父さんは豪快に笑いながら再び頭を撫でてくれる。髪がぐしゃぐしゃになるが、今はそれすらも嬉しい。そんなことをしていると、声を聞きつけた誰かが二階から降りてくるのが見えた。


「おいこら泣かすなよ!」

呆れ顔で姿を見せたのは成政さんだった。彼は私と親父さんの間に入って言った。


「あーあーまた目腫れるぞ」

「何!? お前晴ちゃん泣かせた事あんのか! この馬鹿息子が!」

やべぇつい口が滑ったというように、成政さんは明後日の方向を見る。それに食ってかかる親父さん。そんな二人の様子を見ていたら涙なんてすぐに引っ込んでしまった。くすくすと笑う私をチラリと見て、すぐに背を向けた成政さんは言う。


「ほら、ついて来い」

先に歩き出した彼の後について、私も階段を上がる。廊下を進むと彼は木製のドアを開け、自室に通してくれた。


「失礼します」

遠慮がちに中に入ると、押し入れから座布団を出してくれる。小さく礼を言ってから私たちは小さなテーブルを挟んで座った。話し始める前に、忘れないうちにと先日借りたタオルを返す。彼はそれを受け取って脇に置いた。するとスッと真剣な表情になって口を開く。


「話してくれるんだろ?」

「はい。その為に来ましたから」

私は一つ息を吸い、呼吸を整える。そうして共に暮らすあの子について話し始めた。


「まず、私の兄が亡くなった話しは覚えていますよね」

「ああ。崖から落ちたんだったか」

私は頷いて応える。それが関係あるのか、と彼は訝しげに首を傾げた。


「あの日の話しには続きがあるんです」

私を守って死んでしまった兄、夏彦。私が兄の死を確信したところから話しは始まる。


「兄は頭から大量の血を流していました。呼吸は既に無く、身体はどんどん冷えて……たぶん即死だったのだと思います。」

「そうか……」

「当時私は8歳でした。まだ一年前に両親を亡くしたばかりで、今度は兄まで。幼い私にはとても耐えられませんでした」

話しながら、その時の光景と感情を思い起こす。16年も前の事なのに、嫌になるほど鮮明に覚えていた。


「兄の亡骸にしがみついたままその場を動けず、気づくと夜になっていました。後から聞いた話では、お婆ちゃんはあちこち探し回ってくれていたそうです」

ちらりと視線を上げて確認すると、彼は黙って聞いてくれている。それに安堵してから私は話しを続けた。


「もういっそこのまま一緒に死んでしまいたい。そんな事を考え始めた時でした。側の小川に沢山の蛍が集まって来たんです」

「蛍が?」

「はい。そしてそれはこちらに寄ってくると、次第に兄の亡骸を取り囲みました」

その光景は幻想的で、それでいて酷く恐ろしくも見えた。この子らは天からの使い。この光は兄を連れて行ってしまうと幼心に思ったのだ。だから私は必死に叫んだ。連れて行かないで、と。


「そうしたらその蛍たちは次々と消えてしまったんです。飛び去ったのでなく文字通り。兄の亡骸に溶けるように居なくなりました」

「それで、どうなったんだ」

「……辺りの蛍が全てそうして消えた頃、兄は目を覚ましました」

それは本当に突然だった。消え行く蛍に釘付けになっていた私に、何の前触れもなく目を覚ました兄は言ったのだ。


『こと消ゆる運命さだめなれども

そなたのよすがとなりて生きなむ』


今にして思えば、あれはきっと蛍たちの声だった。伝承によれば蛍には非業の死を遂げた者の霊が宿るとも言われる。ならばまさにそうして死んだ兄を迎えに来たのだろう。しかし私があんまりにも兄の魂を離さないものだから、先人たちが憐れに思ったのかもしれない。


