ペーパーウェイト

@sakamono

第1話 焼き鳥

 住んでいるアパートからJRの最寄り駅まで、通勤の行き帰りに宗一朗はいつもその商店街を歩く。商店街といってもアーケード街になっているわけでもなく、狭い道の両側に連なる個人商店が、てんでに店を構えているだけの、小さくて短いものだった。駅に近い、バス通りに面した入り口には、そこから商店街が始まることを示す看板が掲げられていて、宗一朗が夕方仕事帰りに通るとそれなりに買い物客でにぎわっている。周りは住宅街で、その中には家路を急ぐ人たちも多く混じっているだろうから、喧噪ほどには繁盛していないのかもしれない。

 駅側の入り口から入ると商店街の一番奥まったところに鶏肉専門の肉屋があって、夕方になると店先で焼き鳥が焼かれていた。宗一朗はその店でよく焼き鳥を買った。仕事からの帰り道、商店街が終わる少し手前の四つ辻まで歩いてくると、いい匂いがただよってくる。アパートへ帰るならば右へ折れるところを、匂いに誘われてつい真っ直ぐ進んでしまう。買った焼き鳥はアパートで夕飯に食べた。ビールを飲みながらの時もあれば、ご飯を炊いておかずにすることもあった。おかずの時はたれで、つまみの場合は塩で焼いてもらった。毎日焼き鳥だったら飽きるだろうと思いながらもつい買ってしまう。実際、三日続けて買ったことがあって、三日目には夕飯を食べながら大いに自戒することになった。これが仮にうなぎだったとしても同じ気分になったことだろう。でも、うなぎであれば値が張るから気軽に買うことができない。その点焼き鳥は値段が手頃なところがずるい、宗一朗は思ったものだった。

 宗一朗が初めてその肉屋で焼き鳥を買ったのは三ヵ月ほど前のことになる。まだ暑さの残る、夏の終わりかけの頃だった。いつから売り始めたのか気がつかなかったけれど、毎日商店街を歩いている自分が気がつかないわけはないから、きっとその頃から売り始めたのだろう。その日は仕事が休みの土曜日で、宗一朗は駅前の大型書店で時間をつぶした帰りだった。休日に特にすることもない宗一朗はよく本屋に行った。書棚の間を歩き回って背表紙のタイトルを眺める。気になった本を手に取ってななめ読みする。本屋にいればそれだけで休日の時間はすぐに過ぎた。好きなジャンルや作家には無頓着だったから、趣味は読書と公言してはいない。家で一人静かに酒を飲み、買ってきた本を読む。酔いが回るにつれ、次第に深く作品世界に入り込める。その感覚はなかなかに楽しい。子供の頃から一人遊びが好きだった宗一朗らしい休日の過ごし方だった。

 本を買った帰り、宗一朗はいつものように商店街を歩いていた。そしてアパートへ折れる四つ辻まで来た時、焼き鳥の焼かれるたれの匂いに鼻をつかれた。四つ辻を真っ直ぐ行った先にある肉屋の店先から煙が上がっている。今夜のつまみは焼き鳥にしようか、宗一朗は思った。思ったものの、買い物といえば大手スーパーやコンビニでしかしたことのない宗一朗には、店と客との距離が近い個人商店に入ることは緊張を強いられることだった。大丈夫、相手は商売をしていてこっちは客なのだ。自分に言い聞かせ、宗一朗は焼き鳥を焼いているおばあさんの前に立ち止まった。

「いらっしゃい」

 おばあさんが顔を上げた。年は八十くらいだろうか。宗一朗には自分の祖母と同じくらいの年齢に見えた。おばあさんはすぐに手元に視線を戻すとまた作業を続けた。電熱器の上に置かれた串をくるくると回す。したたり落ちた脂が音をたてる。隣りの台の上に、焼き上がった串が部位ごと分けられて皿に盛られている。皿には小さな札が付けられていた。ネギ間、皮、レバー、ハツ。そうした定番に加え合鴨があって、宗一朗はひさしぶりに鴨を食べてみたくなった。子供の頃、狩猟が趣味だった父親に獲ってきた鴨の羽をむしらされたことがあった。それを思い出したのだった。最初はこわごわと気味悪がっていたけれど、父親が猟期の間はよく獲ってきたものだから、怒鳴られながらすっかりコツを覚えてしまった。羽をむしられた鴨は文字通りの鳥肌で、不安になるほど小さくなってしまう。それでも食べると、とてもおいしかった。宗一朗は五種類をそれぞれ一本ずつ焼いてもらうことにした。注文すると皿に盛られていた串をもう一度電熱器にのせて焼き直し始める。

