第5話 消された過去

——時を遡り、少年が枕の中から日記を見つける6日前。日にちにして8月5日の朝の事。


この日の少年もやはり決まった時間に目を覚ました。


ごりっ


身体を起こそうと首を持ち上げた瞬間、背中に鈍い痛みが走る。何かの角に背を抉られて低く呻いた。彼は堪らず身体をくねらせ、うつ伏せになって布団から這い出る。何なんだと背中をさすりながら布団を捲り、先程まで自身が横たわっていた場所を確認した。


(え……何で?)

そこには何故か一冊の本が置かれてあった。全体の厚みはたいしてないが、表紙から裏表紙にかけて厚手の硬い紙で覆われており、どうりで痛いはずだと苦笑する。昨晩読みながら寝てしまいでもしたのだろうか。そう考えて思い起こそうとするも、頭の中には黒いもやが立ち込めている。しばらくその中で目を凝らすも、結局何も思い出せはしなかった。そしてそれは昨晩のことに限らず、もっと以前の記憶から自身の名前に至るまで、全ての事柄に及んでいた。いったい自分はどうしてしまったのだろう。少年は途方に暮れながら手元の本へ視線を落とす。もしかしたら何かの手掛かりになるのではと、最初のページを開いた。


“7月28日”

今日読んだ本には色々な病気の事が書かれていた。難しい言葉ばかりだったけど、その中でも認知症というものに興味を持った。それは、殆どはお年寄りがなるもので、昔の事や家族の事、そして自分の事を忘れてしまうのだそうだ。そうならない為に、日頃から前日やその日あった事を思い出しながら日記を書くのが良いとあった。ぼくは子供だから認知症とは違うけど、どこか似ていると思った。なんだか面白そうだ。ぼくもやってみることにした。


このページはここで終わっていた。少年は、置かれた状況からこれを書いたのは自分だとすぐに分かった。パラパラと紙を捲っていくと、どうやら最後に書かれたのは8月4日。これが昨日のことであればつまり今日は5日という事になるのだろうか。初項からここまでたった数ページしか無い事を確かめると、再び始めのページに戻り夢中になって読み始めた。


(ふぅ……)

一気に読み終えると、日記を閉じて一息吐く。どうやら過去の自分はその日あった事を記していくうち、認知症とはまた違った症状であると気づいたらしい。夜眠る度に殆どの記憶を失くす病気。残るのは年齢相応の拙い知識や常識だけ。しかしそうなると不思議なのは、何故それだけは覚えているのかという事。いや、むしろその逆なのだろうか。何故『それ以外の事だけを忘れてしまう』のか。それを知る為には、どうやら自力で調べるしか無いようだ。日記を読む限りこのお姉さんはとても優しい人だが、何かに気づく素振りを見せると取り乱してしまうようだ。例え何か隠し事をされているのだとしても、世話になっている人を怒らせ、悲しませるのは嫌だった。


日記によって大方の事情を知った少年は、どうしたものかと思案していた。しんと静まり返る部屋。その静寂を破るように玄関の戸が開けられる。ガラガラという音に少年はハッと我に帰った。どんどん近づいてくる足音に急かされながらも、少年は間一髪のところでその日記を敷き布団の下に押し込んだ。


「おはよう。起きてたのね」

襖が開き、顔を覗かせるのは知らない女性。この人が日記にあった“お姉さん”なのだろう。


「私の事分かる?」

少年は首を振って応える。それを見た女はほんの一瞬肩を落とすも、すぐに笑顔になって言った。


「お腹空いたでしょう。まずはご飯にしようか」

少年が頷くと、女は手を差し出して立ち上がらせてくれる。そのまま二人は並んで部屋を出た。


またいつもの“今日”が始まる。少年も女も、この時はまだそう思っていた。






—another side—


夕食を終えると、私は書斎で一人鬱々としていた。


(今日は殆ど仕事にならなかったな……)

何度もパソコンの画面に向かってはみた。しかしどうしても昨日の事が頭から離れてくれないのだ。お陰で一日掛けて進んだのがたった数行。執筆画面を見て溜め息が溢れる。


『ずっと前からぼくはこの家にいるよね』

彼にそう訊かれたのが昨日の事。その後であの子は、そんな気がしただけだと言っていた。あの時は取り乱してしまったけれど、一晩眠ったら幾らか落ち着いた。冷静になった今改めて思うと、何だか腑に落ちない話だった。


(本当にそれだけ……?)