彼らがまだ生きられる筈だった残りの時間を、兄に分けてくれたんだと。兄の一部となって命を繋ぎ、憔悴する私の拠り所となってくれたんだと。そんな気がした。


「ただ一言そう残して、再び目を閉じました。そして不思議と息をしている兄をおぶって家に戻ったんです」

「……じゃあそいつは今も」

「はい。生きて、共に暮らしています」

成政さんは口を手で覆い絶句する。まるで夢物語のような話しだという事は分かっている。でも仕方がない、全て事実なのだから。


「信じられませんか」

「いや……でも待て。俺がお前に訊いたのは子供の事だ。まさかあの子供がそうな訳ないだろう。お前の兄は俺とタメじゃないのか」

「兄の身体は成長せず、新しい記憶も蓄積されず、当時の姿のままこの16年を生きて来ました」

「……成る程。だから周りに隠してたのか」


私は頷く。彼の言う通りだ。蛍によって黄泉帰った兄の身体はもはや人のそれとは違うのかもしれない。何か、そう。あやかしのようなものに転じてしまったのだろう。姿の変わらないそんな兄を人目に触れさせる訳にはいかなかった。


「今の話し、兄ちゃん自身は知ってんのか」

首を振る私に、何でだと彼は詰め寄る。


「何か余計な事をして兄が消えてしまうような事態になれば、私だってもう生きてはいけないから。それに……」

「何だ?」

「……話したら、兄は私を恨むと思ったから」

それを聞いた彼は盛大な溜め息を吐く。何故そんな反応をするのか分からなかった。戸惑う私に彼はあのなぁ、と話し出す。


「命かけて妹守るような兄ちゃんだぞ。それを恨んだりなんてするかよ」

「それだけじゃない! だって無理矢理魂を縛りつけて、あんな身体にされて……知ったらきっと私を嫌いになるわ」

「ならねぇって」

「なるもん!」

「ならねぇ!!」


終わらない問答に彼は再び溜め息を吐く。でも、私だって譲れない。確信があるのだ。私がしたことは世の理を捻じ曲げる行為。許されるはずがない。兄だってやっと両親の元に行けたと思っただろう。私は救ってくれた兄に恩を仇で返してしまった。ずっと子供のままの姿、記憶も無い。こんなになってまで生きていたくはなかっただろうに。ごめんなさい……ごめんなさい兄さん。こんなことならあの時、兄さんの手を振り解けば良かった。


「私一人が死ねば良かった」

「ッ!」


パンッ——……


突如響く乾いた音。遅れてやってくるジクジクとした痛み。私は呆然と頬を抑えて固まった。


「今の言葉、兄ちゃんの前でも言えるのか」

「え……」

「助けた妹に死にたいなんて言われてみろ。それこそ心底恨むだろうよ。お前をじゃねぇ。弱っちい妹を一人にしちまった自分自身をな」

その言葉に目が覚める思いがした。誰よりも私が兄さんを侮辱していたのだ。兄さんのしてくれた事を否定して、今の兄さんの事を憐れんで。何て身勝手だったんだろう。


「もう少し信じてやれよ。お前の兄ちゃんだろ」

ただ離れたくない、もう一度会いたい。そんな純粋な思いで妹がした事を怒るような兄だったのか? そう彼は優しく言った。その言葉に私は首を振って応える。そんな訳ない。兄さんはそんな人ではなかった。


「ならちゃんと話すべきだと思うぞ」

「はい……っ」

「万が一そのまま消えちまったとしても、もうお前は子供じゃねんだ。ちゃんと受け入れられるよな」


まぁそんときゃまたここに泣きにくればいい。そう言って笑ってくれる。そうか。さっき親父さんも言っていたが、私には頼る人がいるのだ。おばあちゃんが死んで、私一人であの幼い兄を守らなければと思っていたが、それは間違いだった。私はこの16年間何を見ていたんだろうか。真に時間が止まっていたのは兄でなく、私の方だったのかもしれない。


「ありがとう。私ちゃんと話します。それで兄が消えてしまっても、何を選んだとしても受け入れます」

私がそう言うと成政さんは頭を撫でてくれた。親父さんと同じ温かい手で。






帰り道。彼は送ってくれようとしたのだが、一人で考えを整理したいからとそれを断った。渋々了承した彼は最後に一言、頑張れよと背中を押してくれた。


(うん。頑張る)

兄さんを信じていない訳じゃないけど、やっぱり少し怖い。けどもう逃げない。決めたんだ。今のあなたがどのようにして生まれたのか、ちゃんと全て話す。そして何を言われても……嫌われたとしても受け止めるから。


そうして私は家路を急いだ。今この瞬間彼が何を思っているのか、何を知ってしまったのかなど知る由もなく。彼の待つ家へ走った。

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