第7話 風鈴の記憶

この日、少年は特にやる事が無かった。それはもう拍子抜けする程に。少年は部屋の畳に四肢を投げ出して寝そべり、ぼんやりと天井の模様を見上げた。木独特の渦を巻くような、もやのような模様。見方によっては人の目のようにも見えるそれを眺めながら、つい一時間程前の興奮を思い返すのだった。


朝起きた時はそれは驚愕したものだ。過去の自分が書いたと思われる日記を手にしていたのだから。……いや、実際は手でなく腹に乗っていたのだが。それも当の本人はその事を覚えていないときた。まさに未来の自分へ宛てた手紙の入った、タイムカプセルを開けたかのような気分だった。


(昨日のぼくはかなり頑張ってくれたな)

自分の事なのに、どこか他人事のようにそう思った。少年はポケットから前日の分の日記を取り出す。仰向けのまま、両手を天に伸ばしてそれを開いた。


(あの人の名前は、支倉はせくらはるさん)

それを知っても、その名で呼ぶ事は無い。知っている事を知られてはいけないのだ。お姉さんの事は、依然として“お姉さん”と呼ばなくてはいけない。それが少し寂しい。


(はぁ……)

無意識に溜め息が漏れる。何かしたい。少年は強くそう思った。そう、やる気はあるのだ。むしろ満ち満ちているくらいに。やるが無いのと、やるが無いのでは大きく異なる。前日の自分の大活躍を見れば、今日も何か成果を挙げてやろうと発起するのは必然だろう。隙さえあれば女の書斎に入ってやろうと思っていたし、機会があれば自分だって外に出て、今度こそ“なっちゃん”なる人物について調べたいとも思っていた。だがしかし。今日はその隙も機会もとことん縁が無かった。ただそれだけだ。


(一回休みかぁ)

再度漏れた溜め息に混じり、腹の真ん中辺りからキュルキュルと細い音がした。退屈な少年とは違い、胃の方は朝食の消化に大忙しなようだ。


一体何故こんなにも退屈な思いをしているのか。それは、朝食後の女の一言によってもたらされたのだった。


『今日は書斎の大掃除するから、君はなるべく部屋に居て頂戴』

どうやらあまり見られたくない物を出し入れしたり、廊下や居間が忙しなくなるからとのこと。当然少年は頷くしかなかった。


居間の本棚から気になる本を何冊か借りてきたは良いが、いまいち読む気が起きない。息巻いていた分、肩透かしを喰らった心地だった。しかし少年にとって、こうしてただ時間を無駄にするのは癪だった。彼にとっての今日はたった一日の人生。たまたまハズレを引いたからと諦めて寝て過ごすのは嫌なのだろう。少年は昨日の、そして明日の自分に嫉妬ジェラシーを感じていた。


(本を読む事も何かの役に立つかも)

今後使えそうな知識を蓄える。それを記録して明日の自分に繋げる。それが今日の自分の役割なのだと、そう思う事にした。幸い女の職業柄、多種多様なジャンルの本が揃っている。少年は机に積まれた本の中から、最も心惹かれた題名の物を手に取った。


花筏はないかだ

これは専門書のような物とは違うが、不思議と目についた。背表紙のあらすじを読むと、一対の鳥のつがいが織り成す物語とある。


もう何度も繰り返し読まれたのだろう。そう古い本でもないのにやけにくたびれて見える。少年はそれをそっと開くと、物語の世界へ身を投じた。






—another side—


(さて、やりますか)

私は本棚の前に立った。まず手始めに、ここにある本を全てチェックし直すのだ。何故そんな事をするのか。それは決まっている。あの子から真実を遠ざける為だ。


(次またあんな事になったら、その時私はどうなってしまうか分からない)

あの悪夢のようなひと時を思い返す。それはたった一冊の本の為に引き起こされたものだった。その結果として私はあの子を泣かせ、怖がらせ、そして閉じ込めた。到底許される事ではないと理解しているが、それでもあの時はああするしかなかった。


あのままあの子を朝まで閉じ込めていたら。その細い首に手でもかけていたら。そんなもしもの事を思うと今でも手が震える。あの時、私は確かに我を失っていた。それでもすんでのところで踏み留まれたのはひとえに、私が臆病だったからだ。あの子の居ない未来なんて考えられない。それを自ら招くような真似出来るはずが無いのだ。……しかし次はどうなるか。あの子を、この生活を守る為ならと、彼の心くらいならば壊す事も厭わないかもしれない。だから彼を守る為にも、もう一度徹底的に家の中を洗い直す。少しでも疑わしい物があればその芽は摘んでおかなくてはならない。