「これ、どうぞ」

 おばあさんがあめ玉をくれた。個包装されたぶどう味の小さなあめ玉だった。焼き上がるのを待つ間の、おばあさんなりのサービスなのだろう。宗一朗は封を切るとあめ玉を口に放り込んで焼き上がりを待った。

 そうしていると次第に客が増えていった。スーツを着た勤め帰りふうのくたびれた男、小さな男の子の手を引いた主婦と思しき女性、三人連れの若い女たち。注文を終えると、それぞれが道端で思い思いに焼き上がりを待つ。宗一朗も少し離れたところから、そんな様子を所在なげに眺めていた。おばあさんは次々になされる注文を手際よくさばく。淡々と注文をこなすその仕事ぶりには「お元気ですね」などと軽々しく声をかけるのがはばかられるような気概が感じられた。一日にどのくらいの数を焼くのだろう。立ち仕事だけれど客が引けた時は椅子に腰かけたりして休憩を取っているのだろうか。こんな個人商店に一日に立ち寄る客の数などたかが知れているのだけれど、宗一朗は何となくおばあさんの体を気遣う気分になってしまう。

 店先のガラス張りの陳列ケースには、鶏肉の他に照り焼きや唐揚げ、チキンロールなどの惣菜も並べられていた。その向う側、店の中で立ち働いているのは店の主人とその奥さんだろうか。主人は鶏肉の塊に向かって包丁をふるい、奥さんは揚げ物をしている。宗一朗から見れば父親と母親くらいの年齢の男女だった。おばあさんの息子夫婦だろうか、宗一朗は思う。半世紀以上前、この肉屋へ嫁いできたおばあさんに生まれた男の子が、長じて店を継ぎ、嫁を貰い、二世代同居で永らく商売をしてきたけれど、数年前に息子に店をまかせ、先代の主人は隠居した。その主人が去年急逝したのをきっかけに、元々働き者のおばあさんは、息子夫婦に無理を言って店先で焼き鳥を焼かせてもらうことにした。焼き上がりを待ちながら宗一朗の空想はとりとめなく広がっていく。

「おまちどうさま」

 おばあさんが辺りをうかがうように首をめぐらす。手にした油紙の袋には焼き鳥が入っている。道の端に寄っていた宗一朗は自分の分だと思って一歩前に進み出た。目が合うとおばあさんはもう一度「おまちどうさま」と言ってにっこり笑った。深いしわに縁どられた頬がつやつやとしていた。代金を支払って紙袋を受け取る。手のひらが温かくなる。

 口の中でかけらほどの大きさになっていたあめ玉を舌で転がしながらアパートへ向かって歩く。一瞬、舌に鋭い痛みを感じて立ち止まる。すぐに血の味がし始めた。小さくなってくだけたあめ玉のとがった角で舌を切ったのだった。その夜は遅くまで買ってきた本を読んだ。その間中ずっとセミが鳴いていた。

 そんなふうにして宗一朗はその肉屋で焼き鳥を買うようになった。宗一朗は最初の行動を起こすことにとても腰が思い質なのだけど、習慣になってしまうと今度はそれを変えることの方が困難になってくる。変化に弱い質なのだった。

 最初に買った五種類の焼き鳥で宗一朗は合鴨とハツが気に入った。合鴨は子供の頃の記憶より、ずっと脂が多くてやわらかく適度な歯応えがあった。野生のマガモと合鴨の違いなのだけど、そのことを宗一朗は知らない。ハツもたまに入る大手居酒屋チェーンの店で、食べることがあったけれど、そうした店のハツより大振りで食感が独特のように思われた。足繁く通ううちハツ二本、合鴨二本という注文が宗一朗の定番になっていた。

 頻繁に立ち寄っていたのだから、おばあさんも自分のことを覚えているだろう、宗一朗は思った。けれどあめ玉をくれることの他には、特に会話もなかった。このくらいの年になると人の顔も覚えにくくなるのだろうか。それとも得意客をことさら特別に扱ったりしない接客方針なのだろうか。買いに行く度に宗一朗は、もらったあめ玉をなめながら夕暮れの空に昇る煙と商店街を行き交う人たちを眺めて、焼き上がりを待った。道端でとりとめない思いに沈む、そのわずかな時間を宗一朗は好んだ。

 それから二ヵ月ほどが経った。肌寒く感じる日の方が多くなってきて、少しずつ秋が深まっていく頃だった。店先で焼き鳥を焼くのがおかあさんに代わっていた。おかあさんというのはおばあさんの息子の奥さんのことで、それは宗一朗の空想なのだけれど、宗一朗にはすっかり本当のような気がしだしていた。何かの理由で一時的に代わりをしているのだろう、いつものように焼き上がりを待ちながら宗一朗は思った。ところがいつまで経ってもおかあさんが焼いていた。