だって今までずっと、何度も何度も何度も繰り返してきたのに。その中であんな事を言われたのは昨日が初めてだった。あの子に真実を悟られるような物は、全て処分ないしこの書斎に仕舞ってある。それなのに何故?他のどこかに見落としでもあったのだろうか。それが昨日になって偶然見つかったというのか。


(ううん、それは無い)

私は次々に浮かんでくる仮定に首を振った。


(だって昨日はずっと一緒にいたんだから)

午前中は共に庭に出て畑仕事。午後からは、当分使う予定の無い資料を居間に移して本棚の整理をした。あの子もそれを手伝ってくれていたのだ。しかし、だとするといよいよ分からない。


(あの子の中には、朝起きてからの出来事しか無いのよ)

本当に只の直感で無い限り、何かあったとすればやはりそれは昨日のうちだったということ。こうなれば寧ろ只の直感であって欲しいと願うばかりだ。そうであれば防ぎようが無い代わりに、何とでも誤魔化しが効く。それに翌日には全てリセットされるのだから、その日一日だけ凌げば良い。


(信じてもいいのだろうか)

彼の言う事を。……信じたい。何よりも、大事なあの子を疑うのは途方も無いほど疲労する。心を、すり減らされる。何でもいいからもう終わりにしたいのだ。


時計を見ると、もうそろそろあの子が就寝の挨拶にやって来る頃だった。私はパソコンの電源を落とし、引き出しから日記帳を取り出す。いつもこの時間になると、短いながらも日記をつけるようにしていた。文字通り変わり映えのない毎日の中で、仕事とこの日記だけが唯一現実感を持たせてくれる。と、そこで私は動きを止めた。


手元の日記帳を見つめたまま思考を巡らす。何かが引っかかるのだ。何か忘れているような気がする。少し前に、あの子に何か言われなかっただろうか。日記に関する何かを。


(……そうだ、確かあの時!)

突如、記憶の片隅に追いやられていた欠片が光った。それは一週間程前だったか。あの子は私に言ったのだ。する事が無いから絵を描きたい。スケッチブックか何か無いだろうかと。それで私はこれしかないのだと、ストックしておいた真新しい日記帳を渡したのではなかったか。


それともう一つ、つられて思い出した事がある。その日あの子は、私が資料として置いていた医学書を読んでいなかったか。そこまで思い出してサァッと青ざめる。嫌な予感がした。確かあの医学書には——。


私は廊下の電気を点けて居間に走った。飛び込むように中に入り本棚を見ると、やはりそこにはその本が置いてあった。目次でページを確認し、目的の箇所を開く。私の記憶が確かなら、認知症についての欄に『それ』は書かれていた筈だ。


“認知症の予防の一つとして、日記をつける事が良いとされる”


その一文を見つけた瞬間、全てを理解した。あの子はこれを見たのだ。それで似た状況である自分もやってみようと思ったのだろう。絵を描くなどと言ったのは、照れ隠しか何かだったのか。日記帳を渡された時はさぞ驚いただろうな。それこそまさに欲しかった物なのだから。そして、それを渡した事を今まで忘れていたという事はつまり。あの日の夜、私はそれを回収していない。


(なんだ、そういう事)

何が『そんな気がしただけ』なのか。やっぱりあの子の言った事は嘘だった。私に隠れて日記をつけていたのだ。それならばあの日の言葉にも納得がいく。記憶障害の事にも、私がそれを隠している事にも、聡いあの子はすぐに気がついただろう。