私は本を端から手に取る。文字の一字一句、比喩するもの、関連する事柄まで細かく念入りに見ていった。確認を終えた本は棚に戻し、また次を手に取る。そんな作業を繰り返すうち中途半端に隙間が空いた箇所が目についた。それを見て思い出す。そういえばあの子が何冊か部屋に持って行った筈。それも後で忘れず確認しなければ。


(あ、花筏が無い)

作業が中段に差し掛かった頃。本棚からその本が無くなっている事に気がついた。またあの子が持って行ったのだろう。あれはあの子のお気に入りだった。内容を忘れてしまうせいでもあるのだろうが、もう何度も繰り返し読んでいた。あの本こそまさに私が執筆した作品であり、処女作でもあった。彼はそれを知らずに読んでいる。いつかした、私が書いた本を読ませてあげるという『約束』。それはとっくに叶っていたのだ。あの花筏は私が中学生の頃に書き上げた物で、作家になったきっかけでもある。その為とても思い入れのある本だ。そんな本をあの子も気に入ってくれている事は単純に嬉しい。私はふっと笑みをこぼし、作業に戻った。






(疲れた……)

もう随分長いこと本を読み耽っていた。ずっと俯いていた事で酷く首が痛む。私は丁度確認の終わった本を棚に戻し、大きく首を回した。残るはあと数冊と言ったところ。この分なら今日中に終わりそうだ。休憩を挟もうかと時計を見ると、昼食どきまであと少しだった。ならば気分転換も兼ねて、書斎の片付けに移ろうかと思い立ち上がった。


部屋に入り押入れの襖を開ける。そこにはいくつかの段ボール箱。その一番手前の箱にはアルバムが仕舞ってある。


(まさか。これは捨てられない)

私はその箱を取り出して脇に寄せた。その次に目についたのは、ごちゃごちゃと小物類が詰まった箱だった。


(整理するとすればここだけど……)

それを一つ一つ手に取ってみる。しかしそのどれもに捨てがたい思い出が染みついていた。例えばこれ。この白い貝殻なんかはよく覚えている。これはまだ村に来る前、家族と暮らしていた時に海で拾った物だ。両親が死んで暫くは塞ぎがちだった私を元気づけようと、おばあちゃんが庭にあるデイジーの鉢植えに飾り付けてくれた。引き出しに眠るだけだった思い出が再び色を持ったように思えて、本当に嬉しかったのだ。


今はもう古くなってしまって、外には置いておけないけれど。それでもあの可愛らしい光景は忘れられない。私は両親と、そしておばあちゃんの思い出の詰まったその貝殻をそっと箱に戻した。


その他にも、春先にあの子と一緒に作った押し花の栞なんかも出てきた。このネモフィラの栞なんて青がとても綺麗だ。スミレの花も、小さいながら濃い色で存在感がある。仕舞っておくのが勿体ないが、もしあの子に見られて、何かのトリガーになってしまったらと思うと迂闊に使えない。


あれもこれもと思いを馳せていると、結局何一つ捨てられずに時間だけが経過していた。こうして思い出が増える度に仕舞い込んでいたら、いつかこの押し入れに入りきらなくなってしまうだろう。こんな生活があとどれくらい続くのかは分からない。もし何年、何十年も続くのなら、押し入れどころか部屋からも溢れ出てしまうだろう。


私はこの先の未来を思い浮かべる。その時そこに、まだあの子は居るだろうか。それとも……この広い家で一人、思い出の欠片に囲まれて、自分を慰めながら生きているのだろうか。そこまで考えて心の底からゾッとした。


(駄目だめ! 暗い事ばっかり考えちゃ)

頭を振って暗い想像を搔き消す。そうだ、そろそろお昼ご飯の準備をしよう。私は一度両頬を叩くと無理矢理笑顔を作った。ダンボールを戻し、押し入れを閉めて立ち上がる。昼食は何にしようか、そんな事を考えながら廊下に出ようとしたその時だった。


パリーンッ


何かの破砕音だろうか。しかしあまり大きくはない音で、空耳だろうかと考える。しかし立て続けに聞こえてきたのは——……


「ぅあああああ!!!」

……あの子の叫び声だった。


「!?」

その声に驚愕した私は慌てて部屋を飛び出す。そして何も考えずあの子の元へただ走った。






— — —


少年はたった今読み終えたばかりの本を閉じた。すっかり本の世界に引き込まれた意識が、ゆっくりと現実に戻ってくる。全身が気持ちの良い倦怠感に包まれていた。


(こんな形の寄り添い方もあるんだな……)

窓の外をぼんやりと眺めながら思った。彼にはまだ色恋の事はよく分からない。それでも物語の中で懸命に誰かを思って行動し、涙し、愛に生きた者たちに感情を寄せずにはいられなかった。そして不思議と他人事とは思えないと感じるのだった。