「はい、いらっしゃい」

 宗一朗が立ち寄るとおかあさんは、はきはきと声をかけてくる。注文するとお手本のような笑顔でにこにこと焼き始める。

「寒くなってきたねえ」焼きながらもよくしゃべる人だった。「今夜はビール? お酒?」

 そんな具合だった。宗一朗の方が「はい」とか「ええ」とか、さえない相槌をうっていても頓着せずによくしゃべった。ふくよかな体つきとにこやかな雰囲気が、宗一朗を不安な気持ちにさせるのだった。

 閉店間近の時間に行くと売れ残っていた唐揚げを二、三個、ガラス張りの陳列ケースから取り出して焼き鳥を入れた油紙の袋に入れてくれることもあった。けれどあめ玉をくれることはなかった。ここへ通うのはもうよそうか、宗一朗はちらりと思った。思っただけで、まだしばらくはここへ通うだろうことも、宗一朗には分かっていた。その後も度々、宗一朗はおかあさんの焼く焼き鳥を買った。

 最近になって時々、若い女性が焼き鳥を焼いていることがあった。今までに見たことのない顔だった。肉屋の家族構成について宗一朗が何か知っているわけでもなかったけれど。三十代の半ばくらい、自分と同じくらいの年齢だろうか、宗一朗は思った。電熱器の上で焼き上がる串を真剣なまなざしで見つめる。その顔つきは一所懸命な仕事ぶりというより、不慣れな故の余裕のなさに思われた。焼き上がりを確認して油紙の袋に入れ「おまちどうさま」と言って手渡す時、緊張から解放されたホッとしたような笑顔を見せるのだった。

 小さな個人商店がついでに売っている焼き鳥のために、わざわざ人を雇ったとも思えない。おばあさんの息子夫婦の娘ではないだろうか、宗一朗は思った。結婚して家を出ていたから今まで姿が見えなかったのだ。旦那とのちょっとしたいさかいがあって一時的に実家に身を寄せているのかもしれない。結婚するまで使っていた自分の部屋はそのままだったから、そこで毎日怠惰に過ごしていれば「働かざる者食うべからず」などと母親に言われることもあるだろう。それとももっと深刻な事態だろうか。正式に離婚して戻ってきて、実家のこの店で本格的に働くつもりだとか。宗一朗の空想はとりとめがない。ただ、焼き鳥を入れた油紙の袋を手渡してくれる時の、困ったような笑顔はいいな、と思った。

 このところ店を閉めていることが多くなった。店先のシャッターが半分だけ下ろされている。ガラス張りの陳列ケースの脇に中に入れる扉があるので、家からの出入りのためだけにシャッターを半分開けている様子だ。出入り口がそこしかないとは思えないから、商店街に面した店先から出入りするのが便利、ということなのだろう。

 焼き鳥はたまに焼かれることがあった。たいていは出戻りの娘(と宗一朗が思っている)が半分下りたシャッターの前で、電熱器の上に串を置いている。すっかり寒くなって買う方も道端で焼き上がりを待つことが億劫になったのか、客も少ない。宗一朗は焼き鳥が売られていれば必ず立ち寄った。

「お店、どうしたんですか?」

 焼き上がりを待つ間、宗一朗は聞いてみたかった。けれど聞けずにいた。人に何かものを尋ねるには、正当な理由がなければいけないように宗一朗は思っていたのだ。そうしているうちに焼き上がった焼き鳥を出戻りの娘が油紙の袋に入れて差し出す。

「おまちどうさま」

 相変わらずの困ったような笑顔だった。いつも通りなのだな、宗一朗は思った。


 今日も閉まっている。

 年が明けてから店の前を通るたび、そう思うことが多くなり、いつの頃からか恒常的に閉まっている状態となった。下ろされたシャッターに何がしかの「ごあいさつ」の貼り紙が貼られることもなかった。

 街中の雑踏でおかあさんを見かけることがたまにある。顔を合わせればあいさつくらいはするし、話好きのおかあさんは話しかけてもくる。おかあさんは店を閉めたことについて話題にしなかったので、宗一朗も聞けなかった。

 出戻りの娘を見かけたことが一度だけあった。小さな児童公園でベンチに腰かけ、砂場で遊ぶ四、五歳くらいの女の子をぼんやりと眺めていた。

 おばあさんを見かけることは、その後なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る