ふっと両手から力が抜ける。ごとりと本が落ちる音を、私はどこか遠くに聞いていた。






— — —


少年は入浴を終え、就寝前の挨拶に行こうと階段へ向かう。すると、何故か廊下や居間の電気が点いているのが見えた。


夕食後、女は書斎に戻ると言っていた。何か用事でもあったのだろうか。兎に角、挨拶をしようと居間に入った。


しかし少年の足は、一歩踏み入ったところでぴたりと止まる。常と違う異様な空気がそこにはあったからだ。女は本棚の前に座り込み、項垂れていた。側には一冊の本が転がっている。こちらに背を向けているせいで表情は見えないが、良いものでないのは確かだろう。そのせいか、彼女に対して普段は決して抱かない恐怖を感じた。女の、いつもとは違う雰囲気に少年は狼狽える。それでも、どうかしたのかと声をかけようと更に一歩踏み出そうとした、その時。


「ねぇもしかして……日記帳なんて持ってないよね……?」

「!」

先に口を開いたのは女の方だった。ボソリと放たれた声は、これまで聞いた事の無いくらい低く、冷たい物だった。地を這うようなその声に少年はビクリと肩を揺らす。その小さな動揺を、女は見逃さなかった。


「持ってるのね。どこにあるの、出しなさい」

女の、こんな高圧的な言葉を聞いたのは初めてだった。きっと過去の自分たちも耳にしてはいないだろうと感じた。矢継ぎ早に投げかけられる質問に、思わず少年も早口になる。


「知らない、持ってないよ」

「これ以上嘘つかないで!!」

こちらの言葉を遮るような女の怒号に、少年は怯えて後退る。そして無意識にちらと二階を見てしまったのがいけなかった。


「そう……部屋にあるのね……?」

女はゆらりと立ち上がって言った。声が出ないのか、ただしきりに首を振る少年の身体を押し退けようと肩に触れる。その感触に弾かれたように、少年は女の手を振り払うと部屋へと駆け出した。


(っ隠さないと!)

あれを捨てられたら、きっともうチャンスは来ない。あの日記が自身の事を知る為の最後の手段なのだ。背後からは尚も女の怒号が響く。怖い。しかし足を止める訳にはいかなかった。……女の身に何が起こったというのか。優しく、温かく、そして美しい女の突然の豹変に、頭の中はぐちゃぐちゃに混乱している。それでも懸命に階段を駆け上がった。


少年は部屋に駆け込み、乱暴に襖を閉める。女の足音はもうすぐそこまで迫っていた。乱れる息もそのままに、朝から敷いたままになっていた布団の下から日記帳を取り出す。隠している時間も場所も無い。そう悟った少年は咄嗟に、新しい側から3ページ程を破って枕カバーに突っ込んだ。そこは自身の置かれた状況について書かれた、最も重要なページだった。そうしてから布団の側を離れた一瞬後、間一髪のところで女が襖を開けた。


「やっぱり持ってたのね」

見覚えのある帳面。それはやはりあの日、自らが少年に与えた物に相違ない。女はズカズカと側まで来ると、少年の手から強引に日記帳を奪った。そしてそのままくるりと向きを変え、部屋を出て行ってしまう。


「待って!返して!」

少年も慌てて後を追う。女は追い縋る少年など気にも留めず一階に降りる。やがて台所へ入ると、止める間も無く日記帳を流し台に落とした。


何をするつもりなのか。女の行動の意味が分からず少年は息を詰める。次の瞬間。蛇口を捻り、大量の水がその上に叩きつけられる。紙は一瞬で水を吸い、そこに書かれた文字は滲み、流れて消えていった。それは一瞬の間の事だった。廊下と、隣の居間から漏れる僅かな明かりのもとでその光景を見ながら、少年は思う。


今流れていったもの。あれは単なる文字じゃなかった。ぼくの記憶そのものだ。この数日間、ぼくが生きた証だと。それが今やもう何も残っていない。よりによって大好きなお姉さんの手で消されてしまうなんて。それが何より悲しくて、悔しかった。


少年の瞳から涙が流れた。まだ幼く非力な彼には、何も言わず佇む女の後ろ姿を、ただ泣きながら見つめるしか出来なかった。






それからは何が起こったのか、あまり覚えていない。気がつくと少年は庭先の古い物置小屋の中に居た。ぼうっとする頭で、自分の身に起きた事を思い出そうとする。すると薄っすらと、女に手を引かれ半ば引き摺られるようにここまで来たのを思い出す。裸足のまま外に出たせいで、指の間には乾いた砂が付着していた。