少年は腰を上げ、窓辺に立って外からの風を受ける。ふわりと優しく吹く風に煽られた物から、リンリンと心地良い音が響いた。


その音の元へ視線を向ける。丸い硝子部には二匹の金魚が描かれている。もしかしたらこの二匹もつがいだったりするのだろうか。そう思い、ふっと微笑んだ。しかしその直後少年は何かに気づいて笑顔を消した。


(糸が……っ)

その硝子を吊るしてある糸が今にも切れてしまいそうになっていた。だいぶ古くなっていたのだろうか。少年は咄嗟に手を伸ばす。しかしあと一瞬間に合わず、手の間をすり抜けて真っ直ぐに落下した。


パリーンッ


今の今まで美しい音色を奏でていた物は呆気なく砕け散る。畳の上に無数の透明な破片が飛び散った。そして足元に散らばるそれを見下ろす少年は、何故か凍りついたように固まった。


「はっ……ぁ……」

突然息が苦しくなる。何か言おうと喉を絞るも空気が漏れるばかりで、額には脂汗が滲む。苦しい。怖い。何故そんな風に思うのか、自分に何が起こっているのか、それは彼自身にも分からなかった。


刹那。少年の瞳が、真っ赤な血色を映す。しかし当の本人は無傷である。恐らくそれは現実のものでなく彼の瞼に焼きついた赤。窓に背を向け、誰もいない虚空を見つめながらワナワナと両手を震わす。と同時にヒュッと息を吸い込むと、目を見開き叫び出した。


「ぅあああああ!!!」

そのまま髪を振り乱し、悲痛な声で叫び続ける。手で顔を覆うも、目に焼き付いた赤は消えてくれなかった。


バンッ!


突如襖が開き、血相を変えた女が現れる。肩で息をする彼女は只ならぬ様子の少年を見て、一瞬呼吸が止まったようだった。


「っ……」

女は一歩ずつゆっくりと少年に近づいて行く。彼の側まで来ると足を止め、慎重に口を開いた。


「そのまま、動かないで……足怪我しちゃう」

その声に少年は初めて女の存在に気づいたようだ。彼の視線がゆらりと動いて女を捉える。


「お、ねえさ……?」

「うん。おいで」

今にも泣き出しそうな声の問いに女は頷き、両手を広げて少年を抱きかかえる。彼の身体を浮かせたまま数歩下がって破片の無いところに移動すると、そのままズルズルと座り込んだ。


「大丈夫。大丈夫だから……」

宥めるように背中をさする。すると少年の身体から力が抜けていき、遂にはだらんと腕が垂れる。しかし彼はそれをもう一度力なく持ち上げると、恐る恐る女の額に触れた。労わるように、慈しむように。


「……ごめん、ね」

「!」

目に涙を溜めてその言葉を呟く。それを最後に、少年は女の体温を感じながら意識を手放した。


(……もう傷なんて無いのに、どうして)

彼が触れた箇所に、女も手を置く。そこには傷も無ければ痛みも何も無い。しかし、確かにそこは以前怪我を負った箇所だった。それも少年の手によって。


(まさか覚えてる? いや、そんな訳無いよね)

記憶は無くとも、意識のどこか深いところに刻まれていたのだろうか。女は悲しげな表情を浮かべる。心的外傷トラウマという名の傷が残ってしまったのは、少年の心の方だったのだ。


(あんなの、もう気にしなくて良いのに)

私は本当になんとも思ってないんだよ。女はもう二度と会えない過去の、あの日の彼に向かって言う。そして今度は今目の前にいる少年に対して呟いた。


「何も分からないのに、びっくりしたよね」

今日はゆっくり休んで。もう眠ってしまえばいい。それでまた明日、おはようって笑ってくれればいいから……。少年を抱いたままの女の目から、涙が次々に溢れ出る。その両手は少年の身体を支える為に塞がっており、涙を拭う事は叶わない。女は嗚咽が漏れないよう唇を噛んだ。そうして、涙が自然に止まるまで泣き続けるのだった。






この日、女の願いに応えるように少年は眠り続けた。女は割れた風鈴を片付け、布団を敷き、その上に少年を寝かせる。日も落ち、薄暗くなった部屋で女は少年の寝顔を見下ろしていた。


(あんなに取り乱すなんて)

状況から考えて風鈴が落ちたのは事故だろう。それが割れる音と、飛散した破片を見てパニックに陥ったのかもしれない。だってそれはあの日の状況とまるで同じだから。迂闊だった。まさかトラウマにまでなってるとは思わなかったから。


女は部屋を後にすると家中の風鈴、そして硝子製の置物類を撤去して廻る。不意にぶつかって、はたまた風で落ちてしまうかもしれないから。再びこうなることがないように。回収したそれらを書斎の押し入れに仕舞った。


そして少年の日記はと言うと。以前物置小屋で眠った時以来、初めて白紙のまま夜を迎える事になったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る