(もう何も感じないや)

泣くほどの悲しみも悔しさも、恐怖すらも今の彼にはなかった。今晩はこの物置で一夜を明かすのだろうか。窓のない完全な闇の中で。それでもいい。早く明日になればいい。早く今日の事を忘れてしまいたかった。


夜とはいえ、真夏にこの密閉空間は辛い。昼間に篭ったまま逃げ場のなかった熱が一気に少年を襲った。服が次第に汗で湿り、重みを増す。しかしそんなのは少年にとってどうでも良いことだ。せっかく風呂に入ったのにな、とぼんやりと思うだけだった。


「ごめんね……ごめんね……」

小屋の外からは、消え入りそうな女の声が聞こえてくる。時折混じる鼻を啜る音。泣いているのだろうか。いつもはとても優しい人。色々な事を教えてくれて、そしてとても大事にしてくれる。会ったばかりなのに、誰なのか覚えてもいないのに、それでも大好きになった。


(でも、大事な事は何も教えてくれない)

貴女は何を隠しているのですか。このままじゃ、貴女を嫌いになりそうです。それを後押しするかのように、泣きながら謝る声を聞いても、もはや少年の心は動かなかった。


目を開けているのか閉じているのかも分からない暗闇の中、少年は膝を抱え丸くなる。少しずつ降りてくる眠気と共に、呼吸も浅くなっていく。息苦しい。酸素が無くなる前にここから出してくれるだろうか。


(……どっちでもいい)

明日目が覚めても覚めなくてもどうでも良い。明日のぼくは今日とは別人。どっちにしろそこにぼくは居ない。今ここに生きている『ぼく』の夜が明ける事は無いのだから……。記憶だけでなく、もういっそこの身体ごと暗闇に溶けてしまいたかった。そうしたらまたお姉さんは泣くのだろうか。そうなればいい。泣いて泣いて、そしてぼくを嫌いになってくれればいい。そうしたらおあいこでしょう? ぼくだけ貴女を嫌うのは、やっぱりどこか申し訳ないから。


(おやすみなさい。さようなら)






——どれくらい経っただろう。女は泣き腫らした顔で空を見上げた。こんな日でも、空の月はやはり美しかった。


(……今何時だろ)

月の位置はもうだいぶ低い。あの子は恐らくとうに眠っているだろう。そう思い、静かに小屋の戸を開けた。


月明かりが差し込み、少年の姿が足元から順に浮かび上がる。彼は膝を抱えたまま腕に顔を埋めて眠っていた。一歩中に入ると、凄まじい熱気が身体中に纏わりつく。ああ、こんなところに閉じ込めてしまったのか、と女の目には再び涙が浮かんだ。それを腕で乱暴に拭うと、少年の身体をそっと抱きかかえる。その肌は汗でじっとりと湿っていた。


小さな身体を部屋に横たえると、濡らしたタオルで身体を拭いて着替えさせた。そして脱水にならないようにと、薄く塩を溶いた水を口にポタポタと落とす。少年の喉が無意識に動くのを見てホッと息を吐いた。気休めにしかならないが、恐らく大丈夫だろう。女はタオルや桶を片付けに一度部屋を出ると、またすぐにうちわを持って戻ってきた。


(やっぱり君は賢い子ね)

眠る少年をゆっくりとうちわで仰ぎながら思う。何も待たない状態から、あっという間にあそこまで辿り着いてしまったのだから。


(でもごめんね。それだけは駄目なの)

水浸しになった日記帳と、あの医学書。明日の朝一番にゴミに出そう。もう二度とこんな事が起こらないように。女は少年の黒く細い髪を指で梳いた。明日になれば全てが無かった事になる。泣いた事も、閉じ込められた事も、綺麗に忘れられる。いっぱい怖い思いさせたね。でも大丈夫よ。明日の君はもう違う君だから。安心して眠って。


(おやすみ。さようなら)